第24話 白い豆は、やわらかいごちそうになる
保存庫の涼しい棚に置いた小さな瓶は、朝になってもそのままだった。
布をかけた陶器の瓶。中には、海の塩水から塩を取ったあとに残った苦い液が、ほんの少しだけ入っている。ミオはそれを見て、しばらく動かなかった。まだ名前はつけていない。用途も決めていない。ただ、捨てないと決めただけだ。
現代の記憶の奥に、白い四角い食べ物があった。
名前は分かる。豆腐。食べたこともある。鍋に入れたこともある。けれど、作ったことはない。どうして固まるのかも、きちんと考えたことはなかった。豆腐は、店で買ってくるものだった。透明なパックに入っていて、台所で水を切って、鍋や皿に入れるものだった。
だから、今あるのは正確な作り方ではない。
豆をすりつぶす。白い汁を取る。苦い液を少し入れる。たぶん、固まる。
それくらいの、かなり雑な記憶だけだった。
「……いけるかな」
ミオがつぶやくと、保存庫の入り口で白狐が耳を動かした。
「何がですか」
「白い、やわらかい食べ物」
「麦がゆとは別ですか」
「別」
「重要ですか」
「うん。たぶん重要」
「では、早くしましょう」
「まだ成功するって決まってない」
「成功させればよいです」
「簡単に言う」
ミオは瓶を持ち、豆袋の棚へ向かった。
豆は多くない。ルーナ村から届いた分もあるが、まだ試験に使える量は限られている。失敗すれば、食べ物を無駄にする。だから、ほんの少しだけ使う。
ミオは豆袋をひとつ開けた。
丸い豆が、布の中でころころと音を立てる。
[BEAN SAMPLE]
――――――――――
乾燥豆:少量
水戻し:必要
粉砕:必要
抽出候補:白色液
凝固候補:未確認
注意:食料資源
――――――――――
「注意、食料資源……うん、分かってる」
ミオは表示に少しだけ顔をしかめた。
食べ物で遊ぶわけではない。でも、試さなければ増えないものもある。塩もそうだった。水もそうだった。少しずつ、失敗して、戻して、使える形にする。
今度も小さく見る。
それでいく。
広場の端に、作業台代わりの板を置いた。村の女の人たちが、豆と水と布を用意してくれる。昨日の塩作りを見た村人たちは、今日は少しだけ期待した顔をしていた。
「今日は、何を作るんですか」
「豆の汁を固めます」
「豆の汁」
「はい」
「……固めるんですか」
「固めたいです」
「固めたい」
村人の顔が、少し不安になった。
ミオも、今の説明はだいぶ変だと思った。
「ええと、豆をすりつぶして、白い汁を取ります。それを少し固めると、やわらかい食べ物になる……はずです」
「はず」
「はい。試験です」
「小さく見る、ですか」
「そう。小さく見ます」
その言葉で、村人たちが少し落ち着いた。
白狐は作業台の横に座り、真剣な顔で豆を見ている。
「豆は、麦がゆに入れてもよいです」
「今日は違うものにする」
「豆が別のものになるのですね」
「うん」
「重要です」
「早い」
ミオは豆を水に浸した。
すぐに作れるわけではない。乾いた豆は硬い。水を吸わせる必要がある。アナライザブルデバッガーで見ると、豆の表面に水がゆっくり入っていくのが分かる。
[SOAKING PROCESS]
――――――――――
乾燥豆:水分吸収中
推定時間:短縮可能
補助:温水使用可
注意:過加熱禁止
――――――――――
「温水で少し早められる」
ミオは火にかけたぬるい水を用意してもらい、豆を移した。熱すぎるとだめ。ぬるいくらい。村人には「豆を起こします」と説明した。
白狐がそれを聞いて、豆を見た。
「豆は寝ていたのですか」
「乾いてたから」
「では、起きるまで待つのですね」
「そう」
「豆も人間も、手がかかります」
「白狐さんもけっこう手がかかるよ」
「私は重要です」
「否定しづらいのが困る」
しばらくして、豆が少しふくらんだ。
ミオはそれを石臼に入れ、村の人に手伝ってもらいながらすりつぶす。ごり、ごり、と音がする。豆のにおいが立つ。水を足すと、白っぽい液が出始めた。
村人が目を丸くする。
「白いですね」
「これを布でこします」
ルーナ村から届いた布を出す。細かすぎず、粗すぎない。まだこのために作ったものではないが、試すには十分だった。ミオは布を器の上に広げ、すりつぶした豆を入れて、ゆっくりしぼった。
白い液が落ちる。
ぽた、ぽた。
器の底に、淡い白が溜まっていく。
[SOY-LIKE EXTRACT]
――――――――――
白色液:抽出成功
繊維残渣:分離
加熱:必要
凝固反応:未確認
――――――――――
