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3.石鹸の泡と涙と <ジョシュア>

夕暮れの風が街をゆるやかに撫でていく。俺の口から出た言葉は、自分でも呆れるほど間抜けで頼りない響きをしていた。


「……よお」


ルチカは少し驚いたように目を見開いた後、ふっと柔らかな笑顔を浮かべた。胸の奥が静かに震える。


「この間、お屋敷で会って以来だね。こんなに早く再会できるなんて思ってなかったけど」 「……そう、だな」


本当は言いたいことが山ほどあるくせに、どうしても言葉がうまく出てこない。まるで心の中がもつれて絡まってしまったように、俺の舌は重く、ぎこちない動きをするばかりだった。


祭りの賑やかな笑い声や音楽が、遠くで淡く響いている。その華やかな空気と俺たちの間にある微妙な静けさは、奇妙なほど対照的だった。


「ジョシュアもお祭りを見に来たの?」

「ああ……まあ、そんなところだな」


何気ない会話にすら、言葉を選んでしまう自分が情けなかった。けれど今は、それを隠す余裕すらない。


俺は少し息を吸い込み、意を決したように口を開いた。


「その……少し話せるか。お前に話したいことがあってな」

「……いいけど」


ルチカの瞳が静かに俺を見つめている。その視線を受け止めるだけで、俺の胸はひどく騒がしかった。


「いい場所があるんだ。……この祭りを、一番綺麗に見られる場所が」


俺は静かに踵を返し、彼女を導くように歩き始める。背後でルチカが戸惑いながらも小さく頷いたのを感じた。


建設途中の西側の壁に辿り着くと、祭りのために作業を止めているその場所はひどく静かだった。縄梯子が、暗闇の中で頼りなげに揺れている。


「……ここを登るの?」

「ああ。少し怖いかもしれないが、景色は約束する」


ルチカに視線を送りながら、俺は自分でも気付かないほど慎重に縄梯子に手をかけた。

縄梯子を登り切ると、商業地区を取り囲む外壁の上に涼やかな夜風が待っていた。


ルチカがそっと壁に近づき、そこに置かれた荒々しい石材の上に静かに腰を下ろした。俺も彼女の隣に腰掛ける。背中にじんわりと伝わる冷たい感触が、なぜか俺の心を妙に落ち着かせていた。


「……ほら、ジョシュア。見える?」


ルチカが指差す先には、秘石ランプの柔らかな光が幾重にも重なり合い、街全体が星屑をちりばめた海のように輝いている。


彼女の横顔が灯りに浮かび上がり、その瞳が光を吸い込むように煌めいている。

俺の胸が、妙な懐かしさで満ちていく。


ローレンス家にいた時の彼女も、こんなふうに海辺で遠くを見ていた。

まるで手の届かない世界をずっと求めているかのような眼差しで。


その時の俺には、その眼差しの意味も、彼女の孤独も、何も分かっていなかった。

むしろ意地悪く彼女を突き放し、その儚さを、弱さを嘲笑っていた。

だが今、その儚げな瞳に宿る光を見ていると、胸がひどく疼く。


「綺麗ね……まるで、海に浮かぶ星みたい」


彼女の静かな声が、夜風とともに胸の奥深くまで届いた。

無意識に懐に手を差し込み、秘めていた青い秘石のブレスレットを指先でそっと撫でる。

淡く輝くその石は、街の灯りを映し、か細い光を放つ。

その色合いが、彼女の瞳の色とよく似ているように思えた。


「ルチカ」


声を掛けると、彼女がゆっくりとこちらを向いた。

瞳に宿る光が、まるで波間に揺れる月明かりのようだ。


「これを、お前に」

「きれい……」


差し出したブレスレットに、彼女は小さく息を呑んだ。

街の明かりが、その表情を優しく照らし出す。

手首で揺れる光沢が、昔から変わらない彼女の優しさを思い出させた。


「青く輝く秘石に魅せられてな。お前の瞳の色に、どこか似ているように思えたんだ」


ルチカの表情が、かすかに揺らぐ。

その仕草に、胸が締め付けられる。


「ありがとう……ジョシュアに何かもらうのはこれで二回目だね」


ルチカがそっと笑う。


「……覚えてたのか」

「覚えてるよ。誰かから贈り物もらったのなんて初めてだったから嬉しかったな。それなのに、ジョシュアったらお礼言ったら、お前が臭いから渡した事に気付かないなんて、とんだ間抜けだなとか言ってさ」

