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ラーティン帝国歴一八〇七年六月七日の昼下がり。
完全に雨季に入ったラーティン王国は、雨季特有の激しい雨に包まれていた。
外を歩くと三歩で服の濡れていない部分はなくなってしまう。
それほど強い雨が窓を打ちつける中、ユキコは部屋の中で一人、途方に暮れていた。
獣化する恐怖は、獣化していた時から四日経った今でも忘れられなかった。
体が全く違うものに変えられていく。
指が、爪が、足が、体が、顔が原型をとどめない。
とどめようとすることなどできない。
心臓を捕まれ、脳を捕まれ、人知を超えた何かを神というのであれば、あれはまさに神の所業。
他人が自分を操作し始めていることが体感として得られていた。
あれほど、自分の中に自分を感じなくなった経験は無い。
本能が強くなる。
そういった場面が少なからず人にもあるが、獣化症の場合は常時それが続く。
常に食べたい。常に動きたい。常に噛みつきたい。常に寝たい。
常に……殺したい。
人間性の消失。
まさしく、人では無くなる。
あんな体験はもう二度とごめんだわ……とユキコは思う。
ユウトの出していた論文。
あまり詳しくは読んでいなかったけれど、あながち間違いじゃないのかもしれないとユキコは考えていた。
彼の論文の仮説では体内に内蔵されたEEが完全に枯渇すると獣化症になるとあった。
ユキコにそんな状態がいつの間にか発生してしまったのかもしれなかった。
不意にユキコの左手の中指がぴくっと動く。
ユキコはしばらく中指を見つめ続ける。
中指はしばらくじっとしている。
ユキコが恐る恐る中指を動かしてみる。
思い通り動く中指。
体の動きが自分の意思に反しないことがどれだけ素晴らしいことなのだろうか。
「ふぅぅぅぅぅぅぅぅ………………………!!!」
ユキコは大きく吸った息を思い切り吐く。
ユキコが行った実験はある意味で成功だった。
——私は獣化症の存在を確認した。
——最初は、全身の産毛が少しずつ白くなっていた。
頭にも艶がある私の自前の髪の毛とは違う、硬く強い毛が混じるようになった。
それが、動物らしい毛であると気がついた時、正直、私は焦った。
すぐに全身から白い毛が生えるようになった。
髪の毛はもともと白かったから問題なかったが、顔中に生えてきてしまった時には必死で剃った。
背中に生えてきたときにはサコに剃ってもらった。
——そして、ユウトを私付きの専属医師とした。
もちろん、それだけが理由だったわけではないし、彼の役割は別に用意していた。
だが、私が獣化症を発症してしまい、獣化症を治せるのはおそらく彼だけだった。
彼は原因をすっ飛ばして、治ったと言う結果だけを約束する“ギフト”を持っている。
——さらに、彼は獣化症について研究までしている。
私自身は正直、実際に自分がその症状になるまで信じてすらいなかった、おとぎ話に出てくる病気。
私は彼を自分付きにして、実際に獣化症になってみることにした。
——だが、徐々に進むと思っていた変化は突如訪れた。
私は獣化症を完全にナメていた。
午前中に現れ始めた症状は草を食べたいという欲求が強くなる程度だった。
そこで、ユウトに会うわけにはいかなかったからベッドの中で必死に耐えた。
午前中の公務を終え、昼御飯を食べた後。
自室で本を読んでいたら全身がいっぺんに変化を始めてしまった。
あっという間に全身から毛が生え顔も体も人ではなくなった。
——慌ててチコとサコがユウトを探しに行ったが、エリュシダール家から追放されていた。
大学にもいなかった。私はその話を聞いて呆然としてしまった。
二人にはとにかく見つけるように言い聞かせ、部屋でじっとしていた。
その間も変化は続き、ついに見た目が完全にうさぎになった時、ユウトが窓から現れた。
どれだけ嬉しかったことか。どれだけ安心したことか。
うさぎでは涙が出なかったが。
——だが、彼は捕らえられた。カントが現れ、私の目の前からユウトを連れ去ってしまった。
あいつ、一体何を考えているのかしら……!
私の声が出ないのをいいことに、幅を利かせ始めた……。
なんとかしないと…ユウト……!
