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彼と私の9年戦争  作者: 仁香
3/11

雨の降らない雨模様

「お前、まずは着替えだな」

俺ンだから寸法は合わねェだろうが。

その言葉にスノウは慌てて首を縦に振った。今は何か、とにかく着るものがあるだけでありがたい。

今が幕末だというのなら、今履いているような裏ボアのパンツなんて身に着けていられない。

「ちっとお前、ここで待ってろ。いいか、誰かが店ン中入ってくるかもしれねェが。それは無視して構わねェ」

「あ、はい…」

そう言うと男は建物の外に出て行った。

そこでスノウは改めて建物の中を見回した。

確かにそこは飯処のようだった。

スノウが入ったのは台所につながる勝手口で、男が今出て行ったのは店の玄関口だ。

料理をする土間が客席から丸見えにならないように、紺染の暖簾がかかっている。

短い丈なので全く遮られて見えないことはなく、土間から客席の様子はそれなりに窺えた。

存外店の規模はあるようで、平屋なのだが十五人から二十人ほど座れそうだ。

土間にある釜戸は三つ、一番勝手口に近い左端の釜戸と勝手口の間に水瓶がある。

瓶の中を覗き込むと、水が三分の一程入っていた。


後ろを振り向くと、食品が収まっている棚があった。

これはいわゆる蝿帳という奴だろう。

中には何か野菜が入っている様子だ。

白蕪、そら豆、こごみに長いも…あれはあしたば?絹さやと新じゃがもあるようだ。

白蕪の奥にちらりと人参の葉が見える。

あれは食べるには少し成長しすぎているようだが、葉が見えるということは根がついているのだろう。

下の段には大豆やひじきなどの乾物が入っている。

野菜ばかりだが、幕末ということならば然もありなん。

しげしげと眺めながら考え込んでいると、店の表からおおいと声がした。

反射的にスノウはしゃがみこんで釜戸の陰に隠れる。

がらりと格子が開く音がして、誰かが店の中に入ってきた。

「おおい、作次郎。いねェのかい」

「いつもはこのくらいでも店ン中いるんだが…」

「しかし準備中ってェ看板を表に出してるんだ、少しばかり外しててもそのうち帰ってくるだろう」

「そうさな、ちょいとここで待たせてもらおう」

二人の町人風の装いをした男がそう会話をして、店の入り口近くの席に座る。

スノウは頬を両手で抑え、心の中でどうしよう!と叫んだ。

ごま塩頭の男はまだ帰ってこない。

「にしても喉が渇いたな」

「お前もかい、実は俺もだ」

「どれ、ちょっと茶でも淹れようか」

「勝手に触ると、また作次郎にどやされっちまうぞ」

「なァに、構うまい」

男の片割れが立ち上がると、土間に足を向けた。

その時玄関口がまたぞろ音を立てる。

「お、作次郎。帰ってきたか」

「…お前ら表の看板見てねェのか」

「見たさ、だからこうして待ってたろう」

「作次郎、どうも喉が渇いていけねぇ。おまけに腹が減ってたまらねぇんだ。何か出しちゃくれねぇかい」

「……ちっと待ってておくんな」

そうぶっきらぼうに言うと、ごま塩頭の男はのっそりとした足取りで土間の方へやってくる。

「おう、待たせたな。これでも着てろ」

そう小声でしゃがみこんでいるスノウに包みを押し付けると、男は左端の釜戸の前にしゃがみこんで流しに置いてあった火打ち石を使って器用に火を熾す。

釜戸には鉄鍋がかけられていて、それの中身を温めようとしている様子だ。

次いで真ん中の釜戸に雪平鍋を設置すると、男はその中に水瓶から水を汲み、隣の釜戸から火を移した。

釜戸の熱が顔に容赦なく吹きかけてきて、スノウはしゃがみこんだまま後ずさった。

立ち上がれば暖簾があるとはいえ客の二人に見られてしまうが、このまま釜戸の横にいては邪魔になる。

それに単純に熱いのもあった。

男は淀みない動作で蝿帳の隣にある収納から食器類を取り出すと、流しの淵のところに盆を二つ置き、その上に四つずつ食器を置く。

