33話 運命の嘆き、未だ届かず
聖法歴1019年6月10日
彼女と彼が対峙する。
――私の制止は届かない。
間に割って入ろうにも、今の私にはそれほどの力はない。
保護した少女を守るので精一杯。
出来ることは、後始末を多少誤魔化すぐらい。
そんな無力な自分に歯噛みする。
――力が解き放たれてしまった。
ささやかな抵抗虚しく、彼からはゆらりと紫炎が巻き上がる。
普段の彼の理力とは異なる青紫色の力。
湧き上がると同時に、周囲へと今までの比にならない重圧がかかる。
空気も薄くなり、ここだけ別世界に切り取られたようだった。
対面にいる彼女も、驚愕と恐怖に顔を染め、口を半開きにして固まっていた。
彼が動く。
結果は目に見えていた。
瞑目して、静かに深呼吸をする。
腕の中の少女を守る結界を強め、そっと地面に横たえる。
腹に力を籠め、全身に喝を入れると、彼らの元へと着実に歩みを進めた。
この惨状の原因は、少し前へと遡る――。
◆◆◆
今日はゼインと二人、ソール連邦のとある森の中に来ていた。
「こんなところに何の用だ?」
「実は私もよく知らないんだ。同じ特務捜査官のカーリンという女性から、秘密裏にここで会って話がしたいとだけ連絡が来たんだ」
私の説明に、何で自分も連れて来たのかと言いたげに目を細めていた。
「遠回しに君も連れてきて欲しいと書かれていたんだよ」
正確にはもう一人の特務捜査官をとの要望だったが、私の身近で該当するのはゼインしかいない。
ゼインも客員特務捜査官であるので少し怪しいところではあったが、ヴェロニカほどではない。
彼女は割符を持っているだけで、その身分を有していないのだから。
彼女は魔界と地上界を行き来するための身分が欲しいだけだ。都合よく使う代わりに、悪魔の護送や連絡等の雑事をこなす取り交わしをして。
本当の彼女の目的を私は知り得ないが、地上界に居続ける必要があることだけは聞いていた。
そこまでは知らないだろうが、彼も彼女が特務捜査官ではないことは知っていたので、仏頂面で鼻を鳴らすに留めていた。
約束の時間になると、茂みをかき分けて数人の人影が現れた。
「カーリン?」
「ニネット?」
二人の声が重なる。
現れた人数は四人ほど。
大人が三人もいる中で、彼の知り合いらしき少女だけひと際異彩を放っていた。
淡いピンク色のボブカットに、白群色のくりっとした瞳があどけなさを醸し出している。
そんな少女だったが、その瞳に生気は感じられず、どこか虚ろな表情をしていた。
……いや、彼女だけじゃない。今現れた人たち皆、似たような雰囲気だった。
警戒しながら彼女たちを見据える私とは裏腹に、隣のゼインは困惑したまま少女を心配そうに見やっていた。
すぐ動き出さないのは、彼女たちのその異様な様子からだろう。
何となく嫌な予感がしてきた。
それを裏付けるように、彼女たちの来た方向から、一人の女性が登場する。
「ごきげんよう、オーギュスト。久しぶりね」
「……カーシモラル」
声を掛けてきた彼女の名前を苦々しげに呟く。
なるほど、そういうことだったのか――。
道理で見たことある状態だと感じていたら、彼女の仕業だったとは……。
本当に用があるのは彼女のほうだ。
私の呟きを聞いていた訳では無いだろうが、ゼインもすっと目を細めて警戒する。
「悪魔、か……?」
流石の彼もすぐには気付けなかったようだ。
それもそうだろう。
彼女は掛け値なしの上級悪魔――それも、強化や隠蔽などの補助に特化した魔法を使う。
今まで彼の出会った悪魔とは格が違う。
それでも、彼女が悪魔であることは嗅ぎ分けたらしい。
彼女も意外だったのか、少しだけ目を大きくしていた。それでもなお、悠然とした態度は崩さなかったが。
「あらあら、凄いわねおチビちゃん。オーギュストに聞いた訳でもないのに気づくなんて、ますます欲しくなっちゃったわ」
