第23話 海の水から、白いものを取る
ノルテ方面から届いた荷は、小さな樽が三つだった。
樽の口は布で固く縛られ、外側には海鳥の羽をかたどった印が焼きつけてある。ルーナ村を通って、巡礼路の手前まで運ばれ、そこからリュミナ村の若い男たちが台車で引いてきた。中身は、海の水。正確には、海辺で少し濃くした塩水だと聞いている。
塩は、村人たちも知っている。保存庫にも少しだけある。麦がゆに入れれば味が変わるし、食べ物を長く守るのにも使える。けれど、それは基本的に外から買うものだった。袋に入って届くもの。大事に量って使うもの。なくなると困るもの。
その塩を、自分たちで少し取れるかもしれない。
だから、村の人たちは樽を囲んで、期待と不安が混ざった顔をしていた。
ミオは保存庫前の広場に樽を置かせ、アナライザブルデバッガーをかざした。透明な板越しに見ると、樽の中の水には細かい粒のような成分が淡く白く散っている。ところどころに、別の反応もある。苦味成分らしきもの。まだ名前のない、でもどこかで見たことがあるような気配。
[SEA WATER SAMPLE]
――――――――――
採取元:ノルテ方面
塩分濃度:高
不純物:中
結晶化候補:あり
残留液候補:あり
用途:未登録
――――――――――
「……いけそう」
ミオは小さく言った。
白狐が樽のふちに前足をかけて、中をのぞく。
「これは、飲み水ではありませんね」
「飲まないでね」
「飲みません。においが強いです」
「海の水だから」
「海は、これをたくさん持っているのですか」
「うん。かなり」
「海は気前がいいですね」
「その表現は初めて聞いた」
年配の男が、おそるおそる聞いた。
「ミオ様、本当にこの水から塩が取れるんですか」
「取れるはずです。いきなり全部は使いません。少しだけ試します」
「塩は、買うものだと思っていました」
「買う方が早いです。でも、少しでも作れるなら、村の力になります」
「村で塩を……」
男は樽を見た。
ただの水ではなくなったような目だった。
ミオは両手で透明な板を持ち直した。
「まずは小さく見ます。火も弱めで。白い結晶が残るか確認します」
「小さく見る」
「はい。少しだけ試して、安全なら増やします」
「なるほど。小さく見るのですね」
村人がそう言ってうなずいた。
ミオはほっとした。
小さく見る。
いい言い方だ。村人の方が、たまに説明がうまい。
広場の端に、小さな火床を作った。保存庫で乾きすぎた干し野菜を置いていた棚の横から、折れた木片と古い炭を少し持ってくる。鍋は浅いものを使う。ノルテの樽から塩水を少しだけすくい、布でこしてから鍋へ入れた。
白狐が鍋の前に座った。
「これは食べ物になりますか」
「最終的には食べ物に関係ある」
「重要です」
「火の近くに寄りすぎないで」
「分かっています」
分かっていると言いながら、白狐は少しだけ前に出た。
ミオはその首元をつまんで、半歩下げた。
「そこ」
「ここですか」
「そこ」
「はい」
火が入る。
ぱち、と木が鳴った。
鍋の水がゆっくり温まり、少しずつ湯気を立てる。村人たちは半円になって見ている。湯気は普通の水よりも重く、少しだけ海のにおいがした。塩気と、遠い場所のにおい。リュミナ村にはまだ馴染みのないにおいだった。
ミオは透明な板を鍋の上へかざした。
[CRYSTALLIZATION TEST]
――――――――――
加熱:開始
水分蒸発:進行
塩分濃度:上昇
結晶化:未発生
残留液:未分離
注意:過熱禁止
――――――――――
「まだ」
「まだですか」
「まだ」
白狐が真剣な顔で鍋を見る。
「見ていて早くなりますか」
「ならない」
「では、なぜ見ているのですか」
「気になるから」
「分かります」
鍋の水が減っていく。
