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十章

考え事は苦手だ。佑人はぼんやりと、机に寝そべりながら、既に無い選択肢を想像していた。梨香がこのままTG型として能力を伸ばし唯一無二の天才として生きていく世界を、パラパラ漫画の様に脳内で再生する。簡易な物語の世界は狭く、悪意の描写はない。指先を一枚ずつ減らし辿り着いた最後のページには言葉などなくても、多くない登場人物が幸せになったのが見て取れる。自分は何処かで、人生とはそういうものだと思っていた。わかりやすく苦しんでも、それがきちんと相殺される幸せがあるんだと、何処かで人生を優しい目で見ていた。でも、残酷だった。反社会的な行動をしなくとも、ある一定のレベルまで行かない人間は排斥の対象で、過度な才能もまた、簡単に受け入れられるものじゃない。梨香はどちらも経験させられてきたのだと思うと胸が苦しくなり、そう設計した父に恨み言を言いたくなった。佑人は座った自分の膝辺りを眺め、見上げるように天井に視線を向ける。うっかり目に入った蛍光灯が眩しい。慌てて閉じた瞳に残した残像を見つめながら、どうでもいいことをかんがえようとする心ほど虚しい物はない、と実感した。

 梨香の部品交換は最早、避けられない。佐川は選択肢の一つのように言ったけれど、実質あれはただの確認作業だった。いつかドラマで主人公の言っていた、「離婚届に書き込むのは最終作業であり、離婚が一瞬で決定した事象でない」の言葉を思い出した。そうなる運命のもとに、初めはそうとは気づかずに導かれ、たどり着いたが最後、抗いようなく受け入れた証拠を書き残すだけだ。

 覚悟はできているとはいえなかった。梨香との思い出は、まだ思い出にはできないほど鮮明で鮮やかだから、今はまだそんなに切ない気持ちは湧かない。けれど、十年後、二十年後、佑人にとって温かな思い出となった日々が、佑人の独りよがりになるのはつらかった。梨香の中から消え去った日々に自分だけが執着する姿など、耐えられそうにない。

 梨香の部品交換は選択の余地はないけれど、佑人には選ばなければならないことが二つあった。

 佑人は立ち上がり、力なく二階へと続く階段を上る。当たり前のように自室にこもっていた時は、階下へ下ることが億劫で仕方がなかった。自分だけの、自分を外界から守ってくれる世界から出たくなどなかった。今となってはシンプルに階段が長く感じる。こんなにも急な階段が続いていたのだと考えながら、階段を上り切って自室に入った。すっかり荷物置き場になった部屋の出窓に飾った、家族写真を見つめる。この前アルバムを漁っていた時に見つけた、数少ない家族三人での写真だった。日光東照宮の豪勢な門の前で、自分は父に軽々と持ち上げられていた。三歳か四歳くらい、正直に言えば佑人にはこの日光旅行の思い出はない。日光といえば小学校時代に修学旅行で行った記憶だけだった。

 若い父と若い母と、幼い自分と。皆半そで姿で、写真用ではない自然な笑顔をカメラに向けるなんて、一体全体どんな気分で写真を撮ったのだろう。シャッターを押した人間が芸術的に話術でもあったのだろうか。いずれにせよ、あのアルバムに収まっていた写真のなかで一番、自然な写真だった。それでいて、どんな写真よりも幸せそうに見えた。他人にカメラを預けてまでその一瞬を切り取っておこうと試みること自体が、幸せな人間のする行為だ。自分を不幸だと思いながら被写体になる人間など、おそらく世界中を探してもいないだろう。

 梨香と暮らし始めてから四か月が経った。

 床に積まれたゲーム機をティッシュで拭くと、薄っすらと埃が舞った。佑人は仕方なく窓を開け、ウエットティッシュで部屋の出ている部分を軽く拭いて回る。そんなことをするつもりでなかったけれど、そうしていると気が紛れた。父の書斎や押し入れに比べれば大した汚れでもないのに、妙に汚らしい気がする。テレビの角にたまった埃とか、ベット脇に落ちている髪の毛とか、生きていれば普通に出会うものであるはずなのに、それがいつの物かわからないと言うだけで嫌悪感が募る。

