ジャックは笑う(下)
翌日の朝はよく晴れていた。俺の目覚めも悪くはなかった。朝方という時間帯のせいもあり、少し肌寒くはあるが、まずまずの気候と言えるだろう。
結局昨日の歩美との菓子物色によって手に入れたのは、二十個入りの飴詰め袋だった。つまり、俺の今日のヒットポイントは二十。とにかくこれを維持し、菜穂か大樹か、どちらかのヒットポイントが尽きたところにとどめを刺しに行く体で、俺は動くことにしていた。
菜穂から昨日のうちに送られてきたメールには、俺達三人が望む「ゲーム」の内容が記されていた。
トリックオアトリートは必ず背後から行うこと。
お菓子を奪われた人は、奪った人に対しては無力。
同じ人からは二度と取ることはできない。
これさえ守っていれば、誰に対しても行っていいらしい。つまりはクラスの人間から手に入れる、ということになるのだが、生憎俺はそういう方向性でこのゲームを乗り切るつもりではなかった。
とにかく受ける。そしてできれば、受ける数を減らす。
俺はそのために昨日の買い出しを行ったのだ。削れるものなら削ってみろ。
「おはよう、お兄ちゃん! トリッックオアトリート!!」
朝一番からさっそく削られてしまったようだ。学校に着いていない以上、菜穂の提示したルールが適用されないとはいえ、さすがにこの屈託のない無邪気な笑みを浮かべる妹に対して、やり返して飴を取り返すというのはどうにも大人げないような気がして、俺は躊躇った。
底冷えするような、とまではいかないが、寒いと感じられるくらいには気温の低くなった住宅街を、目的地目指して練り歩く。何度も経験し、これからも経験するだろうことだ。だが、俺は今日に限ってこの道を通るときの何ともいえぬ緊張感を、生涯忘れることはないかもしれない。俺は何か部活に入ったことはなかったが、きっと何かの大会にでも参加する日の朝は、皆こんな気持ちなのかもしれない。
校門をくぐったその瞬間から、ゲームのルールは適用される。俺は決意と勇気を一歩に乗せ、背後を警戒しながら、何百回と通った校門を超えた。
教室に入った俺は、ここまで何もなかったことに安堵と落胆を覚えていた。もう少し張り合いがあるものかと思っていたが、菜穂や大樹がこのゲームのことを他のクラスメイトに話しでもしていない限り、こうなるのは当然の結果だった。
「トリックオアトリート、御原!」
自分の座席についた瞬間に背後からかけられた声に、俺は一瞬、身を震わせた。二年から一緒だったクラスメイトだ。そういえば、去年もこんな風に、教室に入ってきた俺にいの一番に声をかけて、護身用の数少ないお菓子を奪っていっていたな。彼にとっては、いたずらよりも、お菓子の方が目当てだろうが。
「あー、分かった分かった。やるよやるよ」
俺は苦笑いと共に飴玉を取り出し、手渡した。これからもこういうのが続いていくのかと思ったが、果たして、俺に声をかけるような人間が果たしてどれほどいるのやら……。
俺がそんなのんきに構えていられたのは、そんなことを思ってから十分もなかった。
朝から最初の授業開始までの間で、俺が奪われたお菓子はもう半数に達するところだった。まさかこんなペースでなくなっていくとは、思ってもみなかった。俺は朝よりもずっと背後を警戒しながら一日を過ごそうと懸命にもがいてはみたが、一瞬油断したところに、クラスメイトからお菓子を要求されるのだ。フィクション小説によくある、「閉鎖空間でのデスゲーム」を繰り広げる主人公はじめ登場人物の気持ちがなんとなく分かったような気がする。
その後も警戒こそしていたが、「こいつらプロか」と思ってしまうほどの速さで俺からお菓子を巻き上げていき、放課後にはもう一秒足らずで数えられるくらいにしか残っていなかった。
