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時が経ち


 ハァ……ハァ……

 頭が割れるように痛む。傷を負ったうえ追われているこの体は、すでに限界を訴えていた。

 建物の角に背を預け、身を隠してそっと辺りを確認する。そこかしこから怒号や笛の音が聞こえ、それは徐々にこちらへと迫っていた。

 今すぐ逃げ出さなければならないというのに、男の膝は体重を支えきれず、背中がズルズルと滑り落ちてしまい、とうとう地に座り込んでしまう。そこから一歩も動けぬほど疲弊していて、迎え撃つどころか、逃げるなど不可能で……。ここまでか、と男はドクドクと血を流す腕を抑えながら、覚悟した。


 男は――〝しじま〟と呼ばれている。

 本当の名前ではなく、寡黙な男はいつしかそう揶揄されるようになり、〝しじま〟といえばこの男を指す記号程度の名称だ。しかしそのしじまの名は、今や大陸の端から端まで名を轟かせている。頭領のすぐ傍に控えてはいるが、実質この男が砦にいる大勢の盗賊を取り仕切り、国内外の情勢や、地形、天候の調査、そして若手の育成などを手掛けていた。

 男が内部の改革に手を出し始めたのは、十年も前になる。

 劣悪な環境の中、下働きとして飼われていた男は、砦の隅から隅までくまなく掃除をして回った。お陰で、砦のどこに何が配置されているか仲間内で一番詳しくなり、そのうえ繕い物や洗濯も任されていたから各部屋に入ることを許されており、軽口や密談など耳にする機会も多いことから、裏事情にも精通した。

 最下層からの成り上がりだが、誰よりも盗賊団を知り尽くしている男はそれだけの自信を持って事に当たれたのだ。

 荒くれ者だらけだった盗賊たちを、時としては暴力を伴いながら掌握していった。そうして纏め上げた男の改革は、盗賊たちを系統別に分けることから始まる。

 暗器、探索、罠の設置や解除、そして変装して潜入など技能は多岐に渡るが、それに特化したものを万遍なく班を組ませ、それぞれ任務を与えた。班を始めた当初は仲間意識などほぼ皆無で意思疎通すら叶わぬ者達だったが、回を重ね、そして成功を収めるようになると次への自信に繋がる。親睦を深めるための酒は惜しみなく振る舞い、金で雇った女も宛がう。成功報酬も存分に分け与えた。成功を収めれば欲を満足させることができると意識を植え付けることができ、その結果とても潤滑に運営できるようになったのである。

 その手腕は近隣諸国へ伝わり、仕事の依頼や傘下に入る者が爆発的に増えた。

 〝しじま〟である男は、それらの対処を信頼できる部下に任せ、自らも班入りした仲間と共に仕事に向かう。普段は事務処理などで忙殺されてしまうが、大きい仕事や難しい案件は、依頼主から指名がある。実績も、それに伴う信頼もある〝しじま〟は、もはや依頼できることが栄誉であることのように扱われていた。


 その、〝しじま〟はいま、絶体絶命に直面していた。

 国同士が一触即発の中、裏では情報戦が始まっている。その中で受けた依頼は、王族の系譜を調べることだった。王の息子とされる後継者だが、もしかしたら傍系ではないかとの噂がまことしやかに市井に流れている。裏を取る為、忍び込んで確認せよ、と。

 おそらくそれを手数に加え、有利に交渉を進めるがための駒になるのだろう。男は盗賊の中でも精鋭を集め、そして様々な難関はあったものの無事に系譜を手に入れることができた。あとはこの城を離脱――となった時、ピィィ、ピィィィ! と笛の音が飛び込んでくる。

 ――見つかったか。

 ――いや、違う。

 ――漏れたか……では誰が。

 ――……裏切りか。

 男が周囲の警戒に当たるなか、仲間たちが布に隠された口元で声をくぐもらせながら話す。忍び込むにあたって、警備にそれほど不自然な様子は見えなかったが、いざ離脱となったどこからともなく兵が湧いてできた。想定外の事態に驚いたが、男と仲間は冷静に額を付け合せて段取りを決める。そしてその作戦は功を奏し、時間がかかりながらも、仲間たちをすべて脱出させることに成功した。

 しんがりを務めた男はそれを見届けた後、追っ手に見つかってしまう。十年も前ならどんな相手でも足で負けたことはないが、時が経った今、確実に男の体力は衰えている。若い頃と同じように鍛えていても追い付かないほどだ。足りない部分は経験で補えるが、いざ逃走となった場合、その差が如実に表れる。

 足の筋が悲鳴を上げたその瞬間、男の二の腕に稲妻が落ちてきたような痛みが刺さる。何が起こったか分からず、ゆっくりと首を巡らせると、左腕には、あるはずのない鏃が見えた。そして、そこからじわじわと赤い血の色が衣服を染めていく。

 おそらく、矢を放たれたうちの一本が、背後から左二の腕に貫通したものだろう。ぎり、と奥歯を噛みしめ、上着の衣嚢から痛み止めに効く丸薬を取り出し、口に放り込んだ。その間も、傷を負ったと思えぬほどの速度で追っ手を撒き、どうにか植え込みの中に身を隠すことができた。

