ロンドン橋落ちた、マイ・フェア・レディ!
スノウは呆然としていた。
目の前にはホテルのドアやカーペットタイルはなく、雑然としているのにどこか整然とした日本家屋が立ち並んでいる。
行き交う人々は皆着物を着ており、女性は前掛けをしているのが多く、男性の多くは羽織を身に着けている。
ふと彼女の視線に若い娘がとまった。
苅安で染めたような黄金色の縦縞の着物だ。衿の色は黒。
そこでふと視線を巡らせると、女性が着ている着物の衿に黒がとても多いことに気がつく。
あれはもしや掛け衿か。
ふらりと後ろに一歩下がると、どんと背中が見知らぬ体温に当たった。
心臓が嫌な跳ねかたをする。
慌てて振り向きざまに謝罪文句を紡ぎかけて、視線が背中にいた『誰か』の腰元に吸い寄せられて留まった。
喉もとで言葉がとまる。
彼女は強張った表情で視線を上向かせた。
「おい、あんた…」
「申し訳ない…あの、本当に」
その男は女性のように長い髪を頭上で高く一つにくくっていた。
月代ではない、総髪だ。髷を結っているわけでもない。
しかし腰には刀が佩かれている。そう、刀だ。
日本刀。着物。町を行き交う人々は足袋をほとんど履いていない。
苅安の着物の黒い掛け衿。あれはひょっとして黄八丈?
これは、一体何だ。
様々な情報が彼女の頭の中を駆け巡り、そのうっすらと口紅の残った唇をわななかせた。
スノウはぱっと身を翻し、目についた路地裏に駆け込む。
背中に『誰か』の声がぶつかった気がしたが、それは意識の外のことだった。
路地裏を駆ける、駆ける、駆ける。
がむしゃらに無目的に走り抜けて、膝が笑う頃。彼女はようやく肩をどこかの勝手口に寄りかからせ、立ち止まった。
「何、これ…」
頬を髪がくすぐる。
その感触に苛立ち左手でぐしゃりと掴むと、毛先までが掌に収まった。
さっきまでは、ほんの少しまではこの髪の毛先は背中にあったのに。
項がちくちくとする。
切られたばかりだからなのはわかっていた。
髪がここまで短くなったのは生まれてこの方初めてだったが、以前読んだ小説の一節に切ったばかりの髪が項を刺激する、とあったからだ。
がらりと背後で音がした。同時に空気が動く気配がする。
「おう、あんた。そこのあんただ…中ァ入んな」
ややあって掛けられたその言葉に背中を跳ねさせ恐る恐る振り向くと、そこにはごま塩頭の壮年男性が立っていた。
「おら、これ使えや」
差し出された水で湿らせた手ぬぐいにスノウは目を白黒とさせた。
目の前の男はじろりと彼女をみやり、早くこれを受け取れと態度で示してくる。
おずおずと受け取るも、それをどうしたらいいかわからずに彼女はただ手拭いを握った。
はぁ、と男はため息をつくと指でとんとん、と自分の頬と耳の中ほどを示した。
その仕草にスノウは少し首を傾げると、右手で頬骨の辺りを触る。
ぬるり、とした感触と疼痛が指先と頬に伝わり彼女は瞠目した。
指先に赤く透き通った液体が付着する。
慌てて耳を探るとやはりこちらも同じだった。
「判ったンならさっさと拭っちまえ」
ぶっきらぼうな言葉に彼女は恐縮して手拭いを頬にそっと当てた。
ざらりとした繊維の感触が傷口には少しばかり痛いが、それでも手には柔らかい触り心地だ。きっとこの手拭いはよくよく使いこまれているのだろう。
「あの、ありがとうございます」
遠慮がちにそう声をかけると、男は腕組みをして少しばかり黙り込んだ。
その間にスノウは耳介の少し下のところに手拭いを当てる。
そこはおおよそ頬骨と一直線の場所で、見たものがよくよく考えればそれがどのような経緯でついたのかがわかるような傷跡だった。