頭を抱えてベッドに座り込むユキコ。
ガチャリと扉が開く。
サコがしずしずと部屋の中に入る。
こんなふうに部屋に入ってくるのは突然の無礼な来客の時であり、ユキコは客の対応に気を引き締めなければならない。
「姫様。失礼いたします。お客様がおみえです」
「姫様、体調はいかがですか?」
サコの後ろから現れたのはカントだった。
近衛兵隊長の白くまぶしい制服に身を包み、ビシッと敬礼をする。
ユキコはベッドの端に座り自分のドレスのシワを払うとカントに対して微笑み、頷く。
そして、手で続きを促す。
「今、ユウトを捕らえ姫様の声を取り戻す方法を聞き出しております。
ですが、なかなか口を割りません。
声が出ずご不便をおかけしておりますが、今しばらくお待ちください」
カントは恭しく一礼して、謝意を表す。
ユキコはサコに目配せをして紙とペンを取り出させる。
ユキコはサラサラと流れるように文字を書く。
美しい流線が次々と描かれる。
『ユウトはどうしていますか?』
カントはそれを読んで顔をしかめる。
不機嫌を全く隠すことなく言う。
「ユウトは地下牢にしっかりと収容しております。姫様を蹂躙しようとした罪は重罪です。
しれに姫様の声を奪うという卑劣。
大変厳しい拷問を施し、必ずや、姫様の声を取り戻す方法を聴き出しますので、ご安心ください」
『拷問するのやめてあげて欲しいのだけれど。
声を戻す方法は無理して吐かせなくても教えてくれるはずよ』
ユキコのその主張に対しては高笑いするかのように言う。
「おや、誰かから拷問の話を聞いたのですか。
ですが姫様のご命令と言えど、そうはいきません。
一度は彼を専属医師とした情けからそうおっしゃっているのでしょうが、彼からは情報をきちんと聞き出さなければなりません。
慈悲はありません」
カントはそう言うとユキコを下から舐めるように見て、言う。
「姫様、私が声を取り戻す方法を聞き出した暁には、ディナーの席を設けます。
ぜひ、共に食事などいかがでしょうか?」
よく、拷問の話からそんな誘い話につなげられたものだ。厚顔無恥。人は恥をわきまえてこそ輝くのだ。
——あんたなんかに、私はもったいないわ。
ユキコはそんな心の声を表面にださず、にこっと笑いかけると、紙に書いた言葉を見せる。
『いいですね。ぜひ、ご一緒させてください』
カントは鼻の下を伸ばし、嬉しそうに笑いかけるとこれまでで一番深い礼をして部屋から出て行く。
サコはそんなカントの背中に向かってべーっと舌を出す。
カントが完全にいなくなったことを確認してサコが何か言おうとした時、ユキコは口に人差し指を当ててシーっ!っとサコに伝える。
そして、筆談が始まる。
『サコ、ダメよ。どんなに気持ち悪いって思ったとしても滅多なこと言っちゃ。
この部屋は監視されてるの』
サコは面食らった顔をする。サコはさらさらとメモ帳に言いたいことを書き込む。
『監視!? 誰か見ているのですか?』
『どういう風に監視されているのかはよくわからないけど、間違いないわ。
ユウトが捕まるまでの時間が短すぎるもの。
おそらく、真っ先に突っ込んできたところからすると、監視している現場主任はカントね』
『カント様が……。だとしたらこの筆談もまずいのでは?』
『それは大丈夫だと思う。
もし、中の様子まで見れるのであれば、私がうさぎになっていた時点でもっと騒ぎになっているはず。
流石にカメラを仕掛けるということはしていないはず。
していたとしてもそういった類はサコやチコが掃除の時にくまなく確認している。
千里眼のような“ギフト”も考えられるかもしれないけれど、やはり、私がうさぎになっていたことが話題にならないのはおかしいもの。
つまり、この部屋を監視する方法は盗聴くらいしかないということになるわね』
『にしても、変ですね。そもそも、ユウト様は専属医師として姫様の裸体をみることの許されている人物。
それが、夜な夜な診察していたところで近衛兵団が口出しできるところなどないでしょうに……』
ユキコは深刻そうに頷くと書く。
『そう、私もそれが不思議なの。
いったい何の理由でユウトは捕らえられたのか。
カントが言うには私を蹂躙しようとしたからって言う罪みたいだけど……。
なぜ、私の証言なしにその罪になるのか……』
『ですが、姫様。王族には。声なき者は語るべからずと言う習慣があります。
声を奪われた者は奪われるだけの理由があるとのことから、発言を許されません』
『そうなんだよね。私がこうして筆談で主張したとしてもそれは全て却下されてしまう。
今や、第一発見者のカントが罪のありかを決める立場になっているけど。
何か引っかかるわね』
サコは何かを考えこむユキコをしばらくじっと見つめていたが、ふと紙に書き込む。
『そういえば、姫様はどうしてユウト様が拷問を受けていることがわかったのですか?
どこからもそんな情報は入っていませんが?』
『それがね』
ユキコはこの話題になった途端、とても辛そうで、悲しそうな表情になる。
『私、ウサギになってたじゃない?』
サコは同意を求めるユキコに対して頷く。
『それからユウトに治してもらったんだけど、あれからすっごい感覚が鋭くなったの。
今では宮殿内の音が大体全部聞こえるのよ。
残念ながらまだ慣れてないせいかはっきりと聞き取るには混ざりすぎちゃってるんだけど』
『つまり、姫様はユウト様の声が聞こえると?』
『ええ。多分地下牢のどこかだと思うんだけど、詳しい場所まではわからないの。
さっきも聞こえてきたけれど、何であんなに痛めつける必要があるの?
もう悲鳴が聞こえなくなってしまった』
今にも泣き出しそうなユキコにサコは心配そうに書く。
この人は情け深い人だ。
一度、味方と決めた以上、絶対に見捨てたりはしない。
サコはそのこと、身を持って知っていた。
『私かチコ、ミギトが調べて来ましょうか?』
『待って、誰か訪問して来た』
ユキコはそう書く目に溜まっていた涙をぬぐい、とサコにペンと紙をしまうように指示する。
しばらくして、外で待機しているチコが部屋の扉をノックした。
声を失ったユキコはどうするのか……?
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