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86.任命

 万能の力を宿す悪魔―――かつて、スイという人間の少女によって「アオ」と名前を与えられたそれは、スイがいなくなって以来、長い間、ヴァースアックの生きる人々をぼんやりと眺めていた。

 興味もなければ、関心もない。たまに気まぐれで姿を現すことはあっても、深入りすることはない。

 少女を失ってから、彼を支配していたのは、空虚だった。

 何を見ても、誰と話しても。決してそれは変わることがなかった。


 スイと似ている少年と、顔を合わせるまでは。


 誰であろうと、少女の代わりにはなれない。何故なら、あの森の奥で、閉鎖的な家の中で、彼を見つけたのは少女以外の何者でもないからだ。

 言葉を返さない影に辛抱強く話しかけ続け、一緒に遊ぼうとしつこく誘い、何度すげなくされても、拒絶されても、光のような笑顔を向けてきたのは、スイだ。彼女でしかない。

 代用品に、何の意味もない。

 けれど、それを貫くには、彼女の喪失からあまりに時間が経ち過ぎていて、戦いを疎み自然を愛する少年はあまりに彼女の面影を残していた。

 だから、アオは、少年―――カイロウの前に、姿を現した。

 失ったものを、少しでも補うために。




 カイロウとアリナ、カヨウがアルンの国に旅立った後。

 ジョンは悪魔アオに命じた。

 カイロウと、カヨウを殺せと。

 それに抗うことは、不可能だった。

 ジョンという男は、悪魔アオにとって、絶対に反抗し得ない存在だった。それは悪魔アオだけでない。中央のあの森で、牢獄を死守しているあの悪魔おとこもそう。あるいは大昔に人間に取り憑き大陸を混沌に陥れ、英雄王に滅ぼされた、あの悪魔こどももそうかもしれない。


 ジョンは恐ろしい男だ。気安い声質を持ち、その気がなければ一切の違和感も与えない、灰色のローブを纏った怪物。

 誰も、歯向かうことなどできない。


 例外と言えるのは、今は「アルン」と名付けられている国に住まう、あの悪魔おんなくらいだろう。あれはジョンの支配下にはない。

 何故なら、あれは唯一、ジョンが愛した彼女―――マリア個人から生まれたものだからだ。

 ジョンから生まれた悪魔おとこと、ジョンとマリアから生まれた悪魔アオ、そしてジョンとマリアだけでない多くの人々から生まれた悪魔こどもは、ジョンの系譜から逃れられない。


 だから、命令には、逆らえない。

 否、命令と認識する間もなく、己の意思と錯覚して行動していたことも、きっと幾度あったのだろう。


 それは、どうしようもない。当然の摂理。道具が使い手に反抗しえないのと同じように。


 けれど、悪魔アオは、道具ではなかった。

 スイに与えられたものがあった。芽生えた意志があった。代用品を用意してでも、忘れたくない記憶があった。


 カイロウ達を殺せと命じられて。子孫を残さないためにと言われて。

 彼は、解釈を拡大させた。

 要は、子供を作らせなければいい。ならば殺さなくとも、女に近づけさせなければいい。男で囲めてしまえばいい。


 上位者の命令と、己の意地とがぶつかり合う限界の状況で、何が何とも認識できないような視界で、悪魔アオは領地に魔法をかけた。そうして一時を凌いだ。

 けれど、やはり、ジョンの命令は消えてはくれない。殺せと何度耳元で繰り返され、何度念じられたか知れない。

 攻め立てられ、掻き立てられ、それでも悪魔アオは反抗の道を選んだ。


 ―――ジョンの真意は、正確には子孫の存続の有無ではない。

 カイロウとミサ、そして、カヨウとアリナを、交わらせないことだ。

 ならば。

 そうであるとすれば。

 方法は、他にもある。




「で、お前ら二人が女の子になったってわけ」

「いや意味分かんねえよ…」


 カヨウは頭を抱えた。

 現在、食堂のテーブルに兄弟が揃って顔を合わせている。


「いやあ、おれもびっくりしたわけさ。だって女の子になったカイロウがあんまりにもスイちゃんの未来の姿みたいな感じになってんのよ?クソ親父の洗脳なんざそら吹き飛ぶさ。最後に愛は勝つってことね」

