サングラスと機関銃
着替えが終わると、男はしかめっ面のまま「まずは水汲みからだ」と言った。
その言葉にスノウははい、と頷いた。
外はまだ昼少し前の様子で、これから客がやってくる時間帯のはずだ。
だのに水瓶の中にはそれに耐えうるほど水が入っているかというと、そうではなさそうだった。
客が多く入れば米を追加で炊かなければならないだろうし、茶を淹れる必要もある。
勿論随時洗い物だってしなくてはならない。
あの水瓶は結構な大きさがあったが、それでも水は三分の一しか入っていないのだ。
男は水瓶の横に置いてあった手桶を持つと勝手口を開けて外に出る。
そして肩越しに振り返り、じろりとスノウを見やった。
その視線にこたえるようにして小走りに彼女はついていった。
少し小道を進むと近くに井戸があった。
それはポンプ式などの生易しいものではなく、本当に時代劇に出てくるようなはねつるべ式の井戸であった。
これは滑車と梃子の原理を利用して水を組み上げる仕組みの井戸で、当然水の入った桶を自力で上まで汲みあげるため大変な重労働になる。
少し覗き込むと当然のことながら底は深く、これは間違って落ちぬようにしなくてはならない…とスノウは真剣に考えた。
井戸の上には小さな屋根がついていて雨水などで汚染されないようになっており、井筒は石で組み立てられているいかにも頑丈そうなものだ。
この井筒とは別名井戸側と言い、普通に地面に穴を開けて井戸を作って誰かが落ちてしまっては困るので地上にいくらか設けた囲いの部分のことである。
「いいか、こっちの縄の端には水桶がついてる」
「はい」
スノウはまじまじと男の手元を見つめながら相槌をうった。
「で、この桶を井戸に落とす」
男が井戸の中に無造作に桶を落とすと、ややあってから水音がした。
スノウは実際に井戸を使ったことがないのでこの水音が井戸を使うときに特有の音とはわからなかったが、男がその後桶がついているのと反対側に下がっている方の縄をぐいぐいと引くと瞬く間に水の入った桶が上がってきて彼女を感嘆させた。
「お前、次やってみろ」
男はせっかく汲んだ水を井戸の中にあけて戻してしまうと、そう言ってスノウに水桶を押し付けてきた。
スノウは喉を一つ鳴らすと下唇の内側をぐっと噛み、その桶と桶を引き上げるための縄を男から受け取る。
そして井戸に桶を落としてみたものの、ぺそっというような情けない音がした。
おかしい。
男が桶を落とした時にはもう少しじゃぼん、という風な水に沈む音がした。
しかし桶をこのまま落としたままにしておくわけにはいかない。
眉根を寄せながらぐいと手元の縄を引くと、やはり覚悟していたよりも手にかかる重みがなかった。
「………何かコツなどありますか?」
「…桶を落とす時は横向きに水につくようにやってみろ」
「…はい、もう一度やってみます」
注意深く再度桶を井戸に落とすが、やはりなんだか間の抜けた音がする。
「…とりあえず、お前今日は水汲みやってろ」
「……はい」
スノウはなんだか情けなくなった。
身の置き場がないような心持になって小さな声でなんとか返事をすると、男はのそのそと店へ戻っていく。
そりゃあそうだ、店をほったらかしにして売り上げを逃してしまってはご飯が食べられない。
10回、20回と何度も何度も井戸に桶を落としては引き上げる。
前腕部が熱くなり、鈍い痛みを訴えるがせめて一度はまともに水を汲み上げねば面目が立たない。
やがて掌がじくじくと擦り切れたような痛みに痺れたころ、ようやく彼女は桶に三分の一程の水を汲むことが出来た。
「あれっ、あんた。どこの子だい?」
「えっ、あ」
「あれまあ、髪が酷いことんなっちまって。頬も怪我してんじゃないか」
「あの、私は」
「んで、どこの子だい?アタシぁそこの角のみつ屋で働いてるすぎってもんだけどね」
手桶に水を汲みかえていると横に人の足が見えた。
ぎょっとして振り仰ぐとそこに少しくすんだ薄紫の単衣を着た30代ほどの婦人が手桶を小脇に抱えて立っている。
目の端が切れ上がっていて鼻は少しばかり鷲鼻気味で、肩幅の狭い小柄な婦人だ。
スノウは現代ではそれなりに小柄な体格をしているが、この婦人はそれに輪をかけて小柄だ。
最も、その内面は比例するように華奢なタチではない様子だったが。
婦人は実に威勢のいい様子で矢継ぎ早にスノウに話しかけてきた。