 佑人はしばらく、掃除に夢中になった。レコーダーを綿棒を遣って埃取りして、コンセントから伸びるコードを一本ずつ拭く。その場その場でコンセントに刺すものだから、家具の配置とコンセントの位置があっていなかったので、それも差し替えた。わりにすっきりと纏まったのを見ながら、携帯の充電をしていなかったことを思い出して、電気を消して部屋を出た。

 リビングで、梨香が一人座っていた。

「梨香、どうしたの?」

 佑人は声をかけながら、ふと、彼女はなぜこうも夜中に目を覚ますのだろうと考えた。

「どうしたの?」

「佑人君がいないから」

 梨香の顔は笑っていなかった。柔らかな頬に不満そうな空気をため、目元には冷たい光。

「部屋の片づけをしていたんだよ。もう寝るから、一緒に寝よう」

 佑人は宥めるように言った。まさか、そんなことを咎められるとは思っていなかったが、可愛い文句だとしか感じなかった。

 梨香は立ち上がり、佑人の手を取る。

「あ、待って。流石に着替えないと。それに、まだ歯も磨いてない」

 梨香がじっと、こちらを見つめてきた。露骨に何かを非難する瞳だった。

「佑人君。もう、良いよ」

「なにが?」

 梨香の目線に合わせようと膝立ちになり、彼女の肩に手を添える。柔らかいパジャマは、秋の深まりとともに布地が厚手になっていった。俯いていた梨香が覚悟を決めたように、顔をあげた。凛としたその瞳に、佑人は美しい女の姿を見た気がした。

「私もう、わかってるの」

「わかってるって、何が?」

「自分が存在すべきでないアンドロイドであること。今、世間が必死になってアンドロイドをふるいにかけていることも、自分が受け入れられない側であることも」

 佑人は絶句した。本当に言葉が出なくて、そんな自分が情けないくせに、慰めて欲しい自分がどこかにいるのを感じた。

「佐川さんが教えてくれたの」

 もしかしたら初めて、佑人は佐川を恨んだ。本当に裏切られたような気持ちで、ひたすらに悲しいと思った。

 梨香が微かに笑った。日本人特有の、誤魔化す様な笑いだった。

「そんな顔しないで。佐川さんが言ったんじゃないよ、私が教えて欲しいって言ったの。現状はわかってるからって。これから自分はどうなるのか教えて欲しかった」

 佑人は考える前に、涙がこぼれるのを堪えきれなかった。脳がぼうっと、まるでふやけて感覚を失ったように熱くなり、あっという間に頬に涙が伝った。それを見た梨香の表情が崩れ、彼女の腕が自分の首に回った。

「ごめんね、梨香」

 背中をさすりながら、こんなにも絶望的な気持ちに何度出合えばいいのだろうと考えた。人は必ず死ぬし、機械はいつか壊れるし、出会いはいつか別れに変わる。それでも、あまりに残酷だと、叫んでしまいたかった。こんな小さな子供に、心を持った存在に、十分すぎるほど苦しみを与えてなお、それを白紙に戻そうなんてあまりに残酷じゃないか。

「違うよ、悲しいのは梨香じゃない。佑人君だよ」

 小さくて柔らかい身体を抱きしめながら、佑人はもう一度ごめんねと呟いた。

「梨香は優しいね」

 こんな自分を、たとえ刷り込みだろうと惰性だろうと、思ってくれる存在がいることが嬉しかった。ただ、嬉しかった。想われているんだと気付けることが、嬉しかった。

「そうじゃないよ。佑人君」

 梨香は佑人の腕の中で身体をよじり、目を合わせてきた。涙の伝った頬を必死に動かしながら、彼女は言った。

「もうわかってると思うけどね、私の記憶力は欠落のないメモリーだから、初めて出会ったときの佑人君のことまで全部覚えているんだよ。初めて会った日、佑人君すごく困ってた」