 下手に矢を引き抜くと、出血が酷くなるうえ治りにくくなる。男は埋め込まれた所以外を切り手拭いを取り出すと、細く切り裂いて肩の位置で固くグルグル巻いて血止めの処置をし、ようやく息を吐いた。ひとまずの応急処置はしたが、きちんと治療しなければ拙い出血量に、より一層気持ちが焦りだす。

 頭の中に、記録したこの屋敷の地図を広げた。下調べした際に警備が手薄で手頃な場所を、いくつか脱出経路として選定してある。だが罠が張られていたいま、仲間が出ていったばかりの場所は、警備の配置を考えるとあっという間に囲まれて都合が悪い。相手もきっとこの場が脱出経路として最適だと熟知した布陣だ。であるならば、先に逃げた仲間たちから追っ手の目を逸らすために、別の経路を辿った方がいいだろう。

 男は、背にある剣をすらりと引き抜いた。刀身が三日月のように湾曲しているこの剣は、頭領から譲り受けたものだ。己の頬に傷をつけた、あの。いわくつきだが、男にとってとても相応しいひと振りだ。

 すでに侵入が発覚したこれから、とても苦戦を強いられるだろう。男はもちろん剣の腕に自信はあるが、数で来られてしまえば無事である可能性は低くなる。

 気力を振り絞って立ち上がり、建物の死角を縫うように伝い、脱出口を目指して移動を開始する。おおよその目途は立ててあるが、果たしてこの傷ついた腕でどこまで行けるのか。

 丸薬のお陰で痛みをあまり感じることはないが、心臓が警鐘のように激しく打ち立て、腕から流れ落ちる血が止まらず、体中に寒気が襲ってきた。しかも、若干目の前が暗く感じる。

 男は軽く頭を振ると、次に向かう場所へ足を向けた――はずが、くらりと眩暈がし、足がもつれて膝を突く。

 おかしい……。男は勝手が利かない体に舌打ちをした。矢じりに毒でも仕込まれたのか、自覚した時はもう遅く、やがて目の前が朦朧としてくる。

 男は覚悟を決めた。遅かれ早かれ、どうせいつかはこうなる運命だったのだ。それならばいっそ、敵の目をこちらに引きつけ、逃がした仲間の追っ手を一人でも少なくして散ろう。

 砂が零れ落ちるように、男の体からどんどん力が抜けていくのを感じた。それでも力を振り絞り、一歩、一歩と歩み、石積みの塀に背中を着くと、肺の息をゆるゆると吐いた。

 息の感覚が短い。

 肩で息をする男は剣の柄をぐっと握りしめ、地面に倒れ込みそうな我が体を必死に保つ。そして、ゆっくりと天を仰いだ。


 男が砦の采配に身を入れ始めたのは……十年も前になる。

 そもそも地べたを這いずり回るだけの身寄りのない子供だった男は、盗賊たちの下働きとして働かされ、力を付けた男が頭領に認められて、ようやく身の安全を保障された、あの頃。

 生きる価値を見いだせなかったが、死ぬことにも魅力を感じなかった。

 ただ与えられた任務を遂行し、達成できればそれでよかった。成功報酬で欲に溺れる一時もあった。しかし、それは男にとって生きるための何の理由にもならない。

 デリート。

 名づけられたあの夜から、〝個〟が生まれた。

 何もないところから、自身を残す。自らの生きた証を、後世に――

 所属する盗賊団、そして仕事の成果を上げる度に名が広がった〝しじま〟。しかし、男は単に通称として使用するのみで、その名を進んで使ったことはない。

 男は、魂に刻み込まれたデリートという名を、誰に教えたこともないし、これからもそうするつもりだ。

 自分という存在を認めた瞬間から、終わりを見据えての行動に移る。自由気ままで荒れ放題の盗賊たちを、統率がとれた集団にして効率よく外貨を稼ぐ。待遇改善にも積極的に手を入れ、大きく貢献したものには分かりやすい報酬を与えた。しかしそこは所詮盗賊である。年功序列ではなく、完全なる実力主義で、老いた者は去るか裏方に回った。

 頭領も当時の力は衰え、ほぼ全権を男に委譲していたので、実質この砦はデリートのものだ。だが、自身もやがて老いて去ることを踏まえ、下の者を育ててきた。幸いにも人材に事欠かず、充分に存続できるだけのものは残してある。

 だから、ここらで潮時だ。

 見上げた夜空は、数々の宝石を散りばめたように星が輝いていた。


「おい! いたぞっ!」

 一人の兵が、呼子を鳴らして応援を呼ぶ。澄んだ空気にその音はよく響いた。ほどなくして大勢の乱れた足音がこちらに向かってくる。せめて……せめて、一人でも少な……く……

 壁を背にするデリートを中心に、剣が、槍が、半円を描くようにずらりと並んだ。所々に置かれた篝火を反射し、刃先が赤く煌めいた。

 ……ふいに、デリートは紅色の玉石のような瞳を思い出した。いつか会いに来ると言っていたが、どうしているだろうか。

 そこで、デリートは自然と口角が上がり、押し殺した笑い声は喉元で止まった。

 今さらなんだというのだ。会わない方がいいに決まっている。そもそも出会ってはいけない相手であり、接触がないことが一番の便りだ。それを、間際になって心残りとするとは。

 しかし、口は自然と動き、言葉を紡ぐ。


「ベル……ベルガモット」


 戯れのように自ら名付けた幼魔の名を――






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