彼女の目的の一つが、彼を掌握することのようだ。
すかさず一歩前に出て彼を背中に隠す。
私の行動が無意味と言わんばかりに口角を吊り上げたカーシモラル。
酷く歪んだ三日月の口から、ゼインに向かって自己紹介が紡がれた。
「私の名前はカーシモラル。従一位『傀魔』よ、よろしく」
彼女は操られた人々の後ろで艶やかに微笑んだ。
◆◆◆
彼女の声明を聞いたゼインが、すぐさまニネットと呼ばれた少女を手元に転移させた。
彼としては、油断ならないカーシモラルから少しでもその少女を遠ざけたかったのだろうが、その行動はあまりにも悪手だ。
「――っ!? 今すぐその子から離れろ、ゼイン!」
振り返って必死になって叫ぶ。
手を伸ばして払いのけようとしたが、すでに遅かった。
彼は彼女を抱きかかえたまま、動きを止めていた。
「……お兄、ちゃん…………?」
彼女の魔法が解除されたのか、少女がおもむろにゼインを見上げる。
先ほどまで意思の感じられなかった瞳に光が灯り、不思議そうに首を傾げていた。
そのまま気付かなければ、との淡い願いは打ち破られる。
ふと、彼女は自らの手に感じる生暖かさに視線を落とした。
そこには、ゼインの腹部を刺し貫くナイフを握った己の手があったのだから。
少女の顔から血の気が引く。
唇をわなわなと震わせて彼から一歩遠ざかる。
頭を抱えようとして、自らの手を染める赤い血に発狂しそうになった。
「――ちがっ、ちがうの……。わたし、わたしじゃ――」
「――大丈夫だ、お前のせいじゃない」
今にも崩れ落ちそうな少女をゼインが抱きしめる。
優しくも力強い抱擁をしながら、彼女の頭や背中をゆっくりと撫でる。
「おに……、おにい、ちゃん……」
「安心しろ、これはただの夢――ただの悪夢だ。目が覚めたらなかったことになる。今は気にせず、ゆっくりとお休み」
泣きじゃくる少女の耳元で、柔らかな声音で優しい嘘を吐くゼイン。
彼女が落ち着くまでずっと――。
次第に泣きつかれたのか、強張っていた彼女の体から力が抜け、穏やかな表情で少女は眠りにつく。
その様子を黙って見守っていると、唐突にカーシモラルが声を上げた。
「あらあら、優しいのね。でも、傷を負っちゃ私には敵わないわよ」
彼女の言葉は本当だ。
あの魔法――「傀魔」の厄介なところは、呪いを帯びた武器で傷つけられると発動してしまうところだ。
もちろん、そんなことをせずとも、魔力抵抗の弱い者は遠隔で魔法を掛けられてしまう。中級悪魔程度なら、大抵の者は触れられただけでアウトだ。
少女が持たされたナイフも発動媒体だろう。
それを深々と突き刺されたのだ。ゼインといえども、抗えない可能性があった。
最悪を想定して、思わず奥歯を噛みしめる。
彼女と彼を両方警戒するように体を半身にする。
喉を鳴らして趨勢を見守る。
勝ちを確信したカーシモラルは、満足げに目を細めた。
まだ命令はしていないが、魔法は使ったとみていいだろう。
内心焦っていると、ゼインがおもむろに立ち上がった。
「――ニネットを頼む」
目は伏せられたまま、こちらに振り向きもせず少女を託してきた。
「分かった」
小さな少女を抱きかかえながら、彼の横顔を見つめる。
僅かに切れた白髪の奥、彼の瞳に宿る色を見た途端、私は声を荒げた。
「っ!? 止せ、ゼイン! その力はダメだ!!」
私の制止の声を振り切るように、彼は腹に刺さったナイフを引き抜いた。
その瞬間、辺りの空気が一気に淀む。
彼から発せられたあまりにも重く濃密な魔力の奔流に、私は堪らず膝をつく。
抱きかかえる少女にはすでに障壁が張られていたが、悲鳴をあげるように戦慄く。
慌てて私も少女を守るように魔法を展開した。
周囲の木々もざわめき、軋みの叫びをあげる。