 指摘されると気恥ずかしい。

「梨香のこと全然わかんないって顔して、どうすればいいんだって顔してた。でもね、優しかったよ。あの日からずっと、大好きなの」

 一度壊れた涙腺はもう、自力でコントロールできるものではない。次から次へと流れる涙を、佑人は拭わなかった。

「佑人君は優しい。ずっと、優しい。あの日も好きだったけど、今はもっと好き」

 優しくしようとしながら、それは欺瞞な気がしていた。優しくすることでいい人のふりができるならそれでいいと思った。

「まだ性能が十分じゃなくて学習機能が未発達だったときも、佑人君は困った顔はしてたけど嫌な顔はしないでいてくれた。沢山困らせたよね。ごめんね。でも、見捨てないでいてくれた。そういう所も、大好き」

 頭が痛くなる程涙があふれる。自分はこんなにもこの子を大事にしていたのだと思えば思う程、誰に向けたものかもわからない感情が倒錯した。

「なのに、ごめんね。あんなに優しくしてくれたのに何一つ覚えてられなくてごめんね」

「梨香、もういいよ。そんなこと言わないで」

 そう言うのがやっとだった。佑人は泣き崩れた。感情が自分でも説明できなくて、なにも後悔しようもないと分かっていながら、抉られた様に苦しくて泣いた。

 その隣で泣く梨香もまた、感情が分かっていないようだった。ただ、彼女の泣き方の方がずっと大人びていた。熱い涙に翻弄されることなく、ただ静かに涙をこぼしていた。自分の嗚咽だけが溢れるリビングは当然静かだった。

 何分経ったかわからない。頭が痛くなる程涙がこぼれ、幾枚ものティッシュが消費された。

 二人で互いに泣き疲れた顔で、ちょっと笑い合った。梨香の表情もひどかったが、自分はもっとひどいのだろう。佑人は冷蔵庫からオレンジジュースの大きなペットボトルを取り出す。梨香の好物だ。

「飲む?」

「うん」

 普段佑人は好んで飲みはしないのだが、甘い物でも飲まなければ頭がおかしくなりそうだった。

 グラスに鮮やかなオレンジを注ぎながら、大学受験の時に父親が何かとつけて、糖分が必要だとお菓子を買ってきていたことを思い出す。曰はく、自分も設計に夢中になると、チョコレートやらラムネやらお菓子で糖分を補給していたらしい。更に、

「夢中になると食事なんかどうでもよくなるだろうけど、ちゃんと栄養取らないと何処か鈍るからな。生活リズムも崩さないように」

 と、佑人が右から左にやっていることに気が付いていたくせに説教まで挟んできた。もちろん相槌も打たずに聞いていたが、内心では、夢中になってんじゃなくて必死になってるだけだと舌打ちをした。夢中になれる何かを持っている父に、何処かで嫉妬する気持ちもあり、酷い人だと決め込んでいた父の優しさには難癖をつけるように反抗していた。そうしなければ今までの嫌悪感に理由が付かなくなるし、喪失感への言い訳がきかなくなる。それは当時の佑人にとっては一大事だったのだ。

オレンジジュースを飲んで一息つくと、静かな夜を肌に感じた。今日はなんてことのない、平日の夜だ。明ければまた、何ともない普通の朝がやってくる。

「梨香。本当に後悔しない?」

 頭の奥が正常に働かない代わりに、熱くて冷静な気持ちが素直に出てくる。

「後悔って、したら変わることがあるの?」

「今日の梨香、ちょっと大人すぎるよ」

 そういうと、彼女は逡巡した後、

「だってずっと、子供のふりをしてたもん」

「え?」

 飲もうと唇に近づけたグラスをテーブルに戻す。梨香は吹っ切れたようにあっけらかんんとした口調だった。

「夏休みの間中、暇でしょうがなかったから、ずっと本を読んでたの。佐川さんちで新聞も毎日のように読んだ。ワイドショーも見たし、教育テレビも見た。図書館でね、アンドロイドの歴史って本も読んだし、アンドロイドにまつわる本は大体読んだよ。そしたらね、どうして私が佐藤先生に嫌われるのかも、友達に嫌がられるのかもわかったの」

