第137話 村へ戻ると鳴っている
北の黒い隙間で、ミオが白い砂を払ったあとだった。
ぱふ、と軽い音がして、白い粉が細く舞った。黒い隙間の奥で、ちいさな灯りがころんと転がる。火ではない。石でもない。水の粒みたいに丸くて、白くて、でも落ちない。ふわり、ふわり、と空中で一度迷ってから、村の方へすうっと流れた。
ミオは透明の板を閉じていなかった。
板の白い表示は、まだ薄く残っている。北側一部反応。東西線は未接続。浮上は準備未完。さっき見た文字が、消えきらずに板の奥へ沈んでいた。
「……白狐さん」
「はい」
「あれ、村に行きましたよね」
「行きましたね」
「払っただけです」
「見ていました」
「払っただけです」
「はい。ミオは払っただけです」
白狐はそう言ったが、声はあまり安心していなかった。
リタはミオの後ろで、両手をぎゅっと握っている。尻尾があるわけでもないのに、落ち着かない小動物みたいに、視線だけが白い灯りを追っていた。
「ミオ様、村の方が、光りました」
「光りましたね」
「今のは、良い光でしょうか」
「良い光だといいですね」
「ミオ様」
「はい」
「その言い方は、良くない時の言い方です」
その通りだった。
北の奥へ続く黒い隙間は、しん、と静かになっている。白い砂を払う前より、少しだけ輪郭が見える。奥へ行けそうな気もする。だが、ミオは足を出さなかった。
村の方で、ころん、と音がした。
遠い。
けれど、はっきり聞こえた。
ころん。
次に、こつん。
それから、ぽん。
石が転がる音。桶を軽く叩く音。木箱の底が浮いたような音。三つの音が、少しずつ違う場所から鳴った。
透明の板の表示が、細く揺れる。
ミオは布を握り直した。
「戻ります」
「はい」
「奥は?」
「今は、村の方が賑やかです」
「ですよね」
戻り道は、来た時より明るかった。北の白い線が、ところどころでうすく光っている。足を置くと、土の下で白いものがふっと返る。踏みしめるたびに、何かが目を覚ますようだった。
村へ近づくにつれて、音が増えた。
井戸の方で、こぽん。
倉庫の方で、みし、と木が鳴る。
畑の方で、ざわざわざわっと豆葉が揺れる。
古い祠の方で、ちりん、と鈴みたいな音がした。祠に鈴はない。ないはずだ。ミオはそれを知っているので、聞こえなかったことにしたかった。
「白狐さん」
「はい」
「村、鳴ってませんか」
「鳴っていますね」
「村って、鳴るものでしたっけ」
「普通は鳴りません」
「ですよね」
村へ入ると、もうみんな外に出ていた。
水汲みの桶を持ったおばさん。鍬を持ったおじさん。豆畑の方から走ってきた子ども。倉庫番の老人。みんな同じ顔をしていた。怖い。けれど、目を離せない。そういう顔だ。
井戸の縁石には、白い線がうっすら出ていた。丸い縁に沿って、ほそく、ほそく、糸みたいに光っている。水面は静かなのに、ときどき内側から、こぽ、と丸い泡が上がった。
畑の外縁では、豆葉が風もないのに右へ左へ揺れていた。ざわざわ、ぱたぱた。いつもの豆葉より、ずっと忙しい。一本だけ、なぜかぴんと立っている葉があり、子どもがそれを指さしていた。
倉庫の床下からは、すう、と風が出ている。冷たくはない。ぬるくもない。倉庫の戸が少しだけ浮くように、かた、かた、と鳴っていた。
古い祠は、もっと変だった。石の隙間から、白い灯りがちょん、ちょん、と出たり引っ込んだりしている。まるで、中で小さな誰かが明かりを持って歩いているみたいだった。
ミオは村の入口で止まった。
「……払っただけなんですけど」
「ミオ様」
「はい」
「たぶん、誰も信じません」
「私も、言いながら少し無理があると思いました」
村人たちの視線が、すうっとミオに集まった。
ざわざわしていた豆葉まで、少しだけミオの方を向いた気がした。豆葉に視線はない。ないが、今はあるように見える。よくない。
倉庫番の老人が、杖をつきながら近づいてきた。
「ミオさん。北で何をした」
「砂を払いました」
「砂を」
「白い砂です」
「それだけか」
「それだけです」
「本当に?」
「本当に」
老人は井戸を見た。畑を見た。倉庫を見た。祠を見た。
それから、もう一度ミオを見た。
「それだけで、これは多いな」
「私もそう思います」
リタが、ミオの袖をそっとつまんだ。
「ミオ様、井戸が」
「はい?」
井戸の水面が、こぽ、と鳴った。
次の瞬間、丸い水の盛り上がりが、ぷくっと上がった。こぼれない。はねない。水面の真ん中だけが、透明なまんじゅうみたいに丸く盛り上がって、すぐに戻る。
子どもたちが一斉に「おお」と声を出した。
ミオは出さなかった。
出さなかったが、口は少し開いていた。
「白狐さん」
「はい」
「井戸って、ああなります?」
「なりません」
「ですよね」
今度は倉庫だった。
みし。
ぎい。
かたん。
倉庫の床下から、すうっと風が吹いた。入口の戸が、指一本分だけ浮いたように見える。中の荷が動いたのか、木箱がこつ、と鳴った。
倉庫番の老人が、慌てて戸を開けた。
