蠢くのは闇そのもの
暗い。
四月になり、順調に日も長くなりつつあるというのに、ここはいつも、午後7時15分を過ぎればすでに真っ暗だ。緑の非常灯と、消火栓の赤いランプだけが灯っている。完全下校時刻は過ぎ、生徒の姿は見当たらない。それどころか、職員室からも漏れ出る光はなく、完全に無人となった校舎に響く音も無い。
さて、私たちは依然、学校の敷地内に残っているわけだが、それはまぁ、私と丹羽にとっては一年前から毎日の習慣になっていることだった。普段宮間はいないから、一切光の無い校舎で二人。冷たく微動だにしない静寂の中でただ廊下を歩くことにも慣れきってる。
だから、7時15分を回った今、相変わらず真っ暗な廊下を総勢6名でそぞろ歩くというのは、非常に奇妙な感覚だ。
「……確かに、今日は静かだね」
不意に零れた丹羽の呟きは、会話の途絶えた私たちの間に返事をすべきか否か、よくわからない雰囲気を作り出す。はぁとか、っすとか、声かどうかもよくわからない音を各々発した一年生を、私は目だけでちらと振り返った。きっと、何が静かなのさえわかってないんじゃないかな。
沢渡の、状況を一切把握できてなさそうな仏頂面に吹き出しそうになり、慌てて唇に力を入れる。その後ろに、何の感情も伺えない相変わらずの無表情で歩いている上代の、しかしらんらんと輝く瞳が見えた。あいつ、多分暗いとこ好きだわ。
「……どういうことですか」
突然の不機嫌そうな声に、宮間を先頭に進んでいた一列縦隊が進行を止めた。最後尾あたりで、目が暗闇に慣れていないらしい一峠が上代にぶつかる気配がする。
「あ、悪い」
「ん? あぁうん」
二人の見事なまでに呑気な声に思わずにやにやと口元が緩む。沢渡にいらつきを隠す気は全くないようで、廊下に舌打ちの音がやけに大きく響いた。
「ちょっとお京ったら、舌打ちはよくないなぁ」
「あんたまでお京呼ぶな」
「あ、もう敬語すら使ってくれないのね」
ヤバい私早くもナメられてるわ。ヘコむ。
「それより何なんですかさっきからっ!」
「いやあんたが何なの」
「校内ただ歩いてるだけじゃないですか!」
けっこうイラついてるらしい沢渡を、適当な相槌と腑抜けた笑顔でやり過ごす。しかしそれは逆効果だったらしく、沢渡は依然うるさいままだった。
「ていうか! 一番謎なのはそれですよ!」
そう叫んで突きつけた人差し指の先は、私の左手。さらに詳しく言うなら、私がぶら下げている1.5リットルペットボトルだ。三分の二ほどまで注がれた水が、ちゃぷんと音を立てた。一番の謎と呼ばれたペットボトルは、私が何週間か前に家で飲んだコーラの抜け殻だ。お茶とかミネラルウォーターのボトルだと、エコだなんだでつぶしやすいやわらかいものが跋扈していて耐久性に問題アリ。その点、炭酸飲料は固いペットボトルを使い続けてくれるのでありがたい。
まぁ、今その旨を沢渡に伝えたところで、そういう意味じゃないと一蹴されるのは目に見えている。私だって馬鹿じゃないし、空気読めないわけでもない。私が周りからKYだKYだ言われるのはあれだ。あえて空気読んでないんだ。AKYだ、うん。こういう奴がグループに一人いると、場の雰囲気が険悪にならなくていい。そういう役割を担っているのだ私は。
「生徒会となんの関係があるってんですかこんなの!」
きゃんきゃんと興奮した犬みたいに吠える沢渡の背後に、その時、私は握り拳ほどの黒の塊を視認した。同じくそれを視界に入れたらしい、丹羽と宮間の空気が、ぴぃんと張った。
虫か。否。
月光を何者かが遮っているのか。否。
あれは影じゃない。いうなれば、闇そのものだ。
