第162話 三枚の石に水と雨除け
朝のルーナ道へ持ち出すものは、荷より先に水だった。
栓をした小さな水甕が二つ。乾いた麻縄が三巻き。油を薄く引いた布が二枚。それから、布を張るための短い棒が六本。
「休むだけなのに、ずいぶん増えました」
ミオが水甕を抱えると、ルーナ村の女の人が縄を肩へ掛けた。
「休んだ先でもう一度歩くなら、水が要る。雨なら、濡れた縄を替える場所も要るよ」
「昨日は、足りなくなってから分かりました」
「分かった次の日に持っていけるなら、遅くないさ」
白狐さんは油布の匂いを確かめ、前足で端を押さえた。
「雨除けは荷へ一枚、人へ一枚にしてください。どちらかを我慢すると、帰りに困ります」
「はい、白狐さん。二枚とも置きます」
三枚の休み石へ着くころ、空はまだ明るかった。
木陰には、前に並べた石がそのまま残っている。揺れもなく、手前の泥も乾いていた。ただ、水甕を置けば荷を載せる石が一枚減る。油布を丸めて地面へ置けば、雨の前から湿ってしまう。
道を使う人たちは、石の周りをぐるりと見た。
「木へ結ぶかい」
「幹を傷めるね」
「甕は根元なら倒れない。でも、葉が入る」
ミオは三枚目の奥に、土で埋まった丸い穴を見つけた。指を入れると、すぐ下で硬い縁へ触れる。その横にも同じ穴があり、石の後ろには浅い溝が一本、斜面へ向かって続いていた。
「昔の柱受けかもしれません。穴と、水を逃がす溝だけ直してみます」
「見るだけですか」
白狐さんが静かに聞いた。
「少し掘ります」
「少し、を守ってください」
「はい」
鍬の先で落ち葉を除き、詰まった土を木べらで掻き出す。ざく、さらり。丸い穴は六つあり、持ってきた短い棒がちょうど入った。
浅い溝から小石を一つ外した時だった。
こ、と石の下で音がした。
六つの穴の縁が淡く白くなり、差していた棒をまっすぐに支えた。さらに石の脇から細い腕木が二本だけ、ゆっくり起き上がる。
「そこまで動くんですか」
腕木は木より軽そうな灰色で、三枚の石の上へ屋根の形を作った。大きな設備へ光が走ることも、遠くで何かが応えることもない。腕木は人の背丈より少し上で止まり、白い縁もすぐに薄れた。
白狐さんが腕木の下へ入り、見上げる。
「雨除けを掛けるための形に見えます」
「柱を立てるだけのつもりでした」
「ミオの少しは、棒が二本増えるようです」
「二本なら、少しです」
「六本へ二本を足しています」
ルーナ村の女の人が笑いながら、腕木を両手で揺すった。
「動かないよ。これなら布を張れる」
村の若者たちが油布の一枚を上へ渡した。短い棒へ端を結ぶと、三枚の休み石と、その前に腰を下ろせるほどの土が覆われる。もう一枚は畳み、腕木の高いところへ縄で留めた。雨が横から入る時に、人か荷へ掛けるための分だ。
水甕は石の奥のくぼみへ置き、蓋の上へ伏せた椀を二つ重ねた。予備縄は油布の下へ吊るす。地面へ触れず、手を伸ばせば届く。
「使ったら、どちらが足しますか」
ミオが聞くと、ルーナ村の女の人は水甕を指した。
「飲んだ便が空の甕を行き先まで持っていく。そこで満たして、帰りにここへ戻す。それでどうだい」
若い働き手は予備縄を指した。
「縄を使った側も、次の便で一巻き戻す。雨除けを持ち帰ったら、乾かした村が返す」
「使わなかった日は?」
「蓋と縄の湿りだけ見る。水は朝の便が一口飲んで、古くしない」
木札には、水甕と縄輪と布の小さな印だけを足した。けれど皆が確かめたのは札より先に、甕を持ち上げられるか、濡れた手で縄を外せるか、油布の下で荷を背負い直せるかだった。
ミオも水を一口飲んだ。
冷たい。
坂を歩いたあとの喉へ、井戸の水がすうっと落ちた。石へ豆袋を載せ、屋根の下で背負い直すと、麻ひもも油布へ引っかからない。