 唖然として言葉が出ない中で、彼女が冷静に自分が置かれた立場を認識していたことを知った。

「私は、自分がアンドロイドであることは受け入れてる。それに伴う差別にも偏見にも耐えようと思った」

「そんなこと思ってたの?」

 言葉尻が弱くなる。あれだけ泣いたというのに、見えていなかった事実がまた、自分の一番弱い部分を刺激してくる。

「上手に隠したでしょう?」

 佑人はもう言葉も出なくて、頭を抱えてため息をこぼした。

 そして、思った。父の設計は完成度高くミスらしいミスなどないけれど、彼には一つ思い違いがあった。

 梨香はPFE型であって、プラスの感情だけを覚える設定になっていると書いてあった。確かに、梨香は感受性豊かに様々なものを好きになっていった。食べ物でも、遊び道具でも、当然人もだ。彼女は常にすべての物を愛するように接していた。

 だけど、感受性が強ければ強いほどそれは悪い方にも作動するということを、父は知らなかったらしい。考えれば当然であるはずなのに、彼の中に感情はシンバルの様に反響で染められるものだという事実が欠落していたようだ。

 傷ついた分だけ人に優しくなるなんて、誰の残した言葉だろうか。まやかしの様に世間に広がり、悪しき風習の様に人の心を慰めるけれど、あれは根本的に間違っている。傷ついたから優しくするんじゃなくて、傷つくだけの心があるから人に優しくできるのだ。振子と原理は変わらず、感情のふり幅はプラスにもマイナスにも同じだけの振幅を繰り返す。生きているだけで様々な問題に直面し、悩み苦しみ、それは幸せを知り優しさを感じた人間に起こる当たり前なのだ。

「もう隠さないで。一人で傷ついたりしないで。感情を後出ししないで」

 懇願するように、佑人はつぶやいた。気持ちが複雑すぎて、自分でも判断できない。自分を今支配するこの気持ちには、名前らしい名前が付きそうにない。

全てを悟ったうえで彼女が完璧に隠しきったという事実は、正直に言えば悲しさでやりきれなかった。もっと信頼して頼ってくれていると思っていた。でもきっと、自分も同じことをしてきたのだ。寂しくても、悲しくても、辛くても、そうとは言えず反抗的な態度で察してもらおうとした。当然伝わらず、開いていく心の距離にいら立つ悪循環を繰り返した。素直になるというのは難しい、なんて、今更何の哲学にもならない。こんな抽象的なことを、考えるだけ時間の無駄だろう。

「わかったって言いたいところだけど、今の私が分かっても意味無いよね」

 梨香がしんみりというから、

「大丈夫、何度だっていうから」

 目が合うと梨香は赤くなったせいでちょっと色っぽい目を伏せた。

「だから、今も、そう。想ってること、全部言って。何も残したりしないで」

 梨香はじっとうつむいたままでいたが、やがて顔をあげ、わかったと言った。

「でも、気持ちを言葉にするのってすごく難しいことだから、時間を頂戴。手紙書く。ちゃんと、書くから」

 あまりに急に告げられたタイムリミットは、自分たちの感情を縛り付けた。同じ運命ならば、どうせ変えられない運命ならば、最後の一瞬まで疑いたくなかった。奪われると知っている時間を泳がされるくらいなら、数ある後悔を胸に自戒しながら生きるほうがマシだ。伝えたいことがあって、奪われたくない気持ちがあって、それらを緩やかに心に留めて自分たちは生きている。やがて消滅するものだとしても、包丁で切断するように絶たれるのは訳が違う。変化の中で移ろい消えていったものはたくさんあった。振り返り微かな切なさを持ちながら、それらは過去としての温かさも持っていて、ふとした時に思い出すのも悪くない。でも、断面図の見える別れはだめだ。少なくとも、切断面を想像しながらする生活程重く苦しい物はない。

 


 次の日、佑人は微かに痛む頭痛を抱えながら職場に行った。普段なら佑人よりも先に起きる梨香は微かに口を開けて寝ていたので、書置きのメモを残してそっと家を抜けてきた。

 佑人たちが寝付いたのは、あれから一時間ほどしてからだった。お互い正直に話をしあえば、もうそれ以上に警戒することなどなくなり、言いたいことを言い合った。梨香はシャンプーを使いすぎだとか、佑人君の入れるお茶は苦いだとか、しょうもない文句まで言い合って、そしてもう一度、ちょっとだけ泣いた。溢れる様な涙ではなく、零れる様な涙だった。照れを隠すようにへらへらと笑い合って、時々襲い掛かる悲しさを分け合うように手を繋いだ。

