CROSSOVER episode.2 REN
その夜、ミオは透明板を開かなかった。
開かなかった、というより、白狐に取り上げられていた。
教会の小さな寝台の足元で、白狐は透明板の上に丸くなっている。白いしっぽを板の端にかけ、まるで最初から自分の敷物だったような顔をしていた。
「白狐さん」
「はい」
「それ、私の」
「知っています」
「返して」
「今はだめです」
「見るだけ」
「その言葉は、もう村の共有財産として信用がありません」
「ひどい」
ミオは寝台の上で膝を抱えた。
窓の外は暗い。広場の方から、見張りの足音が時々聞こえる。昼間に起こした村落物流ノードは、いまも低い光を保っているらしい。祠の丸い石が夜の中でぼんやり光っていると、さっき水汲みに出た女の人が言っていた。
村は静かだった。
でも、静かになった分だけ、昼間の白い点が頭に残った。
透明板の端に出た、あの小さな反応。
名前は出なかった。声もなかった。けれど、白狐はすぐ止めた。遠いものだと言った。近い線を先にしろと言った。
遠いもの。
ミオは、その言い方がずっと引っかかっていた。
「白狐さん」
「だめです」
「まだ何も言ってない」
「だいたい分かります」
「それはずるい」
「長く封じられていても、そのくらいは分かります」
白狐は目を閉じたまま言った。
ミオは少し黙った。
見たい。
でも、昼間に約束した。今日は触らない。近い線を太くする。村落物流ノードを起こしたばかりで、村の線はまだ細い。ルーナ村、ノルテ村、保存庫、道、見張り、結界。どれも動き始めたばかりだ。
なのに、胸の奥は落ち着かない。
透明板の端でまたたいた白い点が、消えない。
「見たら、まずい?」
「今つなぐと、まずいです」
「見るだけでも?」
「見るだけで終わるなら、ここに座っていません」
「白狐さん、今日は強い」
「麦がゆを多く食べました」
「それで強くなるの?」
「気分が」
ミオは笑いかけて、途中で止まった。
白狐が薄く目を開けた。
「気になりますか」
「うん」
「何があると思いますか」
「分からない」
「名前ですか」
「……分からない」
そう言いながら、胸の中では、もう一つの音が揺れていた。
レン。
まだ全部を思い出したわけではない。
でも、空の白い輪を見た時、赤い光と金属の壁が見えた。傷のついた手が見えた。名前の最初の音が、喉まで来て止まった。
あれは、偶然ではない気がする。
ミオは寝台から足を下ろした。
「白狐さん。見ない。つながない。でも、ログだけ確認したい」
「言い方を変えましたね」
「だめ?」
「だめと言いたいです」
「でも?」
「……板から離れて操作してください。わたしが開きます」
ミオは目を丸くした。
「いいの?」
「条件つきです」
「触らない」
「追わない」
「実行しない」
「息を止めない」
「それも?」
「止めます」
白狐は透明板の上から降りた。
前足で板の端を押さえたまま、鼻先で軽く触れる。透明板がぼんやりと光った。ミオは思わず身を乗り出しかけて、白狐ににらまれて止まった。
[VILLAGE NETWORK STATUS]
――――――――――
リュミナ村:中心接続
ルーナ村:水系支援/食料支援記録あり
ノルテ村:水車/麻袋/粗布
水系ノード:安定
保存庫:数量記録
街道ライン:暫定復帰
防護結界:夜間制限連動
村落物流ノード:低出力稼働
――――――――――
昼間と同じ表示だった。
低出力。
安定。
暫定復帰。
まだどれも強くない。でも、消えてはいない。
白狐が鼻先を少し動かす。
画面の端に、小さな白い点が出た。
ミオの喉が鳴った。
「触らない」
「触らない」
白狐が前足で表示を開いた。
[DISTANT TRACE]
――――――――――
上位環状構造:断続
遠隔反応:極小
観測:不安定
再接続:不可
同期残滓:微弱
――――――――――
「同期残滓……」
ミオは小さく読んだ。
白狐は黙っている。