「黙れ殺すぞ」

「口さえ開かなければ本当にスイちゃんそっくりなんだけどなあ…」


 ぼやきつつも大人しく悪魔―――カイロウの姿に変身している男は唇を結ぶ。

 その正面の席で、無表情の女―――性別を捻じ曲げられたカイロウは、何度目とも知れないため息を吐いた。


「カイロウ兄さんがそんな物騒なこと言うなんて本当に異常事態ですね…」

「…異常にも程があるでしょ。まだ俺悪夢って疑ってるよ」


 隣り合うミカゲツとヒソラがひそひそと話をしている。

 そうして二人して、机に突っ伏すすぐ上の兄を見やった。


 カイロウと同じく、身体が変化した三男は苦悩に呻いてばかりだ。


 現在、家族会議が開かれていた。

 カイロウとカヨウの変貌、レイシンとミカゲツのみならず領地全域の男の性癖倒錯、更にはカイロウそっくりの戯けた男を目の当たりにして、最早隠蔽は不可能だった。

 家の掟を破り、カイロウは、悪魔という存在について、きょうだい全員に情報を開示した。

 そして、今この地で何が起こっているのか、どういう経緯でそうなったのかを、悪魔本人による解説も交えて共有している。


 元々事情を把握しているレイシン、先日カイロウから打ち明けられたカヨウ、ある程度の推測を自分で立てていたミカゲツはともかく、ヒソラにとっては寝耳に水な話ばかりであり、本人の性格もあって受け止めるのにかなりの時間を要した。


 悪魔って何それとか。そいつにカイロウ兄さんが長年脅迫されてたとか。そいつのせいで男の皆がおかしくなったとか。そいつのせいで兄さん二人が女になったとか。


「そいつ倒したら全部解決するとかならないの…?」

「悪いなヒソラちゃん。おれが死んでも力は残る。ていうかおれほとんど不死身だし」

「怖すぎるでしょ…あとカイロウ兄さんの見た目でその口調本当にやめてほしい」


「貴方の意志で解除はできないんですか?」

「悪いなミカゲツちゃん。今こうしておれが正気に戻ってるのはスイちゃんのおかげと、曲がりなりにも「カイロウとカヨウを殺す」っていう目的が達成されてるからなのよ。そいつらが男に戻ったら多分またおれイカレる。んで制御不能で暴れる可能性大」

「やっぱり殺した方がいいんじゃないんですか?」


「…それで…多少は緩和されたとはいえ…我々の、兄上とカヨウへの認識の修正はいつ為されるというのだ」

「悪いなレイシンちゃん。そこもさっき言った目的達成に含まれる。我慢してくれ」

「まあでもその点については利点もありますよレイシン兄さん」


 ミカゲツが口を挟み、諦めも多少混じった笑顔を浮かべる。


「僕はね、日頃からお尻派を公言してますけど」

「何の話だ貴様」

「最後まで聞いてください。勿論お尻が大好きです。一番です。それは変わりません。でもね、僕、別に胸が嫌いってわけでもないんですよ」


 えい、と唐突にミカゲツが隣席のカヨウの胸部に触れた。

 女の喉で野太い悲鳴を上げてカヨウが弟の椅子を蹴り飛ばす。

 衝撃で床に投げ出されつつも、ミカゲツは穏やかな顔で立ち上がった。


「見てください。何も感じないんですよ。触っても、何も」

「……それはまさか…」

「はい。多分、男のカヨウ兄さんに好意を抱いているから、です。女のカヨウ兄さんには毛程も興味がわかないんです」

「…なんという…」

「だから良かったですよ逆に。だって考えてみてください。正常な状態の時に、女のカヨウ兄さん前にして、万が一ドキドキなんてしてみてくださいよ。自害するしかないですよもう」