 会社に着くなり、色々な人から心配なのだか好奇心なのかわからない驚きの声で顔の腫れを指摘された。その度に、知っている限りの映画のタイトルを言って誤魔化した。ただ一人、それが通じない人を除いて。

 当然、水原には昨晩のことを一つ残らず話した。梨香の変化についても、これからのことも、彼女はいちいち表情を変えながら話を聞き、話し終えて僅かな疲れを見せた佑人にゆっくりと頷いて見せた。

「梨香ちゃんの、その、部品交換というのはいつになるのですか?」

「まだわからないけれど、佐川さんからは決めたなら早い方がいいと言われた。後手に回って厄介なことに巻き込まれてしまわないように」

 佑人が冷静に言うと、水原は寂しいですねと呟いた。

「うん。この決断を後悔するつもりはないけど、きっとずっと、心には残るだろうね」

 僅かに間が出来た。それは静かな呼吸をするための、僅かな隙間だった。

「最後に一度、会わせて貰えますか?」

 佑人はもちろんと返し、そうしてくれると嬉しいと付け足した。




 その日の夕方、早い方がいいという判断から二人で野沢家に帰った。車内でも会話が弾まず、それぞれ考え事をしながら電車に揺られた。

 家の傍まで来たとき、佑人は河原から家を

見下ろし、眉をひそめた。それを見た水原が、どうしたのかと尋ねた。

「いや、電気がついてない」

 どちらかといえば大きな家だ。明かりがつけば存在感を発揮するはずなのに、家のどこにも光がなく、泥棒でも寄り付かなそうなほど死んだように静かだった。

 嫌な予感がしたままポケットから取り出した鍵を落としかけ、鍵穴にはなかなかさせずに手間取った。差し込んだ鍵を回すと、扉の重厚感が掌にダイレクトに重たい。もしかしたら電気もつけずに寝ているのかもしれないとか、二階の奥の部屋に勝手に行ったのかもしれないとか、はたまた庭にいるのかもしれないなどという想像は、無くなったスニーカーとリビングに残されたいくつかの置手紙に砕かれた。

 テレビのある部屋のこたつテーブルの上に、つぶらな瞳がトレードマークのキャラクターがほほ笑む封筒がいくつか。あて名は佑人の名と、当然の様に水原や池谷にもあった。

 嫌な予感を感じながら、佑人は後ろで呆然と立ち尽くす水原に手紙を渡した。はっとしながら受け取った水原はもうすでに感情を抑えられないようで、眉に力を込めている。その姿を見たら、佑人は妙に安心した。変な言い方だが、自分の気持ちが共感性をもって肯定されるようで、佑人は自分を強くもてる気がした。

 震える指先はうまく便せんを開けず、てこずりながら開いた何枚にも渡る手紙の文字は均整の取れた、お手本のような美しい文字だった。

「佑人君へ。

 勝手なことをしたと思ってるでしょ。私もそう思う。でも、許してね。そうと決めた以上、私はこれ以上佑人君の傍にいるべきではないと思うから。

 何から話せばいいのかわかんない。佑人君に言いたいことなんて山ほどあって、時間の許す限り書き綴りたいから、最後まで頑張ってね。

 昨日の話からするね。昨日言ったことは全部本当で、佑人君と出会って、本当に幸せだった。これは本当に、心から思ってること。どうせ佑人君のことだから、初めて会ったから自分に依存してるだの雛鳥の習性だの、勝手に思ってない?本とかに実しやかに書かれてはいるけど、あれ、ただの憶測だよ。私はちゃんと心をもって、佑人君を好きになったの。そりゃ、傍にいてくれる人を好きにはなるよ、それはそうだよ。でも、それは人間でも同じでしょ。人間だって、親を選んで生まれるわけじゃない。でも、親として自分を大事にしてくれる人を、自分を守ろうとしてしてくれる人を好きになることの何がおかしいの?

