ジャックは笑う(上)
ハロウィン。毎年神無月の末に行われるこの一代行事の起源は、古代ケルト人によって行われていた祭りのことで、秋の収穫と悪霊退散を願って行われていたそうだ。近代においてはとにかく南瓜に顔を彫り、「トリックオアトリート」の掛け声と共に子供達が近所中からお菓子を搾取していくのが一般的である。その頃になれば、街の雰囲気も自然とハロウィンの方向へと意識を向けていく。各デパートやら百貨店ではハロウィンものの服やアクセサリー、ちょっとした小物まで、世間が南瓜に埋め尽くされる。
秋晴れの空に、閑静な住宅街。そこを歩く学生の波。この風景にどこか風情を感じてしまうのは、自分だけだろうか。
今日は十月の三十日。ハロウィンを翌日に控えたこの日も、世間はハロウィンに心を躍らせながら、平然とした一日を送ろうとしていた。
かく言う俺もまた、大多数の人間と同様に平然とした一日を送っていた。ただ一つ、その大多数と違うのは、俺の心は世の「お菓子回収祭」に心を躍らせてなどいないということだ。
「おーい、御原ぁ!」
朝、家を出て数分ほど歩いた俺に、後ろから声が掛かってきた。振り返った俺は、友人の村山大樹の姿に軽く手を挙げて応答した。短く、少し乱雑に揃えられた金髪は、俺の応答を確認するや否や駆け寄ってきた。
「どうした、そんなに面白そうな顔して」
俺はやけにいつもよりも笑い顔二割り増しの大樹に対してそんなフリをしたが、直後、俺は後悔した。この男がこんな笑顔を学校に向かわねばならない気怠い朝の時間帯に俺に向けるということは、何かしら俺に対して――大樹だけが――面白いと思うちょっかいを出すつもりの時だけだということだ。
「ふふん、時に御原歩人よ」
間違いない。これは間違いない。
「なんだよ」
「明日用のお菓子の準備はできてるか?」
「ハロウィンか。別に俺には関係ないことだろ?」
実際そうだった。今まで十八年生きてきたが、一年に一回のイベントで盛り上がったのは小学生のころの誕生日とクリスマスくらいだ。その理由もいたって単純。自分だけに対して、自分の所望したプレゼントが貰えるから、という理由だ。だが、中学生になると共に突入してしまった反抗期によって誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントもぱったり途絶えてしまい、それ以降家族からプレゼントをもらうことはなくなってしまったし、学校の友人で誕生日を知っている者どころか、知っていても大したものを貰えるわけではなかったから、すっかりどうでもよくなってしまった。
「またまたぁ、友だち少ないからってそう卑屈なるなって!」
その言葉の前半には大層反論したいところだったが、生憎俺には高校での友達は然程多くはなかった。少し話す程度の友人なら多少はいるが、どこかに遊びに行ったり、よく一緒にいたりする人間はかなり限られていた。
「あ、おっはよー! 大樹、歩人!」
数メートル先の曲がり角から姿を現したのは、秋野菜穂だ。ショート気味にしておろしてある茶髪の少女は、俺が行動を共にする数少ない友人の一人だ。というか、結局のところ、この三人がいつものメンバー、というのも回りの人間にはよく知られたことである。むろんのこと、菜穂は女子同士の繋がりも大層根強く持っているし、大樹もまた、男女関わらず多くの人間との関わりを持っている。羨ましいとは思わないが、寂しくないと言えば嘘になってしまうのも現実である。
「おっす、秋野」
「お前もやけに面白そうな顔を……いや、なんでも――」
「そうなんだよ!」
やってしまった。物事を深く考えずに会話を切り出すのは俺の悪い癖だ。この調子だと、菜穂からもハロウィン関連の話が飛び出してきそうな気がしてならない。俺はハロウィン自体にはそれほど興味関心はないというのに。
「明日ハロウィンじゃん? そこでさ、ちょっとゲームでもしない?」
しかし、ハロウィン関連とはいえ、大樹のよりも具体的かつ、少し面白そうな話が菜穂から飛び出した。三人の中では無類のゲーム好きを自称する俺にとっては反応せざるを得ないものだ。
「ゲーム?」
菜穂は俺が興味を持って聞き返したのを嬉しそうに頷くと、話を続けた。俺の横ではハロウィンに興味がなかった俺が話に参加し始めたことが可笑しいらしい大樹が肩を震わせながら顔を背けていたが、敢えて突っ込まなかった。
「明日のハロウィンで、お菓子が出せなくて最初にイタズラされた人が、した人の言う事一つ聞くっていうゲーム!」
要は、お菓子をライフにした争奪戦というわけだ。さすがに罰ゲームで家を買えとか言う事はないだろうが、ファミレスの奢りくらいは覚悟するだろうが、逆にこっちからイタズラできたら、奢られることができるのだ。少しリスクの高い話ではあるが――。
「いいよ。その話乗った」
