第十三話:呼び捨てのぬくもりと、特別な名前
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「……わかった。瑠愛」
覚悟を決めてその名前を口にした瞬間、僕の喉の奥が熱くなり、心臓が爆発しそうなほどの勢いで打脈を打ち始めた。
目の前の少女の手が、ピクッと跳ねる。
彼女は自分の両手で包み込んでいた僕の手をぎゅっと握りしめ、そのまま額を僕の手に押し当てるようにして顔を伏せた。
「……っ」
「瑠愛……? どうしたの?」
慌てる僕に、伏せられた頭の先から、消え入りそうな声が返ってきた。
「……ううん。ただ……すごく、胸が苦しい」
「え、どこか痛い……!?」
「違う……バカ」
瑠愛はゆっくりと顔を上げた。
マフラー越しでもわかるほど真っ赤に染まった頬、そして潤んだ瞳が、窓から差し込む街灯の光を反射してキラキラと輝いている。
「苦しいのは……嬉しすぎるから。黒木くんに名前を呼ばれただけで、こんなに胸がドキドキするなんて、思わなかった」
「っ……」
直球すぎる言葉に、今度は僕の方が言葉を失った。
彼女は学年一の美少女として、周囲から『涼風さん』と崇められ、遠巻きに見つめられてきた。誰も彼女の本当の素顔を見ようとせず、彼女自身もまた、他者を寄せ付けない氷の壁を築いていたのだ。
その彼女が今、この古い資料室の中で、僕の手を握りしめながら素直な感情を溢れさせている。
「……じゃあ、私も」
瑠愛は一度だけ深呼吸をすると、握りしめた手にさらにぎゅっと力を込めた。
上目遣いに僕の目を真っ直ぐに見つめ、小さな唇をゆっくりと開く。
「……湊」
「……!」
名前を、呼び捨てで呼ばれた。
「……『黒木くん』も……『くん』付けも、もうやめる。この部屋にいる時は……『湊』って呼ぶ」
「……あ、うん」
「……もう一回、言ってもいい?」
瑠愛は少し不安そうに眉を下げて、おねだりするように僕の顔を覗き込んできた。
「……湊」
「……瑠愛」
「……湊」
「……瑠愛」
何度も互いの名前を確かめ合うように呼び交わす。
ただ名前を呼んでいるだけなのに、まるで特別な呪文を唱えているみたいに、身体の芯からじわじわと温かい熱が広がっていく。
学校の教室では「黒木くん」と「涼風さん」。
挨拶すら交わさない、遠いクラスメイト。
でも、この『旧・第一資料室』の扉を閉めた瞬間、僕たちは世界でたった二人の「湊」と「瑠愛」になれるのだ。
「……湊の手、すごく温かいね」
「瑠愛の手もだよ。……さっきまで冷たかったのに、今はぽかぽかしてる」
「ふふ、湊が美味しいお弁当作ってくれたからだよ」
瑠愛は嬉しそうに目を細めると、僕の手を握ったまま、そっと僕の肩に自分の頭を預けてきた。
さらりと揺れた彼女の黒髪から、甘いシャンプーの匂いが漂う。
肩に伝わる彼女の頭の重みと、膝の上で重なる二人の体温。
「……ねえ、湊」
「ん?」
「私……放課後が来るのが、毎日楽しみで仕方ないよ。家に帰るのが嫌だった毎日が……今では、早く明日になってほしいって思えるの」
肩口から聞こえる瑠愛の声は、とても柔らかく、穏やかだった。
「……僕もだよ、瑠愛。明日も、明後日も……ずっと、ここに来るから」
窓の外では冷たい冬の風がヒューと音を立てて吹き抜けていたけれど、僕たちの周りだけは、まるで春が訪れたかのように温かかった。
名前を変えただけで、世界がまるごと塗り替えられたような感覚。
僕たちの「3センチ」の距離は、完全に溶けてなくなっていた。
やっぱり名前呼びすては改めて良いものだ