スノウがそれにしどろもどろになりながら何一つ響くような答えも返せずにいると、すぎは「あれっ」とすっとんきょうな声をあげた。
「あんた、その手どうしたんだい!」
そういうなりすぎはスノウの手をとって手のひらをためつすがめつ検分しにかかる。
スノウはもう、顔から火が出るかと思うような有様であった。
見知らぬ相手にいきなり手を触れられたことによる羞恥の気持ちもあったが、このように物慣れなさが手にあらわれているを見られるのがなんとも恥ずかしかったのだ。
「あんた、もしかして水汲んだことがないのかい?まあ、こんな手の皮が薄くて…こりゃあ擦り切れちまうわけだよ。ほら、これ使いな」
そういうとすぎは懐から鶯色の手拭を取り出し、特に擦り切れかたの酷い左手に巻きつける。
「すぎさん、あの、申し訳ないです。汚れてしまいます」
「あらま、すぎさんなんて気取った呼び方しなくたって良いんだよぉ。おすぎって呼んでおくれよ」
「は、はい…おすぎさん」
おすぎと言うと少しばかりサングラスが脳裏にちらついて、スノウは複雑な気持ちになった。
そんなことともつゆ知らず、おすぎはからからと笑いぽんと小脇の手桶を一つ叩いてみせる。
「手ぬぐい、気にしなくったっていいよ。使い古しだしさ、それよかみつ屋にそのうちおいでよ。うちのういろうはうまいよぉ!京風なんだけどさ、ここいらじゃ一番だよ」
そんで、あんた名前は?どこの子だい?とおすぎは言う。
スノウはいよいよ困ってしまった。
ごま塩頭の男の「ここじゃァ何をするにも誰かのお墨付きが必要だ」という言葉が脳裏でちかちかと瞬く。
あの男は確か作次郎と呼ばれていた。
天啓を得たり!その記憶にすがるようにしてスノウは意識してさりげない様子で言った。
「ええと…そう、作次郎さんのところでお世話になってるんです」
「あらま、作さんの!てことは夏虫屋で働いてるのかい」
夏虫屋…?と内心首を傾げたが、スノウはおくびにも出さず曖昧な調子で話を合わせた。
「ええ、まあ…」
「あすこもいい店だよねぇ、ちょいと作さんがヘンクツなのを除けばだけどさ」
「ははは…煮物が良い匂いがしてお腹がすくんですよね」
「今日はどんな煮物出してるんだい?」
「ええと、鰹出汁と砂糖と醤油で味をつけた…蕪と芋の煮物でしたね」
「まぁ!アタシ蕪好きなのよぉ、自分で作るのも良いんだけど、作さんの蕪ってなんだってあんなにおいしンだろ」
困った、話題が途切れない。
何とか名前から意識は逸れたようだがこのまま話し続けているとまた聞かれるだろう。
三度目にも話をそらしてしまえば不信感を抱かれることは必至である。
しかしうかつに名を言うことは憚られた。
「おい、お前。水は汲めたか」
「あれま作さん!」
助かった!スノウはちらりと天を仰いだ。
すぐに顔を作次郎に向きなおらせ、「とりあえず、これだけ汲みました。もう一度汲めば桶が一杯になります」となるたけ愛想よく言う。
作次郎はじろじろとスノウを見ると「そンじゃあさっさと汲ンじまえ」と言う。
それにはい、と返事をするとスノウはもう一度桶を井戸の中に落とした。
じゃぷん、桶が水に沈んだ音がする。
ぐいぐいと前腕部に力を込めて桶を引き上げる最中、おすぎはその後ろでしきりに作次郎に話しかけていた。
「作さん、今日芋と蕪の煮物だって?アタシぁ今日絶対店に行くからね!煮物ちゃんと置いといておくれよね!」
「…お前が早く店にくりゃァいい話だ」
「またそんなこと言う!アタシが蕪大好きなの知ってんだろ、頼むよ作さん。ねっ」
「客には平等に飯を食わせるもンだ」
「そりゃあそうだけどさぁ…」
「あの、水が汲めました」
手桶に水をあけるとちょうど八分目程になった。
このくらいなら持ち運んでもなんとかこぼさずにいけるだろう。
ついでに少しばかり血が付いた縄の部分を水で濡らしておく。
あーあ、やっぱり取れない。仕方ないか。
作次郎はン、と顎で小道の方をしゃくってみせると熊が餌をとりに行くときのような足取りで店へと戻っていった。
スノウはおすぎに会釈を一つすると、その後を手桶を抱えながら追う。
「じゃあ、またねぇ!煮物、食べに行くからね!」
「はい、また!」
背中におすぎの声がぶつかる。
つられて少しばかり大きめな声で返事をすると、スノウはその勢いに少しばかり足をよろめかせた。