 レイシンがやり切れない顔をして首を振る。ヒソラは「怖…」と小声で溢した。


「…ふざけんなよ…オレだって、オレだってなあ…」


 わなわなと震えていたカヨウが、カッと目を見開いて机に拳を叩きつけた。


「オレだって揉みたかったよ!!だって見てみろよめちゃくちゃでけえぜ!?流石オレだぜ!?でもさあ!でもさあ…っ触っても…何も、感じなかったんだよ…!!体が女になってるせいか感覚が歪んでるのか知らねえけど、あんなに焦がれていた巨乳がさあ、目の前にあるのにさあ!いつだって揉めるのにさあ!全然興奮できなかったんだよ!!こんなのってあるか!!?こんなのって…!」


 ガックリと、力を失ってカヨウは背もたれに体を預ける。しかし何かに気付いたのかハッと息を飲み身を乗り出した。


「この感覚…この、空虚でどうしようもない絶望感…!これか…!兄貴!あんたが剣を握れない理由!焦がれているはずなのに手には虚しさしかない!もう一回試みて駄目だったら心が死にそうで踏み切れないこの恐怖…!理解できた…!共感するぜ兄貴!」

「殺すぞ」

「すいません」


 何の話か知りませんけど兄さんと一緒にしちゃ駄目ですよ、とミカゲツが宥めるようにカヨウの背中を叩いた。

 投げやりな様子でカヨウは手を振り払う。


 ―――その様を、アリナはキリカの隣席にて、生温い目で見つめていた。


 色々あった。あり過ぎたとも言える。過去の幻の世界に飛ばされた時も大変だったが、これはそれとはまた別の異質さが満ちている。


 まずカイロウだ。アリナは、悪魔が見せた幻の世界で、英雄王の一行と、剣王の妹であるスイの姿を目にしていた。幻の中の少女は確かに現実のカイロウと少しだけ似ていたが、悪魔が執着するほど酷似しているとは思えなかった。

 しかし。実際に女性となったカイロウを前にして、アリナは認識を改める。

 本当に、よく似ていた。つぶらだが意志の強そうな目も、透明感のある声も、細い体躯も、それが故かどことなく儚そうな雰囲気も。

 表情が死んでいなければもっと似ていたことだろう。スイはよく笑う少女だった。


 アリナの視線に気付いたのかカイロウは疲れ切った顔を上げる。アリナは苦笑いして目を逸らした。


 続いて、カヨウ。

 こちらは実に生命力に溢れた印象だ。元の体が大きい故だろうが、背が高く、筋肉も残しながら全体的に肉付きが良い。

 兄(姉)カイロウと作りは似つつもくっきりとした顔立ちは明朗な印象を与え、豪快な仕草は自然と注目を集める。

 声質も、元々の彼が圧倒的な声量を誇っていたのもあって、どれだけ騒がしい場でもよく通るだろうと容易に想像できた。

 髪の長さはそこまで変わらなかったカイロウとは異なり、彼の短髪だった髪の毛は背中まで伸びており、鬱陶しがって切ろうとして悪魔に「戻った時坊主になってても責任取らねえからな」と脅され今は大雑把に束ねている。