一つは湯呑、もう一つは長方形の白い小皿、もう一つはご飯茶碗、残りの一つは汁椀にしては一回り大きい。

鰹出汁と芋と、蕪の匂いが鼻腔をくすぐる。

砂糖と醤油の匂いもした。これはひょっとして煮物だろうか。

鍋の中からぷつぷつと音がする。雪平鍋が煮立ち始めるのを横目にごま塩頭の男は急須に茶葉をざっと入れた。

食器棚の隣に置いてある白木の樽から沢庵を取り出すと、ぬかを丁寧に取り除き人差し指程の長さ分切り取る。

残りを樽の中に戻すと、丁寧な手つきでまな板の上に置き切り始めた。

雪平鍋の中身がとうとう盛大に踊りはじめると男はひょいと片手で鍋を持ち上げ、急須の中に入れた。

鍋を釜戸の上に戻さず流しに置くと、急須に蓋をする。

適当に切られた沢庵を小皿に盛り付けると、男はさっさと二つの釜戸の火を消しにかかった。

ざっざと釜戸の火元を弄り、火がこれ以上燃えないようにすると急須に手を伸ばす。

乱雑な手つきだが、それでもおおよそ均等に茶を注ぐと男は台拭きで少しばかりこぼれた茶を拭取った。

そこで男は茶碗を手に取り、一番右の釜戸の上に置かれた鉄鍋の蓋を開けた。

そこの中に入っていたらしきしゃもじを手に持つと、白飯をよそう。

最期に大きめの椀に汁気たっぷりのなんともうまそうな匂いをした煮物を盛り付けると、器用に二つの盆を同時に持って二人組の客のもとへ歩いて行った。

「あんがとよ作次郎!こりゃあうまそうだ」

「さっさと食いやがれ」

「おうおう、わかってら。お前はも少し愛想がよけりゃぁもっといいんだが」

「莫迦野郎、薄っ気味わりィこと言うんじゃねェ」

熊が唸るように言うと、男は客を残してまた土間の方へ戻ってくる。

「…おい、お前まだ着替えてねェのか」

「……あっ、あの、どこで着替えれば」

「ここで良いだろうが………おい、待て。お前まさか」

ぼそりと男はきまりが悪そうに呟く。

「タマぁついてそうに思ったが」

その言葉にスノウはみっともなく口を開けた。

その呆然とした様子に男は「向こうじゃついてなくても洋袴を履くのか」と口ごもった風に言う。

つまり、着ているものがまずかったらしい。

髪はみっともなく短くなっているし、身に着けているものは黒いクルーネックのシャツに裏ボアのパンツ。

女性らしさを感じる要素が、こちらの基準からすると皆無だったようだ。

せめて顔や体格で判断してほしいとスノウは思ったが、懸命にもそれは言わなかった。

藪蛇にでもなったら今度こそバッター三振!ストライク・スリー!である。

「…あいつらがいなくなったらここで着替えろ。その格好で表を歩くと厄介だ」

「はい…」

「俺ァ表に出ておくからよ」

「ありがとう存じます…」

「…おう」



さて、客の二人組はすっかり腹をくちくして帰って行った。

スノウは流しのところに男から渡された包みを広げる。

灰色がかった茶色の小袖と帯、股引と肌襦袢に下駄等男性用の着物一式が入っている。

さて、と彼女は考えた。

ここで私は女なのだからそのような恰好をする、と言うのは下策以外の何ものでもない。

彼女の髪や顔、耳を切りさばいた『男』はうんざりするほどしつこいのだ。

自分がタイムトラベルを起こしたのだから、同じ場所にいた『男』もこの時代にいるのではないかという疑念がどうしてもぬぐえない。

とすると、見つかるとまたぞろとんでもない目にあうだろう。

目くらましとして変装するのは有効な手段だ。

それに、単純に生活するうえで女として生きるのは危険なように思えた。

文久なら、これから戦がいくつか起こるはずで…そうすると勿論治安が悪くなる。

女の身であると侮られて押し入り強盗にでもあってはたまらない。

男と偽っても治安の悪さは当然平等に降りかかってくるのだが、それでも女と言うだけで踏みにじられ方が多彩になるのだ。

こういった髪だからどうせしばらくは男とみられるだろうし、自分や『男』がこのような事態に陥っているのだから、何とかして実家のものが迎えに来るのではないかという期待もあった。