次の瞬間、背中に突然鉄の棒を差し込まれたような寒気が襲う。私は既に、ほぼ無意識的に右手でボトルのキャップを外していた。無色透明な水はたっぷんと揺れてから、重力に逆らって吹き出す。1リットルほど入っていたボトルの中はすでに空っぽ。吹き上がった水は一度空中で細かく霧散したが差し出された私の右手に従って一瞬で集結し、人差し指に指し示された方向へと目にも止まらぬ速さで襲い掛かった。
あからさまにぎょっとした表情でそれを見ていた沢渡の背後。いまだ怪しく蠢いている闇としか形容しがたいそれに向かって、水の塊は、がはりと大口を開けるように一度大きく広がった。「ひっ」と小さく息をのんだ沢渡が果敢にも背後を振り返った直後、金属を爪でひっかくような鋭い音が鼓膜を突き抜ける。この音は、結構耳に残る。あとから鳥肌が立つ感覚が嫌いだ。不快音に顔をしかめたのも一瞬、黒の塊は素早く沢渡の背後から飛び退るようにして階段下の暗闇へと逃げ込んだ。
「なんだよ今の!」
暗い廊下に一峠の声が響いた。近すぎて状況を把握できていないらしい沢渡と違って、後ろの二人にはしっかりと見えていたらしい。一峠はしっかりと黒の塊を目で追って、階段下を睨みつけていた。沢渡は色々自分の近くで事が起こりすぎたせいか、はくはくと口を開閉するだけで、まったく音声は発信できていない。まぁこれが普通の反応だと思うんだけど。むしろこんな状況でも鉄仮面のような無表情を崩さない上代がどうなんだろうかと思う。
「君らはそこから動かないでね」
三人にはそう言っておいて、右腕を下ろす。沢渡の頭上に浮いていた水の塊はもう一度霧状に広がって、今度は球状にまとまった。
水の玉を携えて、階段を五段降りる。暗い所に紛れているとはいえ、アレとただの暗闇とじゃ、性質も気配も何もかもが違うから、すぐにわかる。踊り場の隅で蠢いているそれを確認して右腕を上げた。瞬間。
鼓膜を突き刺す不快音。同時に暗がりから飛び出したそれは、一直線に私へと向かってくる。背後で誰かの声が聞こえた気がする。さっきの私の水と同じように、視界いっぱいに広がる黒、黒、黒。こいつ、私を喰う気か。
「八重!!」
丹羽の声が廊下に反響する。
黒が私の腕に触れる――ゼロコンマ数秒前。
霧状に広がった水が、一気に黒を包み込んだ。不快音が一層強くなる。脳を直接震わせるような。きっとこれは断末魔の叫び。この一年間で毎日聞き続けた、最期の雄叫びだ。最初は耳栓でも買ってこようかと思ったけど、いつの間にか慣れてしまっていた。
耳が千切られそうな音の嵐の中で、霧が私の手の動きに合わせてぎゅっと集まり、水の塊になる。黒の塊は水に抱かれたまま、一度収縮してから溶けるようにして消えた。身の毛もよだつ不快感と耳に痛い音も、同時に去っていった。案の定耳に残ってしまった不快音にぶるりと体を震わせる。やっぱ私あの音嫌い。
いまだに私の頭上でふわふわと形を変えながら漂っている水は、私が右腕を下すと素早くペットボトルの中にリターンした。私はこれを「ハウス」と勝手に呼んでいる。犬かよ。まぁ私だったらペットボトルハウスなんて段ボールハウス並みに嫌だけど。
階段の上を振り返る。恐る恐るといった様子で覗き込んでいた沢渡と一峠と目が合った。一年前の私とそっくり。さぁ笑えよ、鷹司。あの日の先輩みたいに。
私はにっと口角を引き上げた。
「もう大丈――」
ぶ、と言いきる前に、再び例の不快音がぎぃぃんと脳を揺らした。発信源は私の背後。咄嗟に振り返れば、すでに黒の塊は視界いっぱいに口を開けて私を飲み込もうとしていて、なんていうか、まぁ普通にやばい。普通に想定外だ。何これ私かっこわるい。
なんとか腕で防御体制を取る。右腕は持ってかれるかもしれない。まぁ今日は幸い宮間がいるからーーなんて楽観視しつつも、やっぱりそれなりに、いやかなりの恐怖とかもあってそれ以上は動けなかった。
ぐっと瞼を閉じてしまう直前、視界の端でぷわんと天パの茶髪が揺れた。