 大好きだよ、ずっと傍にいたい。本当は今のまま、ずっと佑人君と暮らしていたかった。こんな問題だらけのアンドロイドに付き合ってくれてありがとう。佑人君がくれた優しさを覚えていられなくてごめんね。あんなに嬉しかったのに、あんなに幸せだったのに、何も残せないなんて辛くて仕方ないよ。

 勝手に出て行ってごめんね。私は私じゃなくなるんだなって思うと怖いけど、今の私を佑人君に残してもらいたい。それに向けて、佑人君に言っておきたいことがいくつかあるの。

一つ目。佑人君が佑人君としての幸せをつかむべきだから、私のことは忘れてください。もちろん、生まれ変わった私のこともです。もう充分、佑人君は頑張ってくれたから。これ以上迷惑はかけられません。だから、私を忘れて、一から自分の人生を考えてください。その場合には、手紙は此処で終わりです。

ありがとう。大好きだよ。」

便せんのデザインを変え、続きはまだまだあった。分厚い封筒に僅かに撓んだビンの線の端が折れて、捲りにくい。

「なるほど、この便せんを読んじゃうんだね。まだ引き返せたのに。

 二つ目。私を梨香と名付けてくれたのは佑人君のパパらしいね。だから、次の私の名前は、佑人君が決めてくれていいです。もちろん、そのまま梨香と名付けてもらってもいいです。梨香という名前は大好きだったけど、佑人君の中にいる梨香と、次に会う私はもう全くの別の存在だから。

 三こ目。私の所有物は、なるべく私にそのまま使わせてください。もしかしたら、微かな記憶くらいは呼び起こせるかもしれないから。佑人君が買ってくれたものだからって、佑人君の物じゃないからね。絶対、捨てたりしちゃだめだよ。

四こ目。もしも次も佑人君が私の親になってくれるのなら、今度は佑人君じゃなくてパパと呼ばせてください。

要求の多さにびっくりした?ごめんね。

言いたいことは本当にたくさんある。たくさんの幸せを貰って、私は本当に幸せだった。

ありがとうっていう事しかできないけど、ありがとう。覚えていてくれなんて言わないから、幸せになってね    梨香」



零れる涙を拭くタイミングが分かず、重力に従って便せんを濡らす。あまりに素直で優しい言葉たちは、無防備な心には鋭さすら感じさせた。

「勝手すぎるよ」

 自分のつぶやきがぼやけた脳に響くのを感じた。今更だと知りながら、佑人は天井を仰ぐ。涙が耳を伝い首筋を濡らした。

 自分に何かを言うタイミングをくれないなんてと文句を言いたい気持ちもあるが、何処かで梨香らしいと感じる部分もあった。彼女には不器用で頑固なところがあった。そんなところだって、変わらず愛おしかった。

 隣で泣き崩れた水原の肩に手を置く。薄手のニットの上からでも、彼女の体温が高くなっているのが分かった。

「狡いって言いたいけど、これが正しい気持ちもする」

 水原が絞り出すように言った。そうだ、身勝手だけれど、正解なのだ。

 すべてを忘れ去ってしまう梨香に、惜しむ様な言葉など言ってはいけないのだ。梨香は離れがたくなるし、佑人たちは身勝手な満足感に浸ってしまう。潔く背を向けていくのは去り行く者の定めであり、その背中を引き留めたりしないのは見送る側の最後の思いやりかもしれない。

「俺達にできることは、これからも今までと同じように梨香を大事にすることだけなんだろうね」

 佑人の言葉に、ハンカチで口元を覆った水原が頷いた。大きな瞳が赤く染まり、普段あまり見せない感情が溢れかえっているのが分かる。水原にとっても、残酷な結果に終わっただろう。目元を囲った化粧が崩れているのを眺め、昨晩といい今夜といい自分は女を泣かす天才かもしれないなんて、馬鹿げたことを考えた。



なかなか泣き止まないでいた水原に、佑人はアップルティーを出した。右手に持った淡い水色のハンカチが、浅瀬のような明るい水色に変色していて、水分を取らせないと脱水するのではとすら思った。

「考えてみれば、野沢さんは必要に迫られて急に親になったんですよね。親って言うのは、長い年月をかけ、人としても、親としても成長していくものなのに。確かに例外もあるけれど、あなたのはいくら何でも突飛でしたし、状況も状況だった」

 それでも多少落ち着いた声で、水原はそう言った。指摘されると、まさにその通りだった。いつからだろう、当たり前のように梨香の保護者になっていた。父親の顔をする自分に、違和感を感じなくなっていた。