表示の下に、細い線が一本増えた。線というより、傷に近い。透明板の奥を横切り、すぐに消えそうな薄さで残っている。
その先に、文字が浮いた。
[CROSS-LINK TRACE]
――――――――――
観測語:REN
対象側状態:生存推定
媒体:旧文明端末
同期残滓:極小
通信:未成立
――――――――――
REN。
ミオは、声を出せなかった。
三文字が、透明板の上に残っている。
Rではない。
REN。
そこまで出ていた。
レン。
頭の中で、その音が形になった。机の上のノートパソコン。冷めたマグカップ。夜中の部屋。横からのぞき込んでくる顔。少し呆れた声。
『また広げてる』
何を広げていたのかは、まだぼやけている。
でも、その声にむっとしたことは覚えている。嫌ではなかったことも覚えている。そう言ってくれる人が、隣にいたことも。
ミオの指が震えた。
白狐が、透明板の端を押さえ直す。
「ミオ」
「……レン」
「通信ではありません」
「うん」
「返事はできません」
「うん」
「対象側状態は推定です」
「分かってる」
「分かっている顔ではありません」
「分かってるけど、ちょっと待って」
ミオは両手を握った。
近づきたい。
声を出したい。
生きているなら、こっちも生きていると伝えたい。名前を見たと、まだ覚えていると、そう言いたい。
透明板の表示が、細く揺れた。
[RECONNECT OPTION]
――――――――――
同期残滓へ再接続しますか。
警告:経路未確立
警告:外部観測圧上昇の恐れ
警告:村落物流ノードへ負荷
――――――――――
実行の文字が、薄く浮かぶ。
ミオの視線がそこに吸い寄せられた。
押せる。
今なら、押せる。
押せば、もう少し見えるかもしれない。手か、声か、場所か。何でもいい。何か一つでも増えるなら、押したい。
けれど、表示の下に、村の線が残っていた。
リュミナ村。
ルーナ村。
ノルテ村。
保存庫。水系。街道。結界。支援札。交易札。
昼間、やっとつながった線だ。まだ細い。棚は足りない。油も布針もない。ルーナ村への道も不安定で、ノルテ村の荷袋も少ない。見張り札も足りない。
ここに負荷がかかる。
自分が今、名前を追えば。
ミオは唇をかんだ。
「……だめだ」
小さく言った。
実行には触れなかった。
透明板の警告が、少し薄くなる。
[RECONNECT OPTION]
――――――――――
操作:保留
経路未確立
推奨:基盤ノード拡張後に再試行
――――――――――
ミオは、息を吐いた。
思ったより長く止めていたらしく、胸が苦しくなった。白狐がじっと見ている。
「息」
「……今した」
「よろしい」
「よくない」
「よく止まりました」
「止まりたくなかった」
「知っています」
白狐は静かに言った。
ミオは透明板を見つめた。
RENの文字は、まだ残っている。通信は未成立。経路は未確立。対象側状態は生存推定。何も確定していない。
それでも、名前は出た。
レン。
もう、ただの欠片ではない。
「白狐さん」
「はい」
「生きてるかもしれない」
「はい」
「どこかで、端末の前にいるかもしれない」
「はい」
「向こうも、何か直してるのかな」
「その可能性はあります」
「危ない場所かな」
「その可能性もあります」
白狐はどちらも否定しなかった。
それが、胸にくる。
ミオは透明板から目を離せないまま、つぶやいた。
「今すぐ行きたい」
「行けません」
「分かってる」
「今すぐ声を届けたい」
「届きません」
「分かってる」
「分かっているのに、手が動きそうですね」
「うん」
白狐は前足で、透明板を少しだけミオから遠ざけた。
ミオは苦笑した。
「過保護」
「封印された守護体なので」
「そこで守護体使うんだ」
「便利です」
ミオは笑った。
笑ったら、目の奥が熱くなった。泣くほどではない。泣いたら、たぶん止まらない。だから、透明板を見る。
REN。
その下に、未成立。
届いていない。
でも、消えてはいない。