むろん放課後も俺に対するお菓子要求は止まらず、遂に残った飴は一個だけになってしまった。
すっかり日も落ちてきた頃、俺の疲れ切った背中に背後から声が投げかけられた。
「トリックオアトリート! これでいったかぁ?」
振り返った先に居たのは大樹だった。大樹は得意気に腕を組んでみせたが、生憎、大樹に対して俺の罰ゲームが発生することはなかった。
「残念だったな、大樹。ぎりぎり耐えきったよ」
そう言いながら俺は、最後の飴を大樹に渡した。付近に菜穂の姿は見当たらない。とどめを刺される心配はなさそうだ。俺は少し安堵しながらも、大樹との会話に勤しんでいた。少しずつ景色が橙から黒へと変わっていく中、俺は別れを切り出した。
「どうやら俺にもまだ運が残ってたみたいだ。今日はゆっくり寝れそうだよ」
「そうか。だといいがな」
「なんだよ、俺の安眠の邪魔なんてさせねーよ。じゃあな」
俺が背を向ける直前、大樹の顔に少し寂しげな表情が見えたような気がして、俺は少し引っかかりを覚えた。
俺が家までの帰路を歩いている間に、辺りは闇に包まれ切ろうとしていた。時間帯と景色だけを見れば、もう夜と称しても問題はないくらいだった。俺は何を掴む感覚もなくなったポケットに手を突っ込んだまま暗く溶けていく我が家への道を進んでいた。
俺は、背後に感じた気配に、抵抗するつもりはもうなかった。どの道飴はもうない。俺が奪うことに執心しないことは今日一日の行動から知れてることだ。だから俺は、敢えてその気配に一度、足を止めた。
「歩人」
その言葉と共にトントン、と叩かれた肩の感触に振り返った俺は、頬に指の感触を受けた。
「トリックオアトリート」
菜穂はいつものように得意気な笑みは見せなかった。でも、どこか嬉しそうなのは感じられた。
「負けたよ。もうお菓子は残ってないし」
俺は両手を挙げて降参のポーズをしてみせた。これで俺も、中々な奢りをさせられるってわけだ。
「私の勝ち、だね。じゃあさ、先にゲームの方、終わらせていいかな」
その声にいつものような活気が感じられないような気がして、俺は菜穂の方を振り返った。少し声が遠く感じたのは、彼女が下向きがちに話していたからだろう。
「ま、そういうルールだからな。覚悟はできてるつもりだ」
俺は一つ息を呑んで、菜穂の要求を待った。
それからしばらく、無言の時間が続いた。菜穂はなかなか要求を切り出してはこなかった。だからと言って俺から聞きだすわけにもいかなかった。俺はただ黙って、菜穂がその口火を切るのを待った。
「歩人。その……私と……付き合ってくださいっ!!!!」
――えっ。
俺は絶句した。さっきまでも何も発さないのという意味では絶句なのだが、菜穂の言葉には本当に言葉を失うという意味では絶句の意味はがっちり当てはまっていた。俺はしばらく、「えと、その……」と繰り返していたが、一度ゆっくり深呼吸して、菜穂を見た。
菜穂はこの機会をもってして、俺に想いを打ち明けてくれた。手段はともかく、勇気を持って俺に向かってきてくれたのだ。ならば、俺もまた彼女と、彼女の勇気と、彼女の想いに向き合わなければならない。
「その……本当に俺でいいんだな?」
「……うん」
菜穂の返事を聞いて、俺は一つ息を吐き、ゆっくりと、再び菜穂を見た。
「よろしくお願いします。菜穂」
その言葉に勢いよく顔を上げた菜穂の両目から涙が流れているのを、俺は見逃すことはなかった。
「ありがと……じゃ、続いていたずらの方、しちゃおっかな……」
「え? ちょ、な――」
俺の言葉の続きは、菜穂の唇によって塞がれた。
それは、今から数日前、歩人が知らないところで動き出した話だ。
「秋野、お前のことが好きだ」
そんなありきたりな告白を受けた菜穂は、その答えに対して「ノー」の答えを返した。