俺はちょっと得意気に拳を顔の位置まで挙げた。にんまりと笑顔を浮かべた菜穂もそれにつられるように拳を作り、俺達は軽く拳をぶつけ合った。
思えば、今まで三人でこうして、世の盛り上がりに合わせた遊びをしたことはほとんどなかったような気がする。俺と大樹、菜穂が知り合ったのは一年生の春の時だった。出席番号の近い俺と大樹が親しくなるのは時間の問題ではあったが、菜穂と知り合い、親しくなったのは偶然の産物ともいえるだろう。きっかけはその年の学級委員として名乗りを挙げたのが大樹と菜穂だったからだ。そこに俺がどう関わったと言えば、大樹が俺を補佐に任命してきたからであった。当時学級委員長一人に男女の補佐を一人ずつ就けるという制度のおかげで、三人は知り合い、以後親しくなっていくことになった。二年生の時には一度全く別々のクラスにはなってしまったものの、三年生でまた同一のクラスに三人が集まれたのはある意味奇跡とでも言うべきものだった。更に今年は他の立候補者に学級委員の座を明け渡したため、比較的三人ともある程度の自由を謳歌できていた。
今年、俺達は最後の一年を過ごすことになる。学力的には菜穂、俺、大樹の順になっているが、進学する予定の大学は全員が違う場所だった。菜穂はある程度有名な進学校への受験を行うことになっているし、俺もまた、近場のうちでは一番上層に位置するであろう大学を受験する。大樹は俺や菜穂に学力で劣るために、少し遠い場所に目星をつけて勉強していた。
俺も菜穂も、できれば大樹に合わせて三人で同じ大学へ、と思っていたのだが、そう簡単にそれが叶わないのが現実だった。何より大きかったのは、菜穂の親が頑なに反対したからだ。寮費がかかるから近場にしろと言われた俺なら、まだ「バイトでなんとかする」と理由付けして大樹に合わせることができただろうが、両親の期待を図らずも背負わされている菜穂はそれができなかった。結局は将来の就職のため、ということになるのだが、秋野家は典型的な「世間体第一」家族であった、というのが簡潔な理由だろう。
俺や大樹が菜穂のそんな事情を菜穂自身から知らされた高校二年の時、俺はただ絶望に打ちひしがれてぶつぶつと「そんな」「なんで」と否認の言葉を呟き、大樹はやり場のない怒りを壁にぶつけ、菜穂はただ「ごめん」と繰り返しながら泣いた。俺達が一年と数ヶ月で築き上げた友情はもう、客観的な「仲が良い」という以上のところまで、その時すでに達していたのだ。
「だったら、楽しもうよ」
否認の末に俺が辿り着いた答えは、ある意味残酷だった。
それは、いずれ訪れる別れの時を、その日を納得し、理解することを先延ばしにする、ある意味最悪の答えだった。
そして、俺がその答えにただ一人辿り着いたばっかりに、二人に考えることを放棄させてしまった。辛いことを受け止めず、放り出し、後回しにし、目を背けた。
その日から、親の言葉も教師の言葉も半ば聞き流し、俺達は日々を楽しむことを決めた。もちろん、三人とも受験を控えた身であるがゆえに、遊ぶ回数も減ったし、三人の中では成績不振な大樹もまた、悪態をつきながらも受験勉強に勤しむようになった。
今回のハロウィンイベントもまた、そんな俺の無責任な呟きの一つから生まれた、ささやかなイベントになるのだろう、と俺は思っている。し、実際そうなるだろう。
だが、俺は十月三十一日という日が、人生の大きな分岐点に立たされるのをまだ知らない。
家に帰った俺は、妹と母に「ただいま」と帰宅を知らせ、まだ仕事から戻らない父の帰りを、自室で勉強しながら待つことにした。
幸いにして、うちには小さくはあるが大量の飴があったはずだ。無暗に貪らなかったのはある意味奇跡とも言えるかもしれない。
「いや、待てよ……?」
明日ハロウィンなのは自分達だけではない。親も妹もまた、ハロウィンを同じく迎えるのだ。そうなれば、数限られたあの飴も僅かしか手元に残らないかもしれない。こうなれば、取られる前に取るしか――。
「お兄ちゃん?」
ノックの音に続いて妹、御原歩美の声がした。どこか先手を打たれたような気がして、俺はどこか悔しさを覚えたが、まだハロウィンのことなのか、飴に関することなのかまだ確定ではない。とりあえず、応じるだけ応じてみるべきだろう。
「どうした歩美?」
なるべく平静を装う。ここで歩美が「飴は私が持っていく」などと言い出したら何気に面倒である。俺は一つ、息を呑んだ。
「お菓子…‥」
負けた。俺はその言葉に敗北を感じ取った。このままでは大樹か菜穂のどちらかに金をかっさらわれるのは時間の問題だ。
「……買いに行かない?」
「――へ?」
妹の続いた言葉に、俺は思わず間の抜けた返事をしてしまった。まさかこんな展開になるとは全く予想していなかったからである。
「ほら、明日ハロウィンでしょ? お兄ちゃんもお菓子を求めてくる友達の一人や二人はいるだろうし、持っておいて損はないと思うけど?」
