107 幸福
帝国を騒然とさせた大事件から、およそ一年が経った。
先代皇帝が亡くなり、新たな皇帝として即位したのは皇太子イザークだ。
即位式を終えて皇帝となった彼は、就任と同時に数々の政策を打ち出した。
その中でも人々を最も驚かせたのは、後宮を解体したことだった。
オランジュ帝国の皇帝は、より多くの子孫を作ることを求められる。
先代も先々代も、その前の皇帝も慣例に倣って皇后以外に多くの女を後宮に囲ったそうだ。
新たに皇帝となったイザークも例外ではなく、新婚早々他の女を紹介された。
しかし、彼はアデライトを皇后に迎えたのみで、他には誰一人として関係を持とうとはしなかった。
それどころか、代々愛人が暮らす後宮を解体すると言い出したのだ。
血筋を重んじるオランジュ帝国ではありえないこと。当然、元老会からは猛反対に遭った。
しかし、イザークは頑なに自分の意見を曲げなかった。
『後宮の維持費を使い、孤児院を設立する』
彼は、自分やセレシアのような親のいない子供たちを保護したかった。
イザーク自身が不幸な幼少期を送ったからか、彼は孤児院の整備や増設に力を入れるようになった。
そのおかげか、イザークはいつの間にか国民に寄り添った心の美しい皇帝陛下とまで呼ばれた。
最初は猛反対していた重鎮たちも、アデライトの妊娠を機に徐々に大人しくなっていった。
そして彼女が産んだ子が男児であることが知らされると、帝国は次期皇帝の誕生にお祝いムードとなり、批判の声はほとんどなくなった。
第三皇子と母親の第二皇妃は国を出て行き、皇女たちや皇子たちもそれぞれの道へと進んだ。
リラはキースと結婚し、カイルも当然ミランダと結婚した。
先代皇帝の最側近だったスティンガー公爵は、イザークの即位を機に社交界で居場所を失くしてしまった。
元々傲慢で、先帝の権力を笠に着て好き放題していた彼のことだ。社交界から爪弾きにされてしまった結果、爵位を息子に譲り、今は領地で細々と暮らしているという。
そしてセレシアは、魔女としての力を全て失った後、国外追放となった。
聞くところによると、セレシアは最後までみっともなく暴れていたとのこと。
彼女はアロイスとイザークの二人に執着し、自分に気持ちが向かない彼らを貶めようとした。
しかし、最後はそんな二人に逆に罠にかけられるという形で彼女は破滅を迎えた。
心から愛した二人に裏切られるという、何とも皮肉な最期だった。
本人は認めないだろうが、彼女が二人に抱いていたのは愛だった。形はかなり歪ではあったが、間違いない。
――そしてちょうど今、フィオナはアロイスと共に、ある場所へ訪れていた。
「涼しい……」
馬車から降りたフィオナは、目の前に広がる宮殿を見上げた。
緑に囲まれ、人気のない静かな場所にひっそりと建つ大きな宮殿。
吹き抜ける涼しい風が、フィオナの髪をなびかせた。
春が過ぎ、今は七月。毎日のように暑い日が続いているせいか、避暑地の風がとても心地良く感じられる。
「ここなら、この子も快適に過ごせるかしら……」
フィオナは膨らんだお腹をそっと撫でた。
――彼女は今、アロイスとの子を妊娠していた。
宮殿の前で佇んでいたフィオナを、大きな身体が後ろからそっと包み込んだ。
「ここは気に入ったか?」
「アロイス……」
振り返ると、アロイスが優しい顔で彼女を見下ろしていた。
フィオナは頷きながら微笑んだ。
――そう、この場所はアロイスがフィオナにプレゼントした場所だった。
あのパーティーの日、アロイスがイザークに望んだのは皇家が所有する南の離宮だった。
避暑地として知られているが、今はもうほとんど使われていない南の離宮。
長い間誰からも使われていなかったこともあり、イザークはあっさりと了承した。
フィオナは心当たりがあったが、念のためなぜ南の離宮を望んだのかをアロイスに尋ねた。
『昔、あの場所に行ったって話をしていただろう?』
『……覚えていたのね』
実はフィオナは幼い頃、南の離宮を訪れたことがあった。
とはいえ、正式に皇家から招待を受けたというわけではない。
昔、母親と共に南部を訪れた際、村の子供たちと遊んでいたフィオナは一人はぐれてしまった。
道に迷った彼女は何とか母親の元へ戻ろうと歩き続けた結果、人知れず建つ大きな宮殿に辿り着いた。
誰もいない宮殿の中に入ったフィオナは、まるでどこかの国のお姫様になったかのような特別な時間を楽しんだ。
その場所が皇家の所有する離宮であることを知ったのは、大人になってからだった。
正直言って、フィオナ自身もほとんど忘れていた記憶だった。
昔何気なく彼に話しただけだが、まさか今でも覚えていただなんて。
『お前が言っていたのを思い出して……あの場所をプレゼントしたいと思ったんだ』
『そんなことのために……命を賭けたというの?』
その問いに、アロイスは照れたように笑った。
『――お前が望んでいたものだから、どうしても手に入れたかったんだ』
『……』
フィオナは呆れてものも言えなかった。
右腕を失いかけたというのに、どうしてそんなふうに笑っていられるのか。
しかし、そんな愚かなところが愛らしい――そう思えてしまうほど、フィオナは既に彼の虜になっていた。
彼女は自身を抱きしめるアロイスの逞しい腕に手をかけた。
「とっても嬉しいわ。ありがとう、アロイス」
「お前が喜んでくれたなら、右腕を賭けた価値があったな」
アロイスは今はすっかり治っている右腕をチラリと見た。
あの日、彼は一歩間違えれば利き腕を二度と使えなくなるほどの大怪我を負った。
たった一年前の出来事だというのに、ずいぶんと昔のことのように感じてしまう。
彼との結婚生活が幸せだったからだろうか。
「元気に生まれてくるといいな」
「ええ、そうね――そろそろ中に入りましょうか」
フィオナの提案に頷き、二人は横並びで宮殿へ入って行った。
いつか生まれた子供とも一緒に、この場所に来れたらいいな。
きっとその頃には、彼と過ごした思い出で埋め尽くされて、もっともっと大切な場所になっているだろう。
辛い過去を乗り越え、二人で手を取り合って、未来へと――
彼女が進む先は、それはそれは明るい光で照らされていた。
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