最初は、ただの濃い塩水だった。それが、少しずつ濃くなる。泡が小さくなり、鍋の縁に白っぽい跡がつき始める。村人たちが身を乗り出した。
「ついています」
「鍋のふちが白い」
「まだ触らないでください。熱いです」
ミオは火を弱めた。
焦がしたらだめだ。水だけ飛ばす。成分を残す。透明な板の表示を見ながら、火の強さを少しずつ変える。
[CRYSTALLIZATION TEST]
――――――――――
塩分濃度:高
結晶化:開始
残留液:微量
推奨:低温維持
――――――――――
「来た」
鍋の底に、白い粒が見えた。
小さい。
ほんの少し。
でも、確かに白い。
村人たちの間から、声が漏れた。
「本当に残った」
「海の水から、塩が」
「袋で届く前は、こういうものなんですね」
ミオは鍋を火から外し、少し冷ました。焦って触ると危ない。白狐が前に出ようとするのを、手で止める。
「まだ」
「まだですか」
「まだ」
「塩は待たせますね」
「できたてはだいたい熱い」
少し冷えてから、ミオは木べらで鍋底の白い粒を集めた。
粗い塩だった。
さらさらではない。少し湿っている。小さな結晶が固まり、指でつまむとざらっとする。保存庫にある買った塩より荒い。けれど、塩には違いない。
ミオはそれを小皿に移した。
村人たちは、まるで小さな宝でも見るように小皿をのぞきこんだ。
「まだ荒いです。食べるなら、もう少しきれいにした方がいいかもしれません」
「でも、塩なんですね」
「はい。塩です」
「海の水を運ぶ意味が、分かりました」
白狐が鼻を近づけた。
「少しだけ確認してもよいですか」
「ほんとに少しだけ」
「はい」
白狐は塩をほんの少し舐めた。
すぐに顔をしかめた。
「強いです」
「塩だからね」
「買った塩より荒いです」
「うん。まだ試験だから」
「これは、そのまま舐めるものではありません」
「当たり前」
「しかし、麦がゆに少し入れるなら重要です」
「そこへ行くと思った」
白狐の目が、真剣だった。
ミオはため息をつきながらも、少しだけ笑った。
「じゃあ、試す?」
広場の端で、小さな鍋に麦がゆを作った。いつもの薄い麦がゆだ。塩を入れる前の麦がゆを少し味見する。村では慣れた味だ。やさしいが、ぼんやりしている。
ミオは、取れたばかりの塩をほんの少しだけ入れた。
本当に少しだけ。
かき混ぜる。
湯気が上がる。
白狐が、器の前で待っている。尻尾が動いている。隠す気がない。
「熱いから、少し待って」
「待っています」
「尻尾は待ってない」
「尻尾は別です」
ミオは器を少し冷まし、白狐の前に置いた。
白狐は麦がゆを一口食べた。
動きが止まった。
目だけが、少し大きくなる。
「……これは」
「どう?」
「少しだけで味が変わります」
「うん」
「これは重要です」
「やっぱり言った」
村人たちにも、少しずつ配った。
食べた人の顔が変わる。派手に叫ぶ人はいない。でも、みんな少し黙る。いつもの麦がゆが、少しだけはっきりする。舌に残る味が、ぼやけずに立つ。子どもが「おいしい」と小さく言った。
その一言で、周りの大人たちの顔がゆるんだ。
「少しでいいんですね」
「はい。少しで変わります。だから、大事に使えます」
「今までは、買った塩を減らさないように使っていました」
「これで全部をまかなうのは、まだ無理です。でも、少しでも作れれば、使い方が変わります」
「保存にも使えるんですよね」
「はい。味だけじゃなくて、食べ物を守るためにも使えると思います」
ミオはそこまで言って、透明な板を見た。
鍋の底に、塩を取ったあとに残った液が少しある。完全に乾かさず、途中で分けたものだ。白くはない。少し濁っていて、苦そうな反応が出ている。
[RESIDUAL LIQUID]
――――――――――
分類:未登録
