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放課後、空き教室の3センチ  作者: 三日月
第一部 二章:②名前のつかない距離

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第十三話:呼び捨てのぬくもりと、特別な名前

前の続き

「……わかった。瑠愛」

覚悟を決めてその名前を口にした瞬間、僕の喉の奥が熱くなり、心臓が爆発しそうなほどの勢いで打脈を打ち始めた。

目の前の少女(るあ)の手が、ピクッと跳ねる。

彼女は自分の両手で包み込んでいた僕の手をぎゅっと握りしめ、そのまま額を僕の手に押し当てるようにして顔を伏せた。

「……っ」

「瑠愛……? どうしたの?」

慌てる僕に、伏せられた頭の先から、消え入りそうな声が返ってきた。

「……ううん。ただ……すごく、胸が苦しい」

「え、どこか痛い……!?」

「違う……バカ」

瑠愛はゆっくりと顔を上げた。

マフラー越しでもわかるほど真っ赤に染まった頬、そして潤んだ瞳が、窓から差し込む街灯の光を反射してキラキラと輝いている。

「苦しいのは……嬉しすぎるから。黒木くんに名前を呼ばれただけで、こんなに胸がドキドキするなんて、思わなかった」

「っ……」

直球すぎる言葉に、今度は僕の方が言葉を失った。

彼女は学年一の美少女として、周囲から『涼風さん』と崇められ、遠巻きに見つめられてきた。誰も彼女の本当の素顔を見ようとせず、彼女自身もまた、他者を寄せ付けない氷の壁を築いていたのだ。

その彼女が今、この古い資料室の中で、僕の手を握りしめながら素直な感情を溢れさせている。

「……じゃあ、私も」

瑠愛は一度だけ深呼吸をすると、握りしめた手にさらにぎゅっと力を込めた。

上目遣いに僕の目を真っ直ぐに見つめ、小さな唇をゆっくりと開く。

「……湊(みなと)」

「……!」

名前を、呼び捨てで呼ばれた。

「……『黒木くん』も……『くん』付けも、もうやめる。この部屋にいる時は……『湊』って呼ぶ」

「……あ、うん」

「……もう一回、言ってもいい?」

瑠愛は少し不安そうに眉を下げて、おねだりするように僕の顔を覗き込んできた。

「……湊」

「……瑠愛」

「……湊」

「……瑠愛」

何度も互いの名前を確かめ合うように呼び交わす。

ただ名前を呼んでいるだけなのに、まるで特別な呪文を唱えているみたいに、身体の芯からじわじわと温かい熱が広がっていく。

学校の教室では「黒木くん」と「涼風さん」。

挨拶すら交わさない、遠いクラスメイト。

でも、この『旧・第一資料室』の扉を閉めた瞬間、僕たちは世界でたった二人の「湊」と「瑠愛」になれるのだ。

「……湊の手、すごく温かいね」

「瑠愛の手もだよ。……さっきまで冷たかったのに、今はぽかぽかしてる」

「ふふ、湊が美味しいお弁当作ってくれたからだよ」

瑠愛は嬉しそうに目を細めると、僕の手を握ったまま、そっと僕の肩に自分の頭を預けてきた。

さらりと揺れた彼女の黒髪から、甘いシャンプーの匂いが漂う。

肩に伝わる彼女の頭の重みと、膝の上で重なる二人の体温。

「……ねえ、湊」

「ん?」

「私……放課後が来るのが、毎日楽しみで仕方ないよ。家に帰るのが嫌だった毎日が……今では、早く明日になってほしいって思えるの」

肩口から聞こえる瑠愛の声は、とても柔らかく、穏やかだった。

「……僕もだよ、瑠愛。明日も、明後日も……ずっと、ここに来るから」

窓の外では冷たい冬の風がヒューと音を立てて吹き抜けていたけれど、僕たちの周りだけは、まるで春が訪れたかのように温かかった。

名前を変えただけで、世界がまるごと塗り替えられたような感覚。

僕たちの「3センチ」の距離は、完全に溶けてなくなっていた。

やっぱり名前呼びすては改めて良いものだ

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