「大変でしたよね」

 水原の口調はとても優しく、自分が労わられているのを感じた。

「水原さんも、ありがとう。オレだけじゃフォローできないことがたくさんあったから」

「私は大したことはできなかった」

 水原は微かに目を伏せ、静かに言った。おそらく謙遜ではなく、彼女は人に好かれるということに警戒しすぎている。

「何をしてくれたか、だけじゃない。少なくとも、梨香があなたを好きで仕方なかった、その心をあなたが覚えていてください」

 好きだった気持ちがなくなるとしても、好かれていたことは嘘ではないのだろう。水原は自分の立てた膝に顎を置きまっすぐ前を見ていた。濡れたまつげが瞬く度に優雅な弧を描く。

「おなかすきましたね」

 考えれば、いつものように仕事をして、いつものように生活をしていたのだ。空腹感が来ることは何ら不思議でなかった。ほんの少し気持ちが消化しきれないくらいで、腹は膨れない。

「ご飯食べに行きます?」

 水原が言った。彼女もまた、必死に前を向こうとしているのが分かる。

「いいね。この辺に良い食事処なんてないけど」

「駅前にファミレスありましたよね」

 梨香が好きだったところだ。あそこで、梨香がドリンクバーの使い方が分からずに危うく壊しかけたり、マグカップ割ったり、お子様ランチにはまりすぎて家でつくるように要求されたり、色々あったと懐かしく思い出した。そうすると、やっぱり止まっていた涙が溢れそうだった。

「ダメだ、まともな顔で外出られる気がしない」 

 佑人が言えば、同じように泣きそうな顔して、

「今あなたの隣にいられてよかった」

 水原は微かに笑った。力ない笑みにはアンニュイな雰囲気と掴みどころのない隙間があって、佑人はずっと昔に感じていた近寄りがたさを思い出した。

 僅かに開けていた窓から風が入り込み、薄いレースカーテンの端を捲り上げる。秋も深まり、風に微かな冬の気配を感じる肌寒さがある。冬まで、そう遠くはない。

「梨香ちゃんは、いつ帰ってこれるのでしょうか?」

 佑人はわからないと首を振った。

「佐川さんの話だと、今この手の話は全国各地で起こっている。TG型のメモリーカードは、このままいけば使用禁止になるとされているし、下手すれば既に持っている者ですら除去されるかもしれない。会社は大騒ぎだと言っていた。うちの会社のアンドロイドたちだって、この後もしかしたら全部が検品に出されるかもって話だしね」

 人間は勝手だとか、不条理なことをするだなんて、今更だろう。その昔は人間同士でいがみ合い、差別し合っていたことを思えば、明らかに造りの異なる存在への配慮が欠けることに、どんな疑問もわきはしない。

 マグカップを手に取ると、少しぬるくなったアップルティーはむしろ飲みやすく、微かな香りに一瞬目を閉じる。人工的で瑞々しい香りがした。

 悲しいはずなのに、悲しまずにいたい自分を、佑人は自覚していた。悲しい事なんて数えきれないほどあるのが人生なのだから、今はきっとそのときじゃない。

「じゃぁ、野沢さん。落ち着いたら一度、私とデートしましょう」

 佑人は持っていたマグカップを落としそうになり、慌てて両手で支える。少しも飲んでいなかったら、間違いなく机と服が水浸しになっていた。

「言うタイミング間違えました?」

「大分」

 正直に言うと、水原は手で口元を抑えて笑い、

「動揺することもないでしょう」

 といたずらっぽく言った。

「似たようなことをたくさんしてきたじゃないですか」

そう言って肩をすぼめるもんだから、佑人はさっきの動揺を恥じた。そういうわけではないけれど、彼女は妙に大人の顔をしている。経験値の差をはっきり示された気分だったが、特別ひがむ気持ちも引け目もなかった。

「名前が変わるだけでこちらの責務も変わるんですよ」

「そんなこと言ったら、女の準備も大分変りますよ」

 言い合って、目が合って、少し笑った。水原の目元の化粧が少し乱れていることすら、自分の欠落に共鳴するものがあった。


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