相手は、今までの高校生活を共に過ごしてきた村山大樹だった。彼がいつから菜穂のことを好いていたのかは分からなかった。つい最近になって自分の恋心に気づいたのか、あるいは一年のころから一目惚れでもしていたのか。菜穂は、大樹のことは好きだ。だが、それは決して男女としての関係の上での好きではなかった。自分にとって大事な友達であるし、何より、自分一人の家庭事情のせいで、三人がばらばらにならなければならないという現実に対する詫びもある。でも、それとこれとは話が違う。大樹とは、大事な友達として、これからもずっと一緒にいてほしい。それが、菜穂の気持ちであり、答えだった。
「あーあ、フラれちまったかぁ。秋野、他に好きなやついるの?」
「えぇっ!? そ、それは……」
突然の質問に対して、菜穂はなんの準備もできずに反応してしまい、誰が見ても一発で分かってしまう口調と仕草を晒してしまったのだった。
「もしかして御原か?」
その名前に、菜穂は赤面し、黙りこくってしまった。まさか一発で言い当てられるとは思っていなかったのだ。こうなってしまっては、大樹にはどうあがいても取り繕い切れることはないだろう。菜穂は諦め半分に、顔を背けたまま小さく頷いてみせた。耳まで赤くなってしまっているのは、熱を帯びているせいで嫌でも自覚していた。
「そっか。ならよかったよ。あいつ以外だったらどうしようかと思ったからな」
もしかしたら、大樹自身は気づいていたのかもしれない。菜穂が大樹に気があるわけではないことを。もしかしたら、菜穂の気は歩人にあるのでは、と。それでも、自分の気持ちに決着をつけに来たのだ。
「想いは伝えないのか?」
「私には、そんなことできるような機会がまずないからね……」
実際そうだった。三人でよく一緒に登校するし、学校ではよく一緒にいる。だが、菜穂が大樹、歩人と決定的に違うのは、受験する大学だった。菜穂自身は、歩人と共に、大樹の通う大学へと進学する。そうすれば、三人はまた一緒にいられる。でも、現実はそう簡単に人生を決めさせてくれない。自分の人生を、道を、自分で切り開くことができない。それができない自分に、どうしようもなく苛立ってしまう。自分で何か道を切り開けないのか。このまま、流されるままにつまらない人生を送らなければならないのか。
「じゃあさ、伝える機会、作ろうぜ」
大樹からの提案に、菜穂ははっとした。
「どうやって?」
菜穂のその質問に、大樹はほとんど時間を置かずに返してみせた。
「――ハロウィン。その日ならいけるかもしれない」
それから、菜穂と大樹は、ハロウィンに向けて様々な準備を始めた。どういう形で菜穂の気持ちを伝える場を整えるか、そのための手順はどうするのか。菜穂の告白のために、クラスメイトの協力もとりつけた。果てには歩人の妹、歩美にも協力を仰いだ。歩美は最初、なんとも驚いた顔をしてはいたが、その内容を聞かされたころから、なんとも悪そうな笑みを浮かべたものだった。
準備を進める中、菜穂は大樹に、呟くように言った。
「大樹、ありがとね。フった私のために、ここまでしてくれて」
「そこは関係ねぇよ」
大樹は菜穂に視線を向けぬまま、ただ真っ直ぐ前を見ていた。
「俺達は誰よりも仲が良いと俺は思ってる。秋野が幸せになれば、俺はそれで幸せだし、御原が幸せになるのも、俺は幸せなんだ」
全ては、友のため。
そうして必死に動いてくれることが、菜穂は嬉しかった。だからこそ、彼の働きに応えなければならないとも感じた。ちゃんと自分の口で、想いを寄せる者へと、自分の気持ちを。
「だからさ、もし御原がお前を不幸にさせたら、俺に一発殴らせろ。自己中な俺にな」
その言葉の意味に少し考えてしまったが、すぐに先ほどと繋がった意味であることに気づき、菜穂は笑いながらも拳を掲げた。