中の棚は崩れていない。荷も落ちていない。ただ、重そうな麻袋が、ほんの少しだけ棚から浮いたように見えた。いや、浮いた。間違いなく浮いた。すぐに、どすん、と戻った。
村人たちが黙った。
ミオも黙った。
白狐だけが、少し目を細めた。
「倉庫下ですね」
「白狐さん、何か分かります?」
「分かりません。ですが、音は下からです」
「下」
「床ではありません。床の下です」
その時、畑の豆葉が一斉に、ぱたぱたぱたっと鳴った。
風はない。
なのに、畑の端から端まで、豆葉が同じ向きに倒れた。倒れて、戻った。戻ったあと、一枚だけまたぴんと立った。
子どもが「豆が返事した」と言った。
誰も笑わなかった。
ミオは少しだけ笑いそうになったが、笑わなかった。笑ったら怒られそうだった。
祠の石の隙間で、ちょん、と白い灯りが出た。今度は引っ込まない。灯りは祠の前に落ちるように下りて、土の上で小さな丸になる。
丸は、ころころと転がった。
向かった先は、倉庫だった。
透明の板の表示が変わった。
ミオには、いつもの白い文字が見える。けれど、リタや村人たちには、白い模様の浮いた聖なる石板に見えるらしい。
「ミオ様、石板が……」
「石板というか、板です」
「聖なる石板です」
「リタさん、それ、たぶん見え方が違います」
リタは透明の板の表面をじっと見ている。だが、そこに浮いた文字までは読めていない。
村人たちはもっと遠巻きだった。
ミオが透明の板を持って倉庫の方へ向けただけで、何人かが息をのむ。白い模様の浮いた石板を手に、村の鳴っている場所を見定めている。たぶん、そういう姿に見えている。
「聖女様が、倉庫の下をご覧になったぞ」
「見てません。板に出ているだけです」
「ミオ様」
「はい」
「それを村では、見る、と言います」
「言わないでください」
ミオだけには、はっきり文字として読めた。
[VILLAGE RESPONSE]
――――――――――
北戻り灯:仮接続
井戸縁石:振動
畑外縁:白線出現
倉庫下:空洞反応
古い祠:共鳴
――――――――――
「……白狐さん」
「はい」
「板が、村をまとめて鳴ってるみたいに書いてます」
「それは、とても嫌なまとめ方ですね」
「ですよね」
「ミオ様、何と出ているのですか」
「ええと」
「聖なる石板の御言葉でしょうか」
「御言葉というか、倉庫下に空洞反応です」
「空洞」
「はい。そこだけ見ないでいたかったです」
倉庫の床下から、こん、と返事があった。
村人たちが、すうっと倉庫を見る。ミオも見る。見ないわけにはいかなかった。白い灯りは倉庫の戸の前で止まっている。井戸も、畑も、祠も、まだ細く鳴っている。北で払った砂が、村のあちこちを起こしてしまったのなら、ここを見ないと始まらない。
「次は倉庫ですね」
「そうですね」
「白狐さん」
「はい」
「私は砂を払っただけです」
「三度目です」
「大事なことなので」
「分かっています。ですが、倉庫へ行きましょう、ミオ」
ミオはうなずいた。
村人たちもついてくる。怖がっているのに、離れない。誰かが桶を置き、誰かが鍬を持ち直し、誰かが子どもを後ろへ下げた。リタはミオの隣に来て、少し背筋を伸ばしている。
「ミオ様、倉庫を開けますか」
「開けます」
「大丈夫でしょうか」
「開けない方が大丈夫じゃなさそうです」
「それは、とても分かります」
倉庫の前に立つと、床下からまた、すう、と風が吹いた。
戸の隙間から、白い粉が少しだけ出てくる。ほこりではない。北の黒い隙間にあった白い砂と似ている。さらさらで、細かくて、触れると消えそうな粉。
ミオはしゃがみ、指先でそっと触れた。
指先に、白い線がふっと浮いた。
透明の板の表示も、少しだけ濃くなる。
村人たちが、また息をのんだ。
「聖女様の指先が……」
「違います。これは砂が反応しているだけです」
「ミオ様」
「はい」
「その説明は、村人には魔法に聞こえます」
「困ります」
倉庫の床下から、返事みたいに、こん、と音がした。
村人たちが一歩下がる。
ミオも下がりたかった。
だが、透明の板には、まだ同じ文字が残っている。
倉庫下:空洞反応。
リタには読めない。村人たちにも読めない。けれど、ミオには読めてしまう。
見えてしまうと、見ないふりがしにくい。
ミオは手を引っ込め、立ち上がった。
「倉庫の床下を見ます」
「ミオ」
「はい」
「無茶はしないでください」
「白狐さん」
「はい」
「たぶん、もうしています」
「そうでしたね」
白狐が少しだけ笑った。
その笑いで、村人たちの肩から、ほんの少し力が抜けた。ほんの少しだけだ。倉庫はまだ、かた、かた、と鳴っている。床下には何かがある。けれど、さっきよりは息ができた。
ミオは倉庫の戸に手をかけた。
中から、ふわ、と風が押してきた。
軽い。
けれど、確かに下から上へ吹いている。
ミオは戸を開けた。
棚の麻袋が、また一瞬だけ、ふわりと浮いた。
村人たちが、今度こそ声を上げた。
白い灯りは、倉庫の床板の隙間へ、ころんと入っていった。
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