「白狐さん。これ、消さないで」
「ログとして残ります」
「見える場所には?」
「出し続けると、あなたは作業できません」
「う」
「非表示にします」
「白狐さんもノアみたいなこと言う」
「誰ですか」
「……分からない。でも、今そう思った」
白狐の耳が少し動いた。
「名前ですか」
「違う。たぶん、声」
「向こう側の?」
「分からない」
分からないことが増えていく。
ミオは少し笑った。
「分からんこと札、いるね」
「いるでしょう」
「白狐さん、嬉しそう」
「嬉しくはありません」
「しっぽ」
「寝ぐせです」
「しっぽに寝ぐせ?」
白狐は答えなかった。
透明板の表示が、村の管理画面に戻る。
[VILLAGE NETWORK STATUS]
――――――――――
リュミナ村:中心接続
ルーナ村:水系支援/食料支援記録あり
ノルテ村:水車/麻袋/粗布
水系ノード:安定
保存庫:数量記録
街道ライン:暫定復帰
防護結界:夜間制限連動
村落物流ノード:低出力稼働
遠隔観測語:REN
再接続:保留
――――――――――
ミオは最後の二行を見た。
遠隔観測語:REN。
再接続:保留。
保留。
嫌な言葉だと思った。けれど、今のミオには必要な言葉だった。やらない、ではない。諦める、でもない。今はまだ、できない。
だから、保留。
「基盤ノード拡張後に再試行、って出てた」
「はい」
「何をすればいい?」
「村落物流ノードを安定させること。保存庫を整えること。ルーナ村の支援線を太くすること。ノルテ村の交易線を安定させること。防護結界を崩さないこと」
「多い」
「多いです」
「少し減らない?」
「減りません」
「だよね」
ミオは寝台から立ち上がった。
夜の教会は冷える。足元の石床から、じんわり冷たさが上がってくる。窓の外、広場の方に小さな光が見えた。祠の丸い石だろう。
村落物流ノードは、眠らず動いている。
まだ低出力で、細い線を抱えて。
「明日、ルーナ村の支援記録を整える」
「はい」
「ノルテ村の交易札も、写しを作る」
「はい」
「保存棚も直す」
「はい」
「油と布針も探す」
「はい」
「麦がゆも」
「そこは必要です」
白狐は即答した。
ミオは少し笑った。
少しだけ、息が楽になった。
透明板は白狐が閉じた。
教会の中が暗く戻る。けれど、ミオの中には、三文字が残っている。
REN。
それだけで、さっきまでとは違った。
遠くに、誰かがいる。
たぶん、レンがいる。
届かない。
でも、完全には切れていない。
ミオは寝台に戻り、布団の端をつかんだ。
「白狐さん」
「はい」
「寝られるかな」
「寝てください」
「命令?」
「推奨です」
「白狐さんもノアっぽい」
「だから誰ですか」
白狐は不満そうに言った。
ミオは首を横に振った。
「分からない。でも、たぶん、向こうにも誰かいる」
「なら、向こうも止められているかもしれませんね」
「誰に?」
「冷静な誰かに」
ミオは少し考えた。
端末の向こうで、レンが何かに止められている姿を想像した。似合うような、似合わないような。たぶん文句を言っている。たぶん、それでも止まる。
そうならいい。
止まっていてほしい。
生きていてほしい。
「レン」
小さく呼んだ。
返事はない。
それでいい。
今はまだ。
白狐は何も言わなかった。
少しして、ぽつりとつぶやく。
「聞こえない程度なら、許します」
「聞こえてた」
「わたしには聞こえました」
「じゃあ、だめじゃん」
「今のは、わたしの分です」
白狐は、いつものすました顔に戻った。
ミオは布団にもぐりながら、少し笑った。
外では、祠の光が低く灯っている。
リュミナ村から、ルーナ村へ。
リュミナ村から、ノルテ村へ。
そして、まだ見えない遠くへ。
線は細い。
でも、切れてはいない。
ミオは目を閉じた。
遠くへつながるために、まず近くの線を太くする。
そのために、今は寝る。
悔しくて、苦しくて、それでも必要な保留だった。
次回から三章だよ!よろしくねっ!