もし迎えに来るのならばそう時間はかかるまい。

なんといっても保険はかけてあるのだ。手段を選ばなければ方法はあるはずである。

まぁ、ちょっとばかり骨は折れるだろうが。

とすると、やはり男で通した方が都合がいい。

短い期間ならばそう問題はないだろう。

どこかしら変装に不備があっても、女々しい男とみられる程度だ。

女が男と偽ってならぬ法もないのだし、男で通せば髪がここまで短くともうっかりして切っちゃったでいけるだろう。

うん、と一つ頷くとスノウはシャツの裾をつかんでぐいと脱ぎ去った。

下に着ていた長袖の下着も脱いで少し考え、重ね着していたキャミソールだけはそのままにしておく。

上から肌襦袢をさっと羽織ると、腰のあたりについている紐を結ぶ。

履いていた黒いショートブーツのファスナーを下げて脱ぎやすくしてから裏ボアのパンツから片足を引き抜く。

上手いこと靴も一緒に脱げた。

パンツの裾を踏まないように手に取って手繰り寄せてから靴下も脱ぎ、足元に下駄をおろしてつっかける。

もう片方の足も同じ要領で脱ぎ、彼女は股引を手に取った。

「これ、寸法合わなさ過ぎておかしいことにはならないかしら…?」

彼女の足は選手の宿命を背負っているため、どうしても太ももがたくましい。

相反して膝下はそれなりにほっそりとしている。あくまでも選手としては、の話だが。

ええい、ままよ。

思い切って彼女は股引に足を通した。

黒いその股引は、足にぴったりとフィットするところが練習着のようで少しばかり懐かしさを覚える。

ほんの少し前までは毎日着ていたものなのに、郷愁にかられるとはおかしなこと。

そう内心おどけてみせては小袖を上から羽織った。

腰紐を一本腰に巻き付けて仮止めすると、帯を手に取って小首をかしげる。

「男性だから腰紐が一本だというのはわかるのだけど…帯の結び方、どうするのかしら」

生憎男性用の帯の結び方など名称しか知らない。

それも、貝の口と神田結びの二つ以外には知識がない。

困り果てて眉根を寄せた時、表の扉ががらりと開いた。

「おい、あー…着替えは済んだのか」

「あの…途中までは出来たと思うのですが」

帯の結び方がわからなくて。とスノウが申し訳なさそうに言うと、男はざりざりと髭の生えかけた顎を撫ぜた。

どこか困ったふうだったが、後ろ手に扉を閉めると土間にいる彼女に近寄り「おい、口で説明するから何とかやってみろ」と言う。

はい、と素直に彼女が頷くと例によってじろじろと眺めながらぶっきらぼうな調子で説明を始めた。

「まずテをとれ」

「このくらいですか?」

スノウが帯の端から40センチほどの長さをつかむと、男は「莫迦野郎、長すぎだ」と言う。

少し考えて30センチほどに掴みなおすと、男は一つ頷いて先を続ける。

「そいつを縦に二つ折りにしろ」

「はい」

「テの付け根を脇腹につけて、先っぽを腹ン前に持ってこい」

「はい…こうですか?」

「そうだ。そンで、帯の反対側を腰に巻く。一巻きめはテの下を通せよ、二巻きめはその逆だ」

「はい…」

男の言うとおりにすると、帯の両端が腹の前で交差した。

だが、随分と端が余っている。

「……もっかい巻け。巻き終えたら今度はたれを作れ。適当に長さをとって、内側に折り返すと出来る」

「…はい、このくらいの長さで?」

「…ま、そンくらいだ。テの下にたれをくぐらせて上に引き出せ。引き出したらテを斜め上に折り返すンだ」

「……こうですか?」

「莫迦、そうじゃねェ。貸してみろ」

男が手を伸ばし、帯のテを整える。

スノウは少しぎくりとした。体が自然と強張る。

「こうして…で、こうだ。おい、ちゃんと見てるか」

「は…はい、見ています」

「帯の形が出来たぞ。後は後ろに回せばいい」

きっちりと作られた貝の口にスノウは瞬きを一つすると、少し冷えた指先で結び目を後ろに回した。

「やっぱり寸が合わねェか…今日のところははしょっておけ。股引履いてンだから構わねェだろ」

「はい、ありがとう存じます」

そう少しぎこちない笑顔で述べると、男は塩の塊をかじったような顔をした。



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