「うん、よろしくね!」
菜穂と大樹は、拳を打ち付けた。
少し体を離して、俺は菜穂の顔をまじまじと見つめていた。菜穂は暗がりでも分かるほどに顔を赤くしていた。俺はそれから、改めて今自分がした――というよりはされた――ことの重大さに気がついた。放れたばかりの唇を拭くような失礼な真似こそしなかったが、それでも、動揺は隠しきれなかった。というよりは動揺を覆い隠せるような心境ではとうていなかったのだ。
「だ、大胆すぎるいたずらだな……まったく」
なんとか口をついて出すことができたのはそんなありきたりで、どこか色味のない台詞だった。だが、これが今の俺の精一杯だったのだ。どうしようもない。
「このくらいしないと、罰ゲームらしくないじゃん?」
「ま、お前からのキスっていうのも、ある意味罰ゲームかもな」
「ちょ、それどういう意味!?」
菜穂がちゃんと言葉を返してくれたおかげで、俺はいつもの調子を取り戻していた。そうだ。きっとそうなんだ。俺と菜穂の関係が変わっても、たとえ俺たち三人がばらばらになってしまっても、何一つ変わることなどないのだ。三人でくだらない話をして、ただただ笑い合い、たまに苛立ついたずらをされたりしながら、それでも三人で進んでいく。どこにいても、それは変わらない。俺はそんなことに、今の今まで、気づくことができなかったのだ。
「でもま、うれしい罰ゲーム……かな」
決まり悪くなって目を反らしながら頭をかいてみせた俺に、菜穂はその体を正面から預けた。その体は、思っていたよりもずっと暖かくて、安らぎを感じた。制服越しでも、菜穂の鼓動が伝わってくるのが感じられる。たしかに菜穂はここにいるんだと、実感できていた。
「つきあってくれるなら、ちゃんと幸せにしないと許さないからね……」
俺に体を埋めたまま、菜穂はそんなことを言った。「当たり前だ」と返す俺に、菜穂は背中へと手を回した。ぎゅっと締められる感覚。俺もまた、菜穂の背中に手を回し、同じように手を回した。今まで一度も経験したことがなかった。これが、誰かを抱きしめるということなのだろうか。
「なぁ……菜穂」
「分かってる。どうせ『今度は俺から』とか言うんでしょ?」
俺はずばり当てられてしまって一瞬焦ったが、すぐに苦笑いと共に口を開いた。
「まいったな、こりゃ」
「あんたに惚れたんだから、そのくらい分かるんだからね……」
菜穂が、いつもの得意気そうな笑みを小さくしてみせた。今までたくさんの菜穂の笑顔を見てきたが、一番優しい笑顔だったかもしれない。
俺達はいつか必ず、ばらばらの道を歩いていくことになる。そして、その日はもうすぐそこまで近づいてきてる。いや、むしろすでに同じようで違う道を歩き始めているのかもしれない。それでも、俺達の想いは、絆は、道を別々にしたところで壊れも千切れもしない。俺はそう確信している。地球は丸い。俺達は進むしかない。それならきっと、いつかまた三人が同じ場所に行きつく時が来るかもしれない。出会いがあれば別れがある。俺達はそんな当然のことを、俺達が生きてきた十八年間と、出会ってからの三年間の全てを持って受け入れなければならない。俺にその覚悟があるのかはまだ分からない。もしかしたら、覚悟もないままにその時を迎えてしまうかもしれない。
ならば、せめて今を享受し続ける。別れに悔いなど残すことなく、今を楽しみ、今を生きる。大丈夫だ。たとえ別れが来ることになっても、俺も菜穂も大樹も、決して一人じゃない。どんなに遠くても、きっと近くに居続ける。
「トリックオアトリート、菜穂」
「……お菓子はあげないんだから」
俺は、今度は自分から菜穂の唇へと自らのそれを重ねた。
一人の少女の想いが実った今宵、世界のどこかで、何も知らないかぼちゃのジャックは笑う。




