第4話 三十歳の幕開けと、未来への約束
深い森に抱かれたオーベルジュでの時間は、日常の喧騒を完全に忘れさせる、魔法のようなひとときだった。
アンティーク家具が配されたスイートルーム。窓の外には星屑を散りばめたような夜空が広がり、遠くから微かに波の音が聞こえてくる。
一階のメインダイニングで、地元で採れた新鮮な海の幸と極上の和牛を使ったフレンチのフルコースを堪能した二人は、部屋に戻り、暖炉の火を眺めながら備え付けのワインセラーから選んだヴィンテージ・ワインのグラスを傾けていた。
時計の針は、午後十一時五十分を指している。
結城凛の二十代が、あと十分で終わろうとしていた。
「美味しいね。このワイン、凛の生まれ年のものなんだよ」
宗谷がグラスを揺らしながら、柔らかく微笑む。
「本当に……食事も、お部屋も、このワインも。すべてが最高すぎるわ。こんな贅沢、バチが当たっちゃいそう」
「バチなんて当たるものか。君がこれまで真面目に、一生懸命生きてきたご褒美だよ。君には、最高のものだけを与えたい。……そう思わせる魅力が、君にはあるんだ」
宗谷の甘い言葉が、アルコールで少し火照った凛の体に染み渡っていく。
二十九歳から三十歳へ。
女性にとって、それは単なる数字の変化以上の意味を持つことが多い。キャリアの方向性、結婚、出産。様々なプレッシャーが押し寄せる年齢だ。凛自身も、決して焦りがないわけではなかった。周囲の友人が次々と「妻」や「母」という新しい肩書きを手に入れていく中で、一人だけ取り残されてしまうのではないかという、名状しがたい不安。
しかし今、宗谷の隣にいる凛の心には、そんな不安の影は微塵もなかった。
彼女が選んだキャリアは順調に花開き、そして彼女が選んだ愛する人は、今まさに彼女を世界で一番のお姫様として扱ってくれている。
「ねえ、宗谷さん」
「ん?」
「私、三十歳になるのが少しだけ怖かったの。なんだか、若さとか、色んなものを失っていくような気がして。……でも、今は全然怖くない。明日からの三十代が、二十代よりもっと素晴らしいものになるって、確信できるから」
凛が真っ直ぐに見つめると、宗谷はグラスをテーブルに置き、凛の隣に身を寄せた。
彼が腕を回すと、凛は自然にその広い肩に頭を預ける。
「君は何も失わないよ。むしろ、これからもっと美しくなる。三十代の君は、きっと今よりもっと洗練されて、魅力的な大人の女性になるはずだ。……僕が、そうさせてみせる」
宗谷の力強い言葉に、凛は胸の奥が甘く疼くのを感じた。
「……宗谷さん」
「凛。君に出会って、僕の人生は完璧になった。君の仕事への情熱も、妥協しない強さも、そして僕だけに見せてくれる無防備な笑顔も。そのすべてが愛おしい」
時計の秒針が、カチ、カチと静かに時を刻む。
やがて、アンティークの置時計が深夜零時を知らせる澄んだ鐘の音を響かせた。
「お誕生日おめでとう、凛。三十歳の一年も、君が世界で一番幸せでいられるように、僕がずっと側で守るよ」
宗谷はそう囁くと、凛の唇に甘く長いキスを落とした。
うっとりと瞳を閉じた凛の耳元で、彼が上着のポケットから小さな箱を取り出す衣擦れの音がした。
「これ……受け取ってくれるかな」
差し出されたのは、深いベルベットのジュエリーボックスだった。
宗谷がゆっくりと蓋を開けると、中には豪奢なダイヤモンドがあしらわれたネックレスが、暖炉の光を受けて眩いほどに輝いていた。
「わぁ……っ! これ……!」
「君の細くて綺麗な首元には、絶対にこれが似合うと思っていたんだ」
言葉を失う凛の背後に回り、宗谷はそっとネックレスを着けてくれた。
冷たいプラチナの感触と、首元で輝く重み。それは、彼からの絶対的な愛の証明のようだった。
「どうかな。……うん、やっぱり僕の目に狂いはなかった。すごく綺麗だよ」
「ありがとう……! 私、こんな素敵なプレゼント……」
「喜んでくれて良かった」
涙ぐむ凛を、宗谷は正面から優しく抱きしめた。
そして、彼女の耳元で、甘く、けれど真剣な声で囁いた。
「凛。今回はネックレスにしたけれど……次に君に贈るジュエリーは、左手の薬指につけるものにしたいと思っているんだ」
――え。
凛の心臓が、大きく跳ねた。
「来年の三十一歳の誕生日は、恋人同士としてじゃなく……『家族』としてお祝いさせてくれないか?」
それは、まぎれもないプロポーズの言葉だった。
正式な婚約指輪こそまだないものの、彼の真っ直ぐな瞳と、未来を約束する確かな言葉。
「……っ、宗谷さん……!」
凛の目から、ついに大粒の涙が溢れ出した。
嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいで、言葉にならない。彼女はただ何度も何度も頷き、宗谷の胸に顔を埋めた。
「泣かないで。君の綺麗な顔が台無しになってしまうよ」
「だって、嬉しくて……私、私でいいの……?」
「君じゃなきゃダメなんだ。僕の隣には、結城凛という完璧な女性しか似合わない。君も、そう思うだろう?」
宗谷の言葉に、凛は涙に濡れた顔を上げ、最高の笑顔を見せた。
「……ええ。私も、そう思うわ」
これまでの人生で、凛は数え切れないほどの「正解」を選び取ってきた。
受験、就職、仕事のプロジェクト。
けれど、そのどれもが、今のこの瞬間に比べれば色褪せて見えた。
橘宗谷という男を選んだこと。
彼に愛される努力を怠らなかったこと。
そして、彼からのこの申し出を受け入れること。
これこそが、私の人生における「最大の正解」なのだ。
私には、この幸せを受け取る正当な権利がある。間違えずに生きてきた私だからこそ、この完璧な未来を手に入れることができたのだ。
「愛してるよ、凛。これからの人生、ずっと一緒に歩いていこう」
「私も……愛してる。宗谷さん」
暖炉の火が優しく二人を照らす中、凛は幸福の絶頂にいた。
彼女の目には、輝かしい未来しか映っていない。
この完璧で甘美な幸せが、やがて彼女のすべてを焼き尽くす恐ろしい地獄の入り口であることなど、知る由もなかった。