味覚推定:苦味
ミネラル反応:あり
用途:未確認
保存:少量確保推奨
――――――――――
ミオは、その文字をじっと見た。
塩が取れたことは大事だ。
でも、この液も、何かに使われていた気がする。
記憶の奥で、鍋の湯気が揺れる。現代の部屋。レンの前に置いた豆腐。白い四角。二丁は多いと言われた夜。あの時、自分はそれを買ってきただけだった。どう作るかまで、ちゃんと考えたことはなかった。
それなのに、目の前の苦い液を見ていると、どこかが引っかかる。
まだ言葉にはならない。
「ミオ」
「うん」
「また顔が止まっています」
「考えてる」
「麦がゆに入れますか」
「これは入れない」
「では何に使うのですか」
「まだ分からない。でも、捨てない方がいい」
「苦いものですか」
「たぶん」
「苦いものは、重要ですか」
「ものによる」
ミオは小さな陶器の瓶を持ってきてもらい、残った液を少しだけ入れた。村人が不思議そうに見ている。
「それも塩ですか」
「塩を取ったあとに残るものです」
「塩とは違うんですか」
「違います。たぶん、すごく苦いです」
「苦いものを、取っておくんですか」
「はい。今は捨てません」
「使えるんですか」
「まだ分かりません。でも、意味があるかもしれません」
瓶に布をかけ、保存庫の涼しい棚へ置くことにした。
白狐が瓶を見る。
「麦がゆから遠ざかりました」
「うん。これは麦がゆじゃない」
「では、なぜ少し楽しそうなのですか」
「どこかで見たことがある気がするから」
「現代の記憶ですか」
「たぶん」
「便利ですか」
「便利だったはず。でも、今は思い出せない」
「では、思い出したら教えてください」
「うん」
白狐は真顔でうなずいた。
ミオは瓶にかけた布を、もう一度だけ整えた。
今はまだ、名前をつけない。
用途も決めない。
ただ、捨てずに置く。
それだけでいい。
ミオは小皿に残った塩を見た。
ほんの少しだ。
でも、村人たちはそれを見ている。海の水から、自分たちの手で塩を取れた。麦がゆの味が変わった。保存にも使えるかもしれない。残った苦い液にも、まだ用途があるかもしれない。
水が出た時とは違う驚きだった。
これは、村の外とつながる驚きだ。
ノルテ方面の海。リュミナ村の保存庫。巡礼路の荷。まだ線は細い。けれど、ひとつの鍋の中で、少しずつつながり始めている。
ミオは透明な板に、今日の結果を記録した。
[SALT TEST RESULT]
――――――――――
海水試料:使用量少
塩結晶:取得成功
味覚効果:確認
保存利用:候補
残留液:少量確保
次回:精製方法確認
――――――――――
「次回、精製方法確認……まずはそこだよね」
白狐が横からのぞきこんだ。
「また試すのですか」
「うん。次はもう少しきれいに取れるか見る」
「麦がゆはありますか」
「必要なら」
「必要です」
「即答だね」
ミオは笑った。
広場では、村人たちがまだ小皿の塩を見ている。子どもが、白い粒を見ながら「海が少しだけ村に来た」と言った。大人が笑った。ミオも笑った。
違うけれど、間違っていない気もした。
海の水から、塩を少し取る。
それは、小さな試験だった。
でも、村の食べ物の味を変えた。
保存庫の意味を変えた。
村の外から来るものを、村の中で使う形に変えた。
ミオは瓶に入れた苦い液を、もう一度だけ見た。
まだ名前のない液。
まだ、使い道の分からないもの。
でも、現代のどこかに、たしかに似たものがあった気がする。
ミオはそれを保存庫へ運ばせてから、広場へ戻った。
次は、塩をもっときれいに取る。
そして、そのあとで。
まだ思い出せない何かに、手を伸ばす。
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