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危機から危機へ

 いざ死に行かん、と柄を握り、最後の力を体中に漲らせたデリートは、壁から背を離して一歩前に足を踏み出した。いまや、視界は霧がかかったように全く見えないが、気力だけで突っ込もうと身を屈める。


 その瞬間。


 ふわりと風が吹いた。

 甘やかな濃い蜜を湛えた花の香りが、鼻孔をくすぐる。

 花など咲いている個所などこの近辺にあるはずがない、とデリートは記憶を手繰る。ではこの香りは一体どこから来たのだ。

 香りに気をやりつつも相対する兵に注意を向けていたが、その兵たちは

、なぜか突然糸の切れた操り人形のようにパタパタと崩れ落ちていった。

 その原因は、辺りに漂うこの香りによるものだと即座に気付いたデリートだが、今更防いだところで手遅れだ。そもそも死は目の前にある。

 それでも長年の習性が、兵たちを昏倒させた香りの正体を突き止めたがる。濁る目を必死に凝らし、風上を追う。すると――

 神の技巧で生み出されたかのように美しい美少女が、佇んでいた。……宙に浮いた姿で。

 浮いているのに佇むとはおかしなものだ、と冷静に考えるが、その姿はまさに佇むといった雰囲気に合っている。

 月の光を紡いだかのような髪は波打つように揺れ、少々吊り上がった目や鼻梁がスッと伸びた鼻、ふっくらと柔らかそうな唇……最高の配置がされた神々しさすら感じられる美しい顔。交錯した視線を外せないほど、赤く光る瞳は真っ直ぐにデリートを見つめていた。

 宙に浮いていた体が徐々に降りてきて、ふわりと地に降りたつ。

 成人の女性の風貌をしているが、まだどことなく未熟さを感じる。その僅かな足りなさが、逆に魅力的となるのだろうか。デリートは目を離すことができないでいる。

 その美少女は、両足が着いた途端、まるで花が綻ぶ様に笑顔を見せた。

「会いたかった……デリート!」

 デリートが問う前に、宙を飛ぶようにして駆け寄り、全体重を投げ出し抱き付く。まさかそんな行動に出ると思わず、デリートは「グッ」と呻き声を上げ、折り重なるように倒れた。

「会いたかった! 会いたかったよデリート! もーなんで名前呼んでくれないの? ずっと待ってたのに!」

 デリートの上に乗っかったまま、胸板を両手でポカポカ叩きながらギャーギャーと喚く姿を見て、突然何か閃くように思い出した。

「……ベル、か」

 掠れた声でもたらされた言葉を聞き逃さず、ベルはぴたりと動きを止め、デリートと視線を合わせる。そしてみるみる瞳に涙を溜め、あっという間にその堰は崩壊した。

「うわぁぁん! デリートぉぉ! あたし、あたしちゃんと待ってたのぉぉ! 約束したでしょぉぉぉ!」

 約束? そう言われて、デリートは内心首を捻る。あの時そんな約束をしただろうか……いや。

「してない」

 きっぱりと、デリートは言い切った。またいつか、とは言ったものの、名前を呼んだらなど、そんなことはただの一言も交わしていない。ベルは、何を言われたのかさっぱりわからないといった風に、暫くきょとんとしていたが、やがて意味がじわじわと理解できたようで、両手で頭を抱えて髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。

「うっそぉ! ……え、まって、ちょっと……ええ? どういう事よ!?」

 それは俺が聞きたい、と思ったが、デリートは黙った。いや、口を開く気力がなかったのだ。気を緩めれば意識が持って行かれそうになるが、ベルが腹の上でジタバタと暴れるので、ある意味刺激になるという皮肉な効果があった。

「あっ……。あたしも、言った覚えがない……」

 言っていない、という絶望的な記憶を思い出したらしく、ガクリと肩を落とすベル。いつから思い込んだのか分からないが、デリートがベルの名前を呼んだらいつでもどんな時でも、すぐ目の前に現れようと決めていたらしい。

 これが最後の記憶か……何とも間抜けだな。

 デリートは、いよいよ己を保つのが限界になった。せめて世に恨みでもなく執着でもない終わりが迎えられて、良かったと、胸に残った空気を吐き出しながらそう思った。

「……えっ、デリート? どうしたの……あれっ? デ リ ー  ト   」

 声が遠ざかる。

 目は、とうに暗闇しか映していない。

 ベルの体は温かいな……

 ゆっくりと、デリートの意識は沈んでいった。



* * *



「……ん、ふぅ……」

 ぬるんと咥内に熱くて柔らかなものが侵入してきた。それは、隅々まで丹念になぞり、時折粘着質な音を立てる。

 まだうっすら霧ががかかったような意識の中、我が身に何が起こっているのかを確かめる。

 頬には何者かのしなやかな手が添えられ、口元へは……

 現状が把握しきれなく、重い瞼をゆっくりと開けたデリート。まだ紗がかかったようにぼやけるその眼前には、恍惚といった表情でベルがデリートに口付けをしていた。

 うっすら頬を染め、柔らかな唇をデリートのそれに重ね、ふ、と漏れる息はどこまでも甘やかで――

 確か、死の淵にいたはずだが。

 デリートは、生の世界から離れたと思っていた。肩に受けた矢の毒が全身に回り、ここまでかと死を迎える覚悟をした。しかし目が覚めればどうやら命拾いをし、そしてベルが唇を重ねているなど理解できない現状に混乱する。

 思わず身じろぎすると、それに気付いたベルは、パッと顔を離してデリートの顔を凝視した。

「……あ」

「なに、して、るんだ……」

 軋むような声で尋ねると、今度は急にもじもじと恥じらいながら首をすくめる。

「えっと、あの、お帰りなさぁい」

 全く答えになっていない返事に、片眉が歪む。ベルはデリートの苛立ちを感じ取ったのか、慌てて事の経緯を九割要らない話で語りだした。

 つまり。

 瀕死のデリートにようやく気付いたベルは、ひとまず魔力で生命維持に努め、自身が所有している建物に移動した。街の郊外にあるその屋敷は廃墟となっていたが、魔力で外観はそのままに、中は人間が居心地よく過ごせるように整えてある。いずれデリートと暮らす夢を見たベルが、会わなかった期間中に用意しておいたらしい。そこに置かれたベッドに寝かせ、昏倒するデリートに口付けを――

「経緯が唐突だ」

「だってー。魔力を人間に与えるのってちょっと難しいんだよぉ?……だから、今のうちって思って」

 だから……だからとはなんだ。

 それですべて説明がついたと思ったらしいベルは、さて続きを、と言わんばかりに顔を再び近づける。

「待て」

「やだよ。あたし、デリートに会えたら、絶対こうしようって思ってたんだから」

 ようやく視力が回復し、デリートはベルの姿をはっきりと捕らえた。

 ……なぜ、全裸だ。最後の記憶ではしっかりと衣服を身に纏っていたはずだ。

 出会った当初の幼児姿から比べると、人間の経年変化と違って見た目は充分大人に育っている。滑らかな肌はどこまでも柔く、そこに吸い付いたらどんなに淫らな花を散らせるだろうかと喉が鳴る。砦を取り仕切るようになってからというもの、自分を厳しく律し、快楽に身を委ねることが皆無だったデリートは、甘美な誘惑にクラクラした。

 しかし、幼い姿の記憶が脳裏に焼き付いているデリートは、それ以上事を起こす気に少しもなれない。

 ――死の間際から、なぜこうなったんだ……

 デリートは、内心頭を抱えた。






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