旅の始まりと止まった治水工事
「イデアール様! ここまで来れば、知っている民も居なくなるでしょう。ようやくのんびり旅ができますな」
ティヒカイトが笑いながら辺りを見渡す。
「そうだな。どこへ行っても声を掛けられていたからのう。ようやく一人の老人として歩けそうじゃ」
「それだけ慕われていたということですよ」
シュングが微笑む。
「まあ……そういうことにしておこうか」
イデアールは苦笑しながら街道の先へ目を向けた。
「しかし、どこへ向かうんだ?」
「目的はない。のんびり国内を回るだけじゃ。そんな旅も悪くあるまい」
「俺は構いません」
「私もです。書庫だけでは分からないことも見られそうですし」
「わしも書類だけでは見えぬものを、この目で確かめたいだけじゃ。民の暮らしはどうか、困り事はないか。それを見る旅じゃ」
「なら、焦る必要はありませんね」
三人は笑いながら街道を歩き続けた。
◇
「もうすぐ町です」
小高い丘を越えると、小さな町が見えてきた。
市場には人が行き交い、荷車が往来している。
「活気はあるな」
イデアールは町を見渡した。
「品物も揃っておる。この規模なら十分じゃ」
「まずは宿ですね」
三人は宿屋へ入り、部屋を借りる。
「さて、どうする?」
「私は本屋へ行ってきます」
「わしは治水工事を見てくる」
「なら、私はお供いたす」
◇
町外れ。
川沿いには大きな工事現場が広がっていた。
だが──。
「……おかしい」
イデアールは立ち止まる。
作業員は数えるほど。資材も少ない。
堤防も途中までしか出来ていない。
「この工事は、もっと進んでいるはずじゃ」
完成予定まで、あと数か月ではない。
本来なら、もう完成していてもおかしくない工事だった。
「イデアール様」
ティヒカイトが隣へ来る。
「治水工事って、こんなものなんですか?」
「いや」
イデアールは静かに首を振る。
「これは遅れているのではない」
少し考え、
「……止まっておる」
「止まってる?」
「報告書では順調に進んでおった」
しばらく工事を眺め、
「少し探ってみよう」
「分かりました」
◇
夕方。
食事処。
「どうだった?」
イデアールが尋ねる。
「行政へ行って聞いてきました」
ティヒカイトは水を一口飲んで続ける。
「工事は予定通り。遅れは一切ないとの回答でした」
「ふむ」
「作業員にも聞きましたが、『自分たちは言われた仕事をしているだけ』だそうです」
イデアールは腕を組む。
「妙じゃな」
「何がです?」
「この工事は一年以上前にわしが許可したものじゃ」
静かに窓の外を見る。
「予定通りなら、終わっておる」
「つまり?」
「誰かが嘘をついておる」
重い空気が流れた。
「ティヒカイト」
「はい」
「もう少し調べてくれ」
「了解」
「だが、今は飯にしよう。腹が減っては頭も回らん」
三人は温かい料理を囲んだ。
◇
翌朝。
「やはり気になる」
イデアールは宿の窓から町を眺める。
「書類だけでは分からぬこともあるものじゃ」
コンコン。
「起きてますか?」
「起きておる」
ティヒカイトが部屋へ入る。
「分かったことがあります」
「話してみよ」
「資材の納入が遅れているそうです」
「ほう」
「ですが、その資材を納めている商会だけは妙に景気がいい」
「なるほど」
イデアールは静かに頷く。
「中抜きか」
「恐らく」
「領主は?」
「気付いていないでしょう」
「……耳が痛い話じゃ」
イデアールは苦笑した。
「王都に居れば、書類だけで安心してしまう」
しばらく考え、
「その商会へ行こう」
◇
町でも一際大きな建物。
「この町にしては立派すぎる」
イデアールは商会を見上げた。
「倉庫は小さいのに、屋敷だけ豪華じゃ」
その時だった。
「おい、お前たち」
派手な服を着た男が現れる。
