0049 同じような意味の異なる単語を使うことについて
↓2021.12.07
同じような意味の異なる単語を使うことについて
英語では、文章中で同じ意味を複数箇所で表現しようとした場合、それを表現する度に似た意味の異なる単語を使うことが好ましいとされている。そのため、例えば、ニュースの見出しで使われている単語が、記事の本文中では別の単語に置き換えられている、というようなことがよくある。
それは大変に不合理な決まりであり、同じ意味であるならば同じ単語を使った方が誤解されにくくて合理的であると私は考えているが、そういう決まりが定められているからには、英語で文章を書く場合には、その決まりに従うべきだろうとも思っている。(英語では異なる起源で同じような意味を持つ単語が多いのでそのようなことが可能であるし、それは英語の豊富な語彙を維持するために必要なのかもしれない、などと私は考えている。英語圏の人々の頑なな固定観念のせいでもあるだろう。)
しかし、日本語ではそんな決まりはないのだから、同じことをする必要は全くない、と考えている。より正確に表現しようとするならば、同じ意味を表す場合には同じ単語を一貫して使うべきであると考えている。
ただ、同じような意味の言葉であっても、微妙に異なる意味を表現しようとする場合には、異なる単語を使うのは当たり前だとも考えている。
例えば、私は「私」という単語と「自分」という単語を使い分けることが多い。「私」と「自分」は、文脈によっては同じ意味になり、どちらに置き換えても意味が通じる場合もある。その場合には、同じ文章の中では、どちらかの単語に統一すべきだろう。しかし、「私」を「彼」や「彼女」などと対比する単語であり、「自分」を「他人」と対比する単語であると解釈して使用するような場合(あくまで仮の一例である)は、当然同じ文章の中で両方の単語を使い分けても問題はないと考えている。
どういう意味で単語を使い分けているかは、たいていの場合は、文脈で読み取ってもらえばいいと思っている。文章ごとに異なる単語の微妙な意味合いをいちいち説明するのは煩わしいし、説明が困難な場合もある。文章の意味を理解しているなら、使い分けた理由は理解出来るだろうと考えている。(とは言え、文章の難易度が高いと、理解するのが困難な人が増えるのは当たり前だろう。私はなるべく難易度の高い文章を書かないように心掛けているが、内容自体が難解であるのならば、理解されないことが多くなるのは仕方がないと思っている。)
何人かの作家が校正者に対して、同じような意味の単語をむやみに統一されて抗議した、という話を聞いたことがある。それは校正者の文脈を読み取る能力が不足しているからなのだろうな、と私は感じた。機械的に校正して、作者の意図を無視して頑固に主張を変えない校正者には校正する資格がないと思っている。