彼女が血を拭い終えてほっと一息つき、手拭を畳みなおして血の跡を隠してしまうと、男は直截的な言葉で切り込んできた。
「で、お前行く場所あンのか」
その問いにスノウはぐっと詰まる。
「…い、いえ」
「身寄りはどのヘンだ」
「ここがどこなのかもわからず…おそらくは、とても遠くにいるのだとは思いますが」
「当てもねェんだな」
「………はい」
せめて背筋ぐらいは伸ばしておこうとするのだが、己の身が陥ったいかんともしがたい状況に段々と視線が落ちていく。
男はがりがりと頭を掻き、鼻で息を吐いた。
「今から俺は訳が分からねェ事言うぞ」
「は?…はい、どうぞ」
男はじろじろと不躾なほど彼女の表情を見ながら、全くもって予想外の言葉を口にした。
「鉄で出来た山鯨みてェなモンが走り回って、煙をケツから吐き出すところから来たのか?」
「山鯨…」
その単語が頭の中では上手く結びつかず、魚のようにぱくぱくと口を動かし鳥のように呟く。
男は少し眉根を寄せるとなんでもねェ、忘れろ。と言った。
瞬時、スノウの脳裏にエウレカ!と大音声が響き渡った。
その声は、ひょっとしたら彼女自身のものだったかもしれない。
せき込むようにして彼女は身を乗り出した。
「山鯨というのは、猪のことで合っていますか?」
「他に何があるってンだ」
「貴方は…貴方は、車のことを言っているのですか」
人や、馬や、牛が引くのではない。鉄の絡繰りで作られ、乗っている人間が操作して好き勝手に動かす乗り物です。真正面にはぴかぴかと光る物体がはめ込まれていて、お尻からは匂いのする煙が出ます。
そう彼女が言い募ると、男はどこかほっとした様子で眉根から力を抜いた。
「年号は?」
「平成です!」
「そォかい」
今は、文久だ。
そう男は喉にひりついたように掠れた声音で告げる。
「文久…」
薄々はわかっていた。
ここは自分のいた時代ではない。
町並みは時代劇のセットのようだったし、そのくせ行き交う人々の着ているものは使いこまれていて奇妙なほどにリアリティがあった。
町の匂いは様々なものが混ざっていたが、排気ガスや何か人工的な匂いが感じられなかった。
わかっていたものの改めて人の口から聞かされるとその事実は多大なインパクトを持って彼女の脳にのしかかってきた。
「いいか、お前が知ってるかわかんねェが。ここじゃァ何をするにも誰かのお墨付きが必要だ。長屋を借りるには紹介文がいる。金を稼ごうにも人に紹介されなけりゃ話にならねェ。金がなけりゃァ食い物も手に入らねぇ」
そこでだ。
男は厳めしい顔つきで言った。
「お前、料理はできンのか」
「料理ですか?その…不自由しない程度には」
曖昧な調子でそう彼女が言うと、男はまたもやじろじろと顔を覗き込み問いを重ねる。
「卵は巻けるか」
「出汁と砂糖を入れたのでよろしければ…」
「炊き合わせは」
「ええと、材料と器具があれば…」
しかし、文久ですと私の知っている生活様式と大分違いますので一概には。としどろもどろになりながらなんとか答えると、男は満足そうに身を起こして頷いた。
「しばらくはうちに住め。そんでこの飯処で働きゃァいい。身の回りのことは俺が教えてやらァ」
その言葉に彼女は情けなくも眉を下げた。
「でも…どうしてそうしてくださるのです」
喉から手が出そうなほどありがたい提案だったが、何故このように会ったばかりの怪しい人間に親切にするのか。
そう問いかけると男は「別に、なンだって構わねェだろ」とそっぽを向いた。
その言葉に多大なる不安を覚えたが、他に当てがないのだから仕様がない。
今からえいやと喉を突くような顔つきで彼女は「よろしくお願いします」と言ったのだった。