「出た」
ミオの声に、村人たちが近づいた。
「これが食べ物になるんですか」
「このままだと、まだ途中です」
「飲むものですか」
「飲めなくはないかもしれないけど、今日は固めたい」
白狐が器を見つめる。
「白いです」
「白いね」
「麦がゆより白いです」
「基準が麦がゆ」
「分かりやすいです」
「まあ、分かる」
ミオは白い液を小鍋に移し、弱い火にかけた。焦がさないように、ゆっくり混ぜる。現代なら温度計がほしいところだが、ここには透明な板がある。
[HEAT CONTROL]
――――――――――
白色液:加熱中
温度:上昇
焦げ付きリスク:低
凝固準備:未達
――――――――――
湯気が上がる。
豆のにおいが、少し甘くなる。
ミオは保存庫から、あの苦い液の瓶を持ってきた。布を外すと、少し強いにおいがする。白狐が鼻をひくつかせ、すぐに少し離れた。
「これは、よいにおいではありません」
「うん。たぶん苦い」
「入れるのですか」
「少しだけ」
「本当に食べ物ですか」
「そこは私も少し不安」
村人が、不安そうに白い液と瓶を見比べる。
「苦いものを入れて、おいしくなるんですか」
「おいしくするというより、固めるためです」
「苦いもので固める」
「説明すると変ですね」
「はい」
「正直でよろしい」
ミオは小さな器に白い液を分けた。
いきなり全部に入れない。ほんの少し。苦い液も一滴ずつ。
[COAGULATION TEST 01]
――――――――――
白色液:少量
残留液:微量投入
反応:弱
凝固:未成立
――――――――――
何も起きなかった。
白い液は、ただ白い液のままだ。
白狐が器を見た。
「これは飲み物ですか」
「違う」
「まだ、飲み物に見えます」
「違う」
ミオは少しだけ残留液を増やした。
[COAGULATION TEST 02]
――――――――――
残留液:追加
反応:不均一
凝固:粗い
警告:苦味上昇
――――――――――
今度は、ぼそぼそと固まった。
固まったと言えば固まった。けれど、器の中には白いかたまりと水が分かれ、見た目は悪い。箸で触ると、ぽろぽろ崩れる。
ミオは顔をしかめた。
「違う。これは違う」
「食べられますか」
「たぶん食べられるけど、違う」
「食べられるなら確認が必要です」
「まだだめ」
「まだですか」
「まだ」
白狐は少しだけ残念そうにした。
村人たちは、息をひそめて見ている。ミオは一度深く息を吸った。焦ると、全部だめになる。やりすぎる癖は、もう分かっている。
少しずつ。
水も、保存庫も、塩も、少しずつだった。
ミオは新しい器に白い液を取り、温度を少し下げた。残留液を、水で少し薄める。直接入れるのではなく、細く垂らす。
[COAGULATION TEST 03]
――――――――――
白色液:適温
残留液:希釈
投入:低速
反応:均一化
凝固:進行
――――――――――
白い液の表面が、ゆっくり変わった。
波が止まる。
ふる、と揺れる。
水ではない。粥でもない。白いものが、器の中でやわらかくまとまり始めた。
ミオは息を止めた。
村人たちも、白狐も、動かなかった。
[COAGULATION TEST 03]
――――――――――
凝固:成立
硬度:低
苦味:低
食用候補:あり
――――――――――
「……できた」
声が、少しだけ震えた。
ミオは木の匙を入れた。白いかたまりは、崩れそうで崩れない。すくうと、ふるふると揺れた。現代で見た豆腐より不格好だ。表面も少しざらついている。けれど、たしかに豆腐に近い。
白狐が、静かに前へ出た。
「確認が必要です」
「今度は、必要かも」
「はい」
ミオは小さな匙に、できたばかりの白い豆のかたまりを少しだけ乗せた。
「熱いからね」
「待ちます」
白狐は、今度は本当に待った。
少し冷ましてから、ミオは匙を差し出した。
白狐が食べる。
すぐには何も言わなかった。
目を閉じた。
尻尾も止まった。
村人たちが、白狐を見つめる。
ミオも見つめる。
「……白狐さん?」
白狐は、ゆっくり目を開けた。
「これは」
短く言って、また少し黙った。
「これは、麦がゆとは別の重要です」
ミオは肩の力が抜けた。
「よかった……」
「もう一口、確認します」
「早い」
「重要なので」
「ちょっとだけね」
村人たちにも、少しずつ分けた。
子どもが先に食べて、首をかしげる。
「やわらかい」
「味は薄いです」
「うん。塩を少し添えるといいかも」
昨日取った荒い塩を、ほんの少しだけのせる。
もう一口。
今度は子どもの顔が明るくなった。