 アリナと目が合うと、「やだわ、はしたない」と先ほどの猥談を誤魔化すようにすまし顔になったので、思わず笑ってしまった。


「…それで、結局、万事解決するためには、どうしたらいいんですか?」

「それは簡単な話さ。ジョンを殺せばいい。あいつさえいなければおれも狂わないで済む。全部元通りにしてやるよ」

「…貴方のような危険生物を野放しにはしておけないから全部元通りになった暁には僕らに封印とか拘束とかされる可能性が高いわけですが、それについてはどうお考えで?」

「それはもうしょうがねえだろ。正直…もう、いいんだ」


 カイロウの顔をした悪魔はあっさり答えると、目を伏せて口を結ぶ。瞳の色に微かな青が混ざったようにアリナには見えた。


「お前らには分かんねえだろうけど、おれ、今、本当に正気に戻れてんだよ。これ以上あいつを忘れて、捻じ曲げて、妄執に囚われる前に…お前に殺されるんなら、それでいい」


 穏やかな悪魔の目線を、静かにカイロウは受け止めた。

 無表情のカイロウが何を考えているのかは分からない。対照的に悪魔は誰がどう見ても満足気で、本心から述べているようにしか思えなかった。

 それがやり口なのでは、とミカゲツは内心警戒を強め、レイシンは悪魔が何か企んでいるに違いないと疑いをやめない。

 アリナは、何も言えず見守ることしかできなかった。


 悪魔が諸々の原因であることは間違いないし、彼がいなければ事態が混迷しなかったのは事実。

 それと同時に、彼が一人の少女を想い、彼女と共にあるためにこの地を築き、ヴァースアックの基盤を整え。絶望して心を閉ざし苦しみ続けていたのもまた、事実だった。


 時間を置いて多少精神が回復してきたのかカヨウが片手を挙げる。


「で、肝心のジョンってのはどこにいんだよ」

「知らねえ」

「でもお前、最近そいつに命令されたんだろ?てことはまだ近くにいるんじゃねえの?」

「…いや。その可能性は低い」


 割って入ったカイロウが低く告げた。


「私もそのジョンと名乗る男と会ったことがある。が、奴は得体の知れない力を所持していた。瞬間移動に洗脳に、加えておそらく回復能力。生半可な人間では太刀打ち出来まい」

「ああ、そういや言ってたなそんなこと…」

「では、一体どうすれば良いのですか。悪魔の力すら超越するような怪異など、どう対処すれば」


 レイシンが険しい顔つきで言い募る。カヨウが首を捻り、ミカゲツは顎に手を当て、ヒソラは積み重ねられる情報に目を回している。


 ジョン、という名前。アリナは最近、別の場所で耳にしたことがあった。

 そして、彼女と共にその場にいたカイロウもまた、それを覚えていたのか、娘の澄んだ声で口にした。


「中央大森林。そこに、ジョンにまつわる何かがあるらしい」


 元来のものより印象が柔らかくなった黒い目を細め、カイロウは淡々と続ける。


「準備が出来次第、彼の地へと旅立つ―――そのつもりだった」

「つもり?」

「私と、カヨウ。こうなってしまった以上、安易に出歩けまい」

「えっマジ?オレも駄目なの?別に誰も気にしないだろ、なんで?」

「お前達には悪魔の情報を共有したが。他の者にまでおいそれと存在を明かすわけにはいかない。屋敷の人間まででぎりぎりだ。要らぬ憶測を防ぐために、お前と私は姿を見せず、この屋敷内に引き篭もるしかない」


 出不精とは無縁のカヨウは口を尖らせるが、反論が浮かんでこないのか大人しくしている。


「加えて。私と、お前。それに…この地の男性全てにも当てはまる話だが…現況、私達には悪魔の力が蝕んでいる。身体に、精神に、深く根付き、歪ませている。多少の記憶操作とは異なり、人格すら揺るがす大規模の力。言わば…その悪魔の支配下に置かれていると言ってもいい」

「ごめーん」

「マジかよ…」

「ジョンの命令を受けているその者が、いつ発狂して我々の体を乗っ取り操るとも知れない。せめて、この地の中で暴動が起きるならまだしも、外部で発症した場合、その影響は計り知れない」


 黒い悪魔の剣士が我を忘れて旅先で暴れる地獄絵図を想像し、彼らは沈黙した。

 「さっきはノリで謝ったけどそれは流石に考え過ぎだと思うけどな?そこまでおれ落ちぶれてねえし?」と悪魔が付け加えてくるが、それを信頼できるわけもなく。

 カイロウは、娘の声で重々しく裁定を下す。


「故に。我々はこの地を離れられない。であれば…悪魔の力を逃れた者に託すしかない」

「…それって…おいおい」


 カヨウが意外そうに髪を掻き上げ、ミカゲツは気遣わしげな視線を彼に向けた。

 話の流れについていくのが精一杯だった少年は、自身に注目が集まっているのに気づいて瞬きをする。


「…え?」

「ヒソラ。お前に託す」

「…ええっ!?」


 目を見開き、ヒソラは、大声を出して立ち上がり、椅子を倒した。

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