操られていたカーリンたちも、糸が切れたように地面に倒れ伏す。
様変わりしたゼインの気配に、カーシモラルの顔も驚愕に染まった。
「……嘘よ、私の魔法が通じないなんて――」
彼女の言葉は続かなかった。
ゼインの白髪がはためく。
巻き上げられた前髪が、彼の瞳を露わにした。
左目が桔梗のような青紫色に染まる。
全身からゆらりと紫炎が立ち昇る。
対峙する彼女は、かちかちと歯を鳴らし、蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くしていた。
ゼインが動き出す。
一瞬で彼女との距離を詰めると、首を鷲掴みにして持ち上げた。
「うっ――」
苦悶の表情でゼインを見つめる彼女は、彼から逃れようと藻掻いていた。
彼は持ち上げたまま、光のない眼を見開く。
逃げられない彼女は、ゼインの瞳に吸い寄せられるようその奥を覗き込んでしまった。
変化は一瞬だった。
恐怖を張り付けた彼女の瞳が目まぐるしく動く。
全身痙攣しだし、口からは意味のない音が漏れていた。
ゼインが手に力を込めると、再び彼の瞳を覗き込んでしまう。
そこからはそれの繰り返し。
見る見るうちに土気色の肌になるカーシモラル。
唇は青ざめ、顔からは生気が失われていく。
体から汗やら涎やらが垂れ、彼女の下に水たまりを作っていた。
私は腕の中の少女の結界を限界まで強めると、そっと地面に横たえた。
◆◆◆
「すぅ……はぁ――」
大きく深呼吸をして、体に喝を入れる。
鉛のように重い足を引き釣りながら、彼らの元へと一歩一歩、歩み寄る。
彼に触れられる距離まで近づくと、そっと肩に手を置いた。
「――もう十分だろう。これ以上は君の身が持たない」
震えそうになる声を何とか吐き出し、ゼインに視線を向ける。
ゆったりと私に顔を向けた彼は、その瞳を紫紺に染めたままだった。
僅かに彼の目に光が戻る。
彼はゆっくりと瞼を閉じた。
再び開かれた瞳は、いつものルビーを思わせる真っ赤な色合いに戻っていた。
「……オーギュストか」
「我に返ってくれて嬉しいよ」
苦笑交じりに目尻を下げた。
少しだけ、ばつが悪そうに視線を逸らした。
改めて彼に掴まれたカーシモラルを眺めると、白目を剥いて口から泡を吹きだしていた。
どうやったらここまでの事が出来るのか……、皆目見当がつかない。
「彼女に何をしたんだい?」
おもむろに尋ねると、手に持った彼女を捨て去りながら、彼はぽつりと呟いた。
「……悪夢を見せていた」
「どんな?」
「知らない。絶望や失意、悲嘆を味わわせていただけだ。何を見たかはこいつ次第だ」
素っ気ない物言いだったが、彼も似たようなものを共有していた気配を感じる。
その証拠に、僅かだが右の瞳にはきらりと光る何かがあった。
静かに彼の頭に手を添えて、優しく撫でる。
言及しない代わりに、他のことを尋ねた。
「傷口は大丈夫かい?」
「ああ、空間魔法で塞いでいる。しばらくすれば直るだろう」
こういう時、彼の体質を恨めしく思う。
気休め程度でも回復魔法をかけるべきか、薬を飲ませるべきか悩みどころだ。
とりあえずは、しばらく安静に休ませることにする。
「後のことは私に任せて、ゼインは少女を連れて戻るといい。彼女の心も危ういだろうからね」
「……ああ」
彼らの住まう孤児院に頼れる大人がいればよかったのだが、今は誰もいない。
あの痛ましい事件を解決したのも、子供たちを守り通したのも、目の前の彼なのだから。
子供たちがまだ大人を信じられないのは仕方がないとはいえ、頼りになる大人がいて欲しいと切に願っている。
――私にその資格はない。
現に、今も彼の力に成れず、ただ後片付けをかってでただけの役立たずなのだから。
少女を抱きかかえるゼインの後ろ姿を見送りながら、私は一人、悲嘆に暮れた。