「おいしい」
「年寄りにもよさそうだな」
「歯が弱くても食べられる」
「豆なのに、豆じゃないみたいだ」
村人たちの声が、広場に広がった。
派手な歓声ではない。でも、じわじわとした驚きがある。豆が、こんなやわらかいものになる。塩水から取った苦い液が、それを固める。塩も、豆も、布も、水も、保存庫も、別々に見えていたものが、器の中でつながった。
ミオは透明な板を見た。
[NEW FOOD PROCESS]
――――――――――
素材:乾燥豆/水/残留液
工程:水戻し/粉砕/抽出/加熱/凝固
結果:白色凝固食品
保存性:低
改良:必要
名称:未登録
――――――――――
「名称……」
ミオは少し迷った。
豆腐、と言っていいのか。現代のものとは違う。けれど、かなり近い。
「豆腐……かな」
小さく言ったつもりだった。
白狐が即座に反応した。
「トウフ」
「聞こえた?」
「聞こえました」
「まだ仮の名前」
「よい名前です」
「ほんと?」
「短いです。覚えやすいです。要求しやすいです」
「要求する前提なんだ」
白狐は真顔だった。
「トウフを、もう一口」
「はいはい。少しだけ」
「明日もありますか」
「毎日は無理」
「では、たびたび」
「覚えた言葉の使い方が早い」
ミオは笑った。
現代の豆腐は、当たり前みたいにそこにあった。店で買って、台所で水を切って、鍋や皿に入れるものだった。作るものではなかった。
今は違う。
完全ではない。形も悪い。日持ちもしない。それでも、村の手で作った。
誰かに食べさせたい、と思った。
その誰かの顔までは、まだはっきり見ないことにした。今は、ここで作る。ここで、村の人たちに食べてもらう。
届くための道を作るのと同じだ。まず、足元から。
白狐が器をのぞく。
「ミオ」
「何?」
「これは、長く置けますか」
「たぶん、あまり置けない」
「重要なのに」
「うん。そこが問題」
「では、早く食べる必要があります」
「白狐さんに都合のいい結論だね」
「保存の問題です」
「食べたいだけでは?」
「それもあります」
正直だった。
ミオは笑い、透明な板の保存性の表示を見た。
低い。
やっぱりそうだ。豆腐はおいしい。でも弱い。保存庫に入れても限界がある。村の食べ物にするだけなら、作った日に食べればいい。でも、村の力にするなら、それだけでは足りない。
運ぶには、傷みやすい。
広げるには、加工がいる。
[PRESERVATION NOTICE]
――――――――――
白色凝固食品:保存性低
水分量:高
腐敗リスク:高
推奨:即日消費/加工法検討
――――――――――
「加工法検討……」
ミオは表示を見て、白い豆腐をもう一度見た。
薄く切る。水を抜く。焼く。干す。揚げる。現代の記憶の中に、いくつかの形が浮かぶ。どれができるかは分からない。油は貴重だ。火加減も難しい。でも、試す価値はある。
白狐が尻尾を揺らした。
「次は何をするのですか」
「まだ決めてない」
「トウフを増やしますか」
「増やす前に、日持ちを考える」
「日持ち」
「長く置けるようにすること」
「重要です」
「食べるため?」
「食べ続けるためです」
「やっぱり食べるためじゃん」
村人たちは、残った豆腐を大事そうに分けている。
年寄りが小さくうなずいた。
「これは、ありがたいですね」
「硬いものが食べづらい者にもよさそうです」
「豆なら、ルーナ村にもあります」
「布でこすなら、あちらの布も使えます」
「塩水の残りも、要りますね」
ミオは顔を上げた。
村人たちの方が、もう線を見始めている。
豆。布。塩水の残り。水。火。保存庫。
別々のものが、一つの食べ物に集まる。
ミオは透明な板をそっと閉じた。
白狐が、残った豆腐の器を見ている。
「白狐さん」
「はい」
「それ、あと一口だけ」
「二口では」
「一口」
「では、大きな一口で」
「そう来たか」
ミオは匙に、少しだけ大きめにすくって渡した。
白狐はそれを大事そうに食べた。
目を閉じる。
尻尾が、ゆっくり揺れる。
村人たちが笑った。
水が出て、保存庫が整い、海の水から塩が取れた。そして今日は、豆が白いやわらかいごちそうになった。
大きな奇跡ではない。
でも、村の食卓が変わった。
ミオは空になりかけた器を見て、うなずいた。
次は、この弱いごちそうを、少しでも遠くへ運べる形にする。
そのためには、もう一段、火と油の使い方を考えなければならない。
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