32 皇太子イザーク・オランジュ
「こ、皇太子殿下……」
突然の皇太子の登場に、周囲の人々は視線を下げた。
皇太子はアロイスとカイルにゆっくりと近付いた。
「フェンダル公爵、リリアーン侯爵令息。このような祝いの場でみっともない争いはやめるんだ」
「……はい、殿下」
皇太子に言われたら、素直に従うほかない。
二人はフィオナを巡っての争いをやめた。
(何はともあれ……よかったのかな……)
フィオナはほっと一息ついた。
突然皇太子が来たことには驚いたけれど、かえって良かったのかもしれない。
彼女では、二人の喧嘩を止められなかった可能性もあったから。
だが、暴君と呼ばれる皇太子にそのような一面があったとは驚きだ。
フィオナはチラリと皇太子に視線を送ると、彼と目が合った。
(あ……)
鋭い視線に、思わずビクリと肩を上げた。
皇太子はそんなフィオナを見て、面白そうに笑った。
「――セレナイト公女」
「は、はい……殿下……」
フィオナは胸に手を当てて一礼した。
ちょっとでも無礼を働けば、公女とはいえただでは済まないだろう。
フィオナの緊張感は極限まで達していた。
前世でも皇太子とはほとんど関わったことがない。
「君は男たちから人気があるんだね、あのフェンダル公爵とリリアーン侯爵令息をこれほど夢中にさせてしまうなんて」
「め、滅相もございません……」
皇太子はそう言ったが、そんなことはない。
実際、フィオナよりセレシアやアイリスのほうが男性たちからずっと人気があった。
特にロレンツォ伯爵家の令嬢だったセレシアの異性人気は凄まじかった。
類稀なる美貌と明るい性格、貴族らしからぬ考え方にアロイスを始めとした多くの男性たちが虜になった。
フィオナなんて彼女の足元に及ばない。
「そんな風に謙遜する必要はない。私から見ても君は素晴らしい女性だと思うから」
「お、お褒めいただき光栄です……」
皇太子はニッコリと笑った。
彼が何を考えているのかわからない。
ただ、間違ったことを言えば終わりだということだけはわかる。
「そういえば、リリアーン侯爵令息と婚約すると聞いた」
「はい」
その言葉に、アロイスが不快そうに眉を上げた。
そんな彼に気付いているのかいないのか、皇太子はニヤリと笑みを深めた。
「私からも祝いの言葉を述べさせてもらおう。婚約おめでとう、二人とも」
「ありがとうございます、殿下」
カイルとフィオナは礼を取った。
まさかこうやって皇太子から直々に祝いの言葉を貰えるとは、思ってもみなかった。
「では私はそろそろ失礼するよ」
「はい、殿下」
彼はそのまま三人の元から立ち去って行った。
皇太子がいなくなり、人々は安堵の息を吐いた。
「き、緊張した……」
「近くに来ると威圧感がすごいわね……」
「何とか死なずに済んでよかったわ……」
カイルが未だに体の震えが収まらないフィオナに話しかけた。
「フィオナ、大丈夫でしたか?」
「ええ、ありがとうございます、カイル」
カイルはアロイスに近付き、至近距離で囁いた。
「皇太子殿下もああやって言ってくれていることですし……今日は退いたほうがご自身のためになるのでは?」
「……」
アロイスは何も言えずに、ただ黙り込んだ。
悔しそうに唇を噛みしめ、拳をギュッと握りしめている。
(どうしてあなたがそんな顔をするのか私にはわからない……でもね……)
――私たちの関係は既に終わったのよ。
一度離れていったものは、もう元には戻らない。
彼がどれだけ後悔していようとも、彼女には何の関係もない。
アロイスは失意のまま立ち去って行った。
その後ろ姿は、何故かいつもより小さく見えた。
「セレナイト公女!」
「……ベルーシア嬢?」
アロイスが去ったあと、フィオナの元へやってきたのはアイリスだった。
二人は再会を喜ぶように手を取り合った。
「またお会いできるなんて嬉しいですわ、ベルーシア嬢」
「私もです、公女」
アイリスは長い金髪を高い位置でまとめて、青色のドレスを着ていた。
いつもとは雰囲気の違うその姿に、会場にいる男性たちは頬を赤く染めた。
「あら、そのリボンは……」
そこでフィオナは、アイリスの髪の毛から垂れ下がる青いリボンに気が付いた。
(私が前にプレゼントしたリボン……!)
それは紛れもなく、フィオナがアイリスに贈ったマダムマリーのブティックで購入したリボンだった。
アイリスは照れ臭そうに笑いながら言った。
「セレナイト公女が贈ってくれたものですから、大切な日に着けたいと思って……」
「……早速着けてきてくれるなんて、嬉しいです」
フィオナは感激した。
友人にプレゼントを贈るのは初めてで、気に入ってもらえなかったらどうしようかと心配していたが、杞憂だったようだ。
「ベルーシア嬢、とっても似合っています!」
「ありがとうございます、セレナイト公女もとても綺麗ですね」
「まぁ……」
二人はしばらく談笑した。
フィオナの横にいたカイルは、そんな二人を温かい目で見守っていた。