なんだが遠回しに友人の少なさを突かれたような気がしたが、考えないでおこう。ともかく向こうから和平条約を切り出してきたなら、乗らない手はない。しかし、まるで俺が飴を必要なのを知っているかのように妹も行動してくれたものだ。いつもこう察しが良く気が利く妹ならばいいのだが――。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「ああ、いや……分かった。五分待ってくれ。着替えてからいくから」
「うん。下で待ってるよ」
少し微笑んだ歩美はゆっくりドアを閉めると勢いよく階段を駆け下りていった。
外の気温はとても過ごしやすいものとは言えなかった。秋めいた今日この頃は日中こそ涼しげな風が吹き抜ける時分だが、夜はそれが冷たい夜風に姿を変える。そこそこに厚手の服を着込み、俺は歩美と外へと繰り出した。
「うわ、さむっ」
外に出た俺の第一声はそれだった。それを裏付けるように、俺と歩美の口からは吐息が白く闇に溶けていた。夜道を照らしているのは家々から漏れる明かりと街灯、そして月の明かりだけだ。車の通りも比較的少ない家からコンビニまでの道のりは、俺がなかなかに好きな場所だった。静寂に包まれ、世界から隔絶されたような感覚。その感覚が、俺は好きだ。
コンビニまでの五分ほどの道のり。歩美は初っ端、話を切り出した。
「お兄ちゃん、初めてじゃない? ハロウィン用にお菓子買うの」
「まぁ、な」
確かにそうだった。今までのハロウィンも、高校時代だけでも護身用の飴玉三、四個だけで、特にハロウィンというイベントに積極参加したわけではなかった。こんな企画はハロウィンとしては初めてだった。
「にしてもお兄ちゃん大丈夫なの? 今年受験なのに」
「まぁ……ってそれはお前もだろ……」
俺は今年、大学受験であるが、歩美は今年、高校受験である。だから、受験云々で俺が歩美から苦言を呈される覚えはないのである。もし何か言われようものなら、オウム返しして突っぱねてやるのが、今年の俺と歩美の会話関係だった。
「まぁね。お兄ちゃんなら勉強はなんとかなるにしても、彼女の方はどうなの? 作らないの?」
「うるさい。そう簡単にできたら苦労しねぇよ」
少なくとも、中学校時代に初彼氏をゲットしたこの妹に言われたくないことだった。自分が俺を上回れることがそれしかないからって、何もそこを執拗に攻め立てる必要もなかろうに。
「すでに破局も失恋も経験したやつには、とやかく言われたくはないな」
それを聞いた瞬間、暗い路地の中でも、歩美の顔色が変わったのは分かった。
「な…ななななんでそれを知ってるの……」
「お前の様子見てれば、恋をしてるかしてないかフラれたかなんて簡単に分かるよ。何年お前の兄やってると思ってんだ」
「くっ……」
歩美が悔しそうに顔を歪めたが、すぐに溜息を一つ吐いて、話題を少し戻した。
「でもさ、お兄ちゃん。以外と近くに運命の人、いるかもしれないよ? 気づいてないだけで」
「そうか? 全然そんな感じはしないんだが」
何故か俺は、その時の歩美の言葉が、俺を慰めるとか、気休めで言ってるのではなく、妙に現実味を帯びていたような気がしてならなかった。
コンビニで飴を物色していた俺と歩美は、その最中にとある人物と遭遇した。
「あゆあゆ兄妹じゃん!」
「あ、菜穂さん、こんばんは!」
現れたのは菜穂だった。この様子だと、菜穂もまた、俺と同じ境遇と言ったところか。
「お前もヒットポイント稼ぎか?」
ぶっちゃけ言うと、俺は基本的には防御に徹するつもりであった。事実、トリックオアトリートと言えるほどの親しさを持つのは大樹と菜穂の二人だけであるし、ならば二人の菓子がなくなったところでとどめをさせばよいのだから。
「私は歩人みたいに受け身になんかならないよ。明日はクラスのみんなから根こそぎもっていくしね」
つまり、菜穂は徹底的に攻めに入るということか。一人から何個も取られるというわけではないだろうが、いつ取られてもおかしくはないな、と俺は、目の前のオフェンスタイプの少女を見て思った。
「まったく、お前らしいよ」
「私はいつでも攻めるからね。守っても勝てないし!」
「守りの末の勝利を、明日俺がお前にかましてやるさ。覚悟しろよ」
俺達は互いに不敵で得意げな笑みを浮かべてはいたが、そのペースに若干乗り遅れた歩美が他人のフリをし始めたころになって、自分達が店内にいることを思い返して、急に恥ずかしくなってしまった。
「ま、まあとにかく! 明日は絶対負けないからね!」
「おう、望むところだ」
そう言うと、菜穂は手頃な袋詰めの菓子を手に取ると、そそくさとレジへと赴き、風のようにコンビニを出て行ってしまった。
「ほらお兄ちゃん、早く決めないとご飯の時間に間に合わないよ?」
「ああ、すまん、今行くよ」
店を飛び出した菜穂とは対照的に、俺は再び、お菓子の物色作業に戻った。