0018 扇風機の退化を嘆いたこと
↓2014.07.25
扇風機の退化を嘆いたこと
大学生の時(三十数年前)、自分が所属していた研究室には、戦前からあるのではないかと思うほど古そうな扇風機があった。その扇風機には首振り機能があって、角度を2段階に変更するつまみが付いていた。しかし、どこかが壊れていたらしく、首振り機能は使えなくなっていた。
ある日、風を送っている扇風機を見ていて、何が悪いのかを調べてみたいという気になった。それで、つまみを回すなどして、扇風機をいじり始めた。大学院の先輩がそれに気づいて、分解してみればいい、と提案してくれた。
つまみの部分を分解して、二人がかりで故障の原因を検討した。つまみは扇風機を回すモーターの後部にあって、扇風機を回していると、つまみの下にある円盤もくるくる回っているのは分かっていた。分解してその円盤を見ると、上側の表面に小さな丸い溝が3つあった。つまみの下側の表面にも小さな丸い溝が1つあって、本来は、そこに小さな金属球があって、円盤との間にはさみこまれていたのだろうと推理した。つまり、つまみを回すと、次々に円盤の3つの溝に金属球がカチッとはまるようになっていて、3段階(1つは静止)の調整が出来るようになっていたのだと判断した。実際、紙か何かで作った代用品のボールを溝にはめてみると、首振り機能は復活した。(注:記憶にあいまいな部分がある。何かが抜けていると考えている。)
首振り機能は、円盤と扇風機のモーター部分を連結している腕を通して、円盤の円運動を扇風機のモーター部分の首振り運動に変換することで、成り立っていた。つまみを回すと、円盤に対する腕の連結位置が移動して、首振りの角度を変更出来るということが分かった。非常に見事な仕組みで、よく思いついたなと感心したのだった。(残念だが、腕の連結位置を移動する仕組みが、具体的にどのようなものだったかは覚えていない。円盤が回転してもつまみは回転しないようになっていたはずで、そのへんに工夫があったのだと思う。機械工学を専攻した人なら分かるのでは。)
当時、首振り角度を変更出来る扇風機は他に見たことがなかった。先輩と一緒になって、退化だなと嘆いた覚えがある。
↓2014.08.08
ある研究者へのぼやき
工学的な考え方として、「出来なければ無意味」というのがある。さらに言えば、「理論が分からなくても、出来ればそれでいい」という考え方もある。
以前、ひたすら理論通りにやっていたらうまくいかなかったが、たまたま間違えて、理論通りでないことをやったらうまくいった、という経験談を聞いた。
工学的な発想からすれば、理論を無視するというのではないけれど、理論から外れたところもやってみるというのは、当然の発想である。なぜなら、理論化出来てない未知の現象が存在してない、とは言いきれないからだ。未知の現象を発見したときにこそ突破口が開けるということが、往々にしてあるのは、常識と言っていい。
そんなことも分かっていない人間が研究者であることは情けないことだ、と思った。
↓2014.10.03
論理について
論理的に正しいから、現実に照らし合わせても正しい、とは限らない。なぜなら、論理的に正しいという表現は、あくまで個々の人間の能力の範囲内で判断されたことであり、各自の「正しいという気持ち」を表現したに過ぎないからだ。(意味論的に言えば、「論理的に正しい」は単なる表現であって、現実そのものではない、ということである。人は、しばしば言葉で表現されたことを、現実そのものだと認識する。観念的という表現は、そのような認識の仕方を表している。判断力の低い人ほど観念的である。)
事前に展開していた論理を、現実の把握にともなって間違いであったと気づくことはよくあることである。その場合、より現実に合った新たな論理を展開することになる。つまり、論理はその時点の知見によって変更しうるものであり、幾通りも成り立ちうるものなのである。
一部の現実を判断して成り立っていた論理は、新たな現実の発見によって、次々と改めなければならなくなる可能性がある。だから、人間が展開する論理に絶対はありえない。たとえ、現実に「絶対的な論理(真実)」が存在するのだとしても、人間が認識した論理が「絶対的」であるかどうかを、人間が判断することは不可能である。
新たな現実を目にしても、事前に組み立てられた論理(観念)に固執する人たちが大勢存在している。そのような人々は新たな現実に対処する能力が乏しい。それどころか、心理的に、新たな現実を直視することさえ出来ない場合がある。
より正しく物事を判断したいと思うのであれば、新たな知見を素直に考慮出来なければならない、と思う。