「使えます」
「晴れている時は、よく使えますね」
白狐さんは空を見た。
「雨でも同じかは、まだ分かりません」
その答えは、昼を過ぎる前に来た。
ルーナ側から、布束と豆袋を積んだ荷車が上がってきた。押しているのは朝とは別の二人で、車輪が三枚の石へ近づいたところで、葉を打つ音がした。
ぽつ。ぽつぽつ。
ひと息のうちに雨粒が太くなった。
「石へ寄せるよ!」
荷車を屋根の脇へ止め、豆袋を一枚目、布束を二枚目へ下ろす。上の油布だけでは車の端まで覆えない。若い男が畳んだ二枚目を外し、荷車と棒の間へ斜めに張った。
雨は、ばらばらと油布を叩いた。
荷は乾いている。
けれど荷車を止めた拍子に、布束を縛っていた縄が片側だけ大きく緩んだ。雨を吸った古い結び目は締め直そうとしても滑り、指へ茶色い水を残す。
「予備を使うよ」
ルーナ村の女の人が濡れた縄をほどき、吊ってあった乾いた縄を一巻き取った。若い男が反対側を押さえる。二人で布束の下へ通し直すと、きゅ、と乾いた音を立てて荷がまとまった。
もう一人は甕の蓋を開けた。椀へ水を汲み、まず荷車を押してきた二人へ渡す。
「冷たい」
「まだ、ちゃんと冷たいよ」
二人は油布の下へ腰を下ろした。肩には横からの雨を避ける布が掛かり、膝も荷も濡れていない。水を飲み終えるころには、急いでいた息がゆっくりになっていた。
石の後ろでは、直した溝を雨水が細く流れている。休み石の足元に水は溜まらず、荷を持ち上げる場所もぬかるまない。
「ミオ様が雨をお避けになった」
「油布を張ったのは皆さんです」
「古い腕木を起こしたのは」
「溝の小石を外しただけです」
白狐さんが雨の外を見てから、丁寧に言った。
「雨を止めてはいません。濡れずに待てる場所を直したのです」
「白狐さん、今日は私側ですね」
「事実を申し上げています」
雨脚が少し弱くなると、運び手たちは濡れた路面を見た。車輪の跡へ水は残っていない。昨日決めた停止の雨ではない。
「行けるね」
「でも、走らない」
乾いた縄を確かめ、油布の一枚を荷車へ掛ける。もう一枚は休み石へ残した。
空になった甕も荷車の端へ載せた。リュミナ村で満たし、同じ二人が帰りに休み石へ戻す。
荷車は雨の匂いの中へ、ゆっくり動き出した。
がたん。ころり。
三枚の石で休んだ二人の足はそろっていた。坂を急がず、荷も傾けず、布と豆をリュミナ村まで運んだ。
広場へ着いた布束は、中まで乾いていた。豆袋の口も固く結ばれたままで、鍋番のおばさんがすぐに一袋を開ける。
夕方には、ルーナの豆が湯の中でふっくら膨らんだ。上着の肩についた雨粒を軒先ではたいた運び手たちは、乾いた袖のまま椀を抱えている。
「途中で水を飲めたから、帰りの分まで喉を我慢しなくてよかったよ」
「縄も替えた。荷も人も、雨宿りしてから来た」
ミオは湯気の向こうで、空の水甕が洗われ、井戸水で満たされるのを見た。明日の帰り、同じ二人がルーナ道の休み石へ戻す。使った縄の代わりも、倉庫番が新しい一巻きを荷車の脇へ置いていた。
その隣では、ノルテへ返す空壺が三つ、乾かすために口を下へ向けている。今日届いた満ちた壺は井戸側へ運ばれたのに、空壺だけはまだ、帰りの肩棒を待っていた。
からん、と一つが風に鳴った。
「次は、あちらも帰れる形にしたいですね」
ミオは壺を指しただけで、今日は動かさなかった。
雨はまだ、軒先で細く鳴っている。
それでもルーナ道は止まらなかった。
三枚の石で水を飲み、縄を替え、人と荷が濡れずに休めたから、雨の向こうから届いた豆を、今夜の鍋で食べられた。
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