「…悪かったな」


あの時のこと。

塞ぎ込んでいた彼女に渡した花の香りの石鹸。

なじみの商人から押し付けられた新商品を、ただ有り合わせのものとして投げ渡しただけだった。

それを彼女は大切な贈り物として記憶に留めていた。


石鹸は汚れを落とし、清らかな香りを残すものだ。

だが俺の中の汚点は、どんな石鹸でも洗い流せない。

むしろ香りが強ければ強いほど、かつての自分の醜さが際立つようで、胸が痛む。


ルチカへの思いは、まるで石鹸の泡のように繊細で儚いものだ。

優しく包み込むような香り。

だがその泡は、すぐに消えてしまう。

どれだけ懸命に掬い上げても、指の隙間からこぼれ落ちていく。


過去の自分が残した傷跡を消し去ることはできない。

だからこそ、今この瞬間を。この想いを。

ルチカの笑顔を、しっかりと心に刻み付けておきたかった。


「ジョシュア……?」


懐かしい響きのする呼び捨ての声。

どれほど、この声を傷つけてきただろう。

意地悪な言葉、冷たい態度、見下すような視線。

それなのに彼女は、いつも変わらない温かさで接してくれた。


建材の上で握りしめた拳に力が入る。

街の音が遠のいていく。

喉の奥が熱く、締め付けられるような感覚。


「俺は……」


声が震える。

言葉にしようとすればするほど、これまでの過ちが重くのしかかってくる。

街の明かりが、視界でぼやけていく。


「そばに……いてもいいか?」


声を絞り出すように、やっと紡ぎ出した言葉。

その瞬間、頬を熱いものが伝った。


「もう、お前を傷つけたりしない。二度と、冷たくしたりしない。だから……」


言葉が途切れる。

これまでの過ちと、これからの誓い。

そして今、この瞬間の想い。

全てが混ざり合って、もう何を言っているのかさえ分からなくなる。


突然、温かな腕が俺を包み込んだ。

華奢な体からは想像できないほどの強さで、ぎゅっと抱きしめられる。

ルチカの体温が、服越しに染み渡ってくる。

柔らかな髪が頬を撫で、懐かしい石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。


「ジョシュア」


耳元で囁かれる声が、まるで小さな子供を諭すように優しく響く。

あの日、彼女が涙を流していた時、俺は何もできなかった。

望まない婚約を告げられ、俺の背中に縋った震えをそのままにして。

その時の後悔が、今、彼女の腕の中で更なる涙となって溢れ出す。


彼女の肩に触れた手が、微かに震えているのが分かった。

この距離で、こんなにも温かで、柔らかで――。


好きだ。

その言葉が、喉までせり上がってくる。

しかし、それを口にすることなく飲み込む。


「ずっと家族だもの。私のそばにいてくれて、嬉しい」


その言葉に、新たな痛みを感じる。

家族としての愛情。純粋で、温かで、でも――。

それは俺の求める愛とは違う。


けれど今は、この温もりの中にいたかった。

目を閉じると、遠くで祭りの音が響いている。

風が頬の涙を優しく撫でていく。

ルチカの胸の鼓動が、かすかに伝わってくる。


「ありがとう……そばにいてくれて。俺の、そばに……」


震える声で紡ぎ出した言葉に、ルチカの腕に力が込められる。

あの日、彼女の涙を受け止められなかった俺を、今、彼女は確かに受け止めてくれている。

その違いが、胸の奥を強く締め付けた。


家族という言葉の温かさと、その言葉が示す距離の冷たさ。

相反する感情が胸の中で絡み合い、どちらも手放すことができない。


しばらくして、ルチカの温もりが遠のいていく。

彼女が抱擁を解いた後も、俺は顔を上げられなかった。


……何てことだ。

泣いてしまった。しかも、彼女の前で。冷静になった途端、恥ずかしさで地面に顔を埋めたくなる。

あの時、涙を流すルチカを見下していた俺が。こんな弱さを見せるなんて。


「俺は……卑怯者だ」


掠れた声が漏れる。


「昔の俺なら、こんな弱さを見せる奴を嘲笑っていただろう。涙を流すような弱い奴は、この世界で生きていく資格がないってな」


風が冷たく頬を撫でる。

乾いていく涙の跡が、俺の醜さを主張しているようだ。


「トビアスが生きて帰ってきた時も、今もこうして……俺は他人の痛みや喜びがなければ、自分自身の感情に気付くことさえできない情けない奴だ」


自嘲気味に続ける。


「商人としての打算も、家柄を意識した見栄も、今の俺には何もない。だというのに、こんな涙で同情を引こうとするなんて……まるで、他人の優しさにすがりつく弱者じゃないか」


拳を強く握ると、胸の奥でうごめく自嘲と自己嫌悪が肌を刺すように痛む。

街の喧騒が、まるで俺を嘲笑うかのように響いてくる。


「ジョシュア」


ルチカの声が、夜風に乗って届く。


「涙は弱さじゃない。大切なものに気づいた時に流れるものよ」


その言葉に、思わず顔を上げる。

彼女の瞳が、優しく俺を見つめていた。


「トビアスの命の重さに気づいて流した涙。今、私との絆に気づいて流した涙。その全てが、ジョシュアの優しさなの」


差し伸べられた手が、そっと俺の頬を撫でる。

柔らかな指先が、涙の跡を温かく拭っていく。


「ずっと強がってきたジョシュアが、今こうして素直になれたことが、私は嬉しい」


その言葉に、また新たな涙が込み上げてきそうになる。

必死にそれを堪えながら、俺は呟いた。


「……単なる弱さじゃないのか?」

「違うわ。これは強さよ。本当の自分に気づく強さ」


ルチカの言葉が、胸に染み込んでいく。

彼女の手の温もりが、俺の中の自己嫌悪を少しずつ溶かしていくようだった。


今までの俺は、涙を弱さの証としか見なかった。

他人の涙を軽蔑し、自分の涙を否定してきた。

でも、本当は違うのかもしれない。


トビアスの命の重さに気づいた時の涙。

ルチカとの絆に気づいた時の涙。

その全てが、失いたくないものに気づいた時に流れ出た、大切な証だったのだと。


一番書きたかったジョシュアのシーンが書けて良かったです

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