第四話:昨日の余熱
雨が上がった翌日の放課後。
昨日の夕立が嘘のように空は澄み渡り、秋の柔らかな日差しが旧・第一資料室をオレンジ色に染めていた。
ガラ、と扉を開けると、いつもの甘い匂いと静寂が僕を迎える。
「……あ、黒木くん」
窓際の特等席にいた瑠愛が、読書の手を止めて顔を上げた。
今日は天井からの雨漏りもなく、二人の机はいつものように「二つ分」離れた定位置に戻されている。
「うす。……昨日は、ありがとうね。ひざ掛け」
「ううん。別に……寒かったから、お互い様」
瑠愛は少しだけ目を泳がせながら、短く答えて視線を本に戻した。
会話はそこで途切れ、部屋にカサリとページをめくる音が響く。
いつも通りの、不干渉で静かな空間。
……のはずだった。
(……なんか、意識しちゃって集中できない)
僕はノートを開いたまま、ペンを握る手をとめていた。
昨日、あの狭い作業デスクで共有したひざ掛けの温もり。ほんの「3センチ」の距離で伝わってきた彼女の体温や、かすかに揺れていた赤い耳の記憶が、頭から離れてくれないのだ。
ちらりと瑠愛の方を見る。
彼女はいつも通り淡々と文庫本を目で追っているように見えた。けれど、よく観察すると……さっきから一度もページがめくられていない。
(もしかして、涼風さんも……?)
そんな考えが頭をよぎった瞬間、ドクンと胸が高鳴った。自意識過剰かもしれない。でも、彼女の背中がどこか少しだけ強張っているように見えた。
カツン、と小さくペンを机に置く音が響く。
瑠愛はふうと小さく息を吐くと、ノートの切れ端を取り出し、さらさらとペンを走らせた。
そして、すっと立ち上がり、僕の机の前まで歩いてくる。
スカートの裾が揺れ、彼女の影が僕のノートの上に重なった。
差し出された紙片を受け取ると、そこには丸みのある文字でこう書かれていた。
『集中できてないでしょ。ペン、ずっと止まってる』
バツが悪くなって顔を上げると、瑠愛は腕を組み、少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「……涼風さんだって、さっきから同じページで止まってるじゃん」
つい思ってもいない反論が口をついて出た。
言った瞬間、「しまった」と後悔する。普段の僕なら、絶対に言わないような軽口だった。
瑠愛は一瞬驚いたように目を丸くした。
そして、ポンと両頬を自分の手で叩くと、耳まで真っ赤にしてそっぽを向いた。
「っ……見てたの?」
「あ、いや、意地悪で言ったんじゃなくて……!」
慌てる僕を見て、瑠愛はぷいっと背を向け、自分の席に戻ってしまう。
やってしまった。余計なことを言って気まずくさせてしまったと頭を抱えかけた、その時。
カサ、と机の上に新しい紙片が置かれた。
戻ったはずの瑠愛が、顔を赤くしたままもう一度僕の机まで来て置いていったのだ。
そこには、今までで一番小さく、少し震えた文字で書かれていた。
『昨日のこと、思い出してたの。……黒木くんのせいだからね』
言葉の意味を理解した瞬間、今度は僕の顔が一気に熱くなった。
紙片から視線を上げると、瑠愛は自分の席で完全に本で顔を隠し、背中を丸めていた。隠しきれていない真っ赤な耳が、夕陽に照らされて綺麗に透けている。
(……ズルいのは、そっちだろ)
僕は胸の奥がぎゅっと締め付けられるような愛おしさを感じながら、ペンを握り直した。
二人の机は、元通りの「ふたつ分」離れている。
だけど、昨日縮まった二人の心の距離は、もう元には戻らないみたいだった。