後ろには文官らしき男。
さらに用心棒と思われる男たちが続いていた。
「昨日から嗅ぎ回っているのはお前たちか」
「そういうお前は?」
「この商会の主人だ」
「なるほど」
イデアールは静かに頷く。
「ちょうど会いたいと思っておった」
そこへ本屋帰りのシュングが合流する。
「二人とも、何をしてるんですか?」
「仕事じゃ」
商人は眉をひそめる。
「何者だ、お前たち!」
「ただの旅人じゃ」
「ふん!なら消えても問題あるまい!」
商人が手を振る。
「やれ!」
用心棒たちが一斉に飛び出した。
「来ます!」
ティヒカイトが剣を抜く。
「久しぶりに体を動かせますね」
シュングは杖を構える。
「ファイヤーボール!」
炎が地面を走り、用心棒たちを吹き飛ばす。
「くっ!」
ティヒカイトの剣が次々と相手を倒していく。
イデアールも杖で相手の攻撃を受け流し、足払いで男を転がす。
「ぐあっ!」
わずか数分で用心棒たちは全員地面に転がっていた。
商人と文官だけが青ざめて立ち尽くす。
イデアールは静かに懐から一本の短剣を取り出した。
柄には王家の紋章が刻まれている。
文官の顔色が変わる。
「ま、まさか……その短剣は……」
イデアールは静かに告げる。
「元ルーエ国王、イデアールである」
その場の空気が凍りついた。
「う、嘘だ……」
「偽物ではない」
文官は震えながら膝をつく。
「建国王陛下……」
商人も慌てて膝をついた。
イデアールは二人を見下ろす。
「文官と商人が結託し、工事費を着服した疑いがある」
「そ、そのような……」
「言い訳は後で聞く」
イデアールはティヒカイトを見る。
「領主へ知らせよ」
「はっ!」
「余の命ではない」
イデアールは静かに続けた。
「一人の旅人として見ても、この町には正しい裁きが必要だ。領主の前で、すべてを話してもらおう」
商人と文官は何も言い返すことができなかった。
◇
翌日。
領主の館。
イデアールたちの前には領主、文官、商人の三人が並んでいた。
「申し開きはあるか?」
領主の問いに、商人は黙ったまま顔を伏せる。
そこへ財務担当の役人が数冊の帳簿を机へ置いた。
「調べた結果、工事用資材の購入費と実際の納入量が一致しておりません。また、差額は商会を経由し、不正に引き出されております」
さらに別の役人が口を開く。
「こちらは文官殿の私邸から見つかった帳簿です。商会から定期的に金銭を受け取っていた記録があります」
証拠を突き付けられた文官は力なく膝をついた。
「……申し訳ございません」
商人も諦めたように頭を下げる。
「すべて……私が指示しました」
領主は深くため息をついた。
「民のための治水工事を食い物にするとは……許し難い」
静まり返る広間。
領主は厳しい表情で二人を見据える。
「文官は役職を剥奪の上、財産を没収。商人も全財産を没収し、被害額の返還を命ずる。それまで牢へ収監せよ」
「「……はっ」」
衛兵に連れられ、二人は静かに広間を後にした。
領主はイデアールへ深々と頭を下げる。
「この度は、私の監督不足でございました」
イデアールは静かに首を横へ振る。
「責めるつもりはない。ただ、書類だけでは見えぬこともある。それを忘れぬことじゃ」
「肝に銘じます」
◇
数日後。
治水工事は再び動き始め、多くの作業員が汗を流していた。
その様子を遠くから見つめ、イデアールは小さく頷く。
「これで良い」
「次はどこへ向かいます?」
ティヒカイトが尋ねる。
「さてのう」
イデアールは青空を見上げる。
「急ぐ旅でもない。面白そうな町があれば、そこへ寄るとしよう」
「また何か事件が起きそうですね」
シュングが笑う。
「事件が無いのが一番なんじゃがな」
三人は笑い合いながら、次の町へと続く街道を歩き始めた。
旅は、まだ始まったばかりだった。




