第十二話:言葉の先の「3センチ」
「っ……ふぅ」
唐揚げを噛み締め、なんとか飲み込んだ瞬間、胸の奥から熱いものが一気にこみ上げてきた。
瑠愛の差し出したお箸から、直接食べさせてもらったという事実。その衝撃と恥ずかしさで、僕の顔は火が吹き出しそうなほど熱くなっていた。
「……どう? 美味しい?」
当の瑠愛はといえば、差し出していたお箸を自分の手元に引き戻し、少しだけ首をかしげて僕の反応を窺っている。
真っ赤になった耳をマフラーで必死に隠そうとしているものの、その瞳にはどこか悪戯っぽい光が宿っていた。
「……美味しいよ。自分で作ったやつだけど、瑠愛に食べさせてもらうと、なんか全然違う味がする」
「なっ……! 変なこと言わないでよ!」
急に素直な感想を口にした僕に驚いたのか、瑠愛はポンッと顔をさらに赤くして、慌てて二段弁当の下段——ごま塩の乗ったご飯へと視線を落とした。
そして、小さめの口でお弁当を大切そうに一口ずつ運んでいく。
静まり返った旧・第一資料室に、カチャカチャと心地よいお箸の音だけが響く。
冬の夕日は釣瓶落としだ。
窓の外はあっという間に群青色から深い闇へと変わり、街灯の冷たい光がうっすらとガラス窓を照らし始めていた。室内も急激に冷え込んできて、吐く息がうっすらと白く染まる。
「……あ」
半分ほど食べたところで、瑠愛がふと手を止めた。
「どうしたの? 口に合わなかった?」
「ううん、違うの。……あんまり美味しくて、一気に食べちゃうのがもったいなくなっちゃって」
そう言って、瑠愛はお弁当の蓋をそっと閉め、愛おしそうに撫でた。
「残りは、家に帰ってから食べる。……お父もお母もいない静かな部屋で、これ食べるね。そうしたら、一人で食べる夕飯も……寒くないから」
ぽつりと溢されたその言葉に、僕は胸がぎゅっと締め付けられるような愛おしさを覚えた。
彼女にとって、この二段のお弁当は単なる食事ではなく、寂しさを埋めるための大切な存在になってくれているのだ。
「……じゃあ、また作るよ。瑠愛が食べたいって言ってくれるなら、妹たちに疑われようが、何度だって作ってくる」
僕がそう告げると、瑠愛はゆっくりと顔を上げた。
揺れる大きな瞳が、真っ直ぐに僕を見つめ返す。
「……ほんと?」
「うん。絶対」
瑠愛は小さく吐息を漏らすと、自分のパイプ椅子をズズ……と音を立てて僕の方へ引き寄せた。
いつもなら机二つ分、最低でも「3センチ」の距離を保っていたはずの彼女が、自らその境界線を破ってきたのだ。
二人の肩が触れ合いそうなほど近い。
彼女が纏う、冬の澄んだ空気と甘い香水の匂いが、ダイレクトに僕の鼻腔をくすぐる。
「……黒木くん」
「な、なに……?」
「手……出して」
言われた通りに右手を差し出すと、瑠愛は自分の両手で、僕の手をすっぽりと包み込んだ。
先ほどまで冷え切っていた彼女の指先が、お弁当と唐揚げの熱のせいか、驚くほどポカポカと温かい。
「……さっきのお礼。私、黒木くんに温めてもらってばっかりだから」
「瑠愛……」
「『瑠愛』じゃなくて」
ふいに、彼女の手のひらにキュッと力がこもった。
瑠愛は上目遣いに僕の目を見つめ、蚊の鳴くような小さな、だけど強い声で囁いた。
「……誰もいないここでは、『瑠愛』って呼んで」
「え……」
「クラスのみんなと同じ呼び方は……嫌。この部屋にいる時くらい……私を『瑠愛』って呼んでほしいの」
頬を赤く染めながら、一生懸命に想いを伝えてくる彼女。
もうそこには、誰も寄せ付けないクールな学年一の美少女の姿はなかった。ただただ不器用で、愛おしい一人の女の子がそこにいた。
「……わかった。る..瑠愛」
名前を呼んだ瞬間、彼女の手がピクッと跳ね、満足そうにふにゃりと口元を緩ませた。
「……うん。……黒木くん」
触れ合う体温と、指先から伝わる鼓動。
二人の間の「3センチ」は、言葉と名前を分け合うことで、ついにゼロになろうとしていた。
名前呼びはいいぞ!




