第十二話 赤き髪の最強の脅威「羅刹」
人の立ち入りを拒む鬱蒼とした樹海。
その歪んだ空間の裂け目の先に存在する、妖たちの異界拠点。
無数の巨大な鳥居が乱立し、血のような朱色と不気味な紫の妖気が渦巻く拝殿の奥で、冴木刹那は一人、膝をついていた。
静まり返る空間に、ゆっくりとした足音が響く。
拝殿の最奥、絢爛豪華な金と黒の着物を纏い、煙管からゆらりと紫煙をくゆらせている男がいた。
黒幕にしてゲームマスター『第六天魔王』波旬である。
その黄金色の双眸は、人間や下級妖怪たちが苦しみ、足掻く様を心底愉しみ、観察するための絶対的な邪悪さを湛えていた。
「……ふふ。冴木、手ぶらで帰ってきたか。我がゲームの進行が滞るではないか」
波旬の優雅な声が響く。
その横には、二人の異様なコンビが控えていた。
中国風の意匠が施された衣装を纏い、細身で狐のような薄気味悪い顔を浮かべた男。
『憑依の業鏡』雲外鏡。
そして、2メートルほどの圧倒的な高身長。
褐色肌に立ち上る炎のような燃える赤髪。深みのある臙脂色の着流しを肌蹴けて着用した圧倒的な威圧感を放つ悪魔のごとき美男。
羅刹である。
「申し訳ございません、波旬様……。九重 蓮が現場の破片をその場で修繕し、五行の相性を歪めて攻撃を受け流しました。こちらの太刀にヒビが入り……取り逃がしました」
冴木が硬い声で応じると、羅刹が臙脂色の着流しを揺らし、低い声音でくすりと嘲笑した。
「クク……情けないな、冴木。人間の修繕屋と落ちこぼれの『始まりの器』一匹相手に不手際を晒すとは。お前が勝ち残り、その愛刀『鏡花』を人間の肉体として完全に蘇らせてもらうための盤上遊戯だろうに? そんなザマでいつになったら願いが叶うのだ」
「……くっ……!」
冴木の拳が強く握りしめられる。
羅刹は冷酷な眼光を冴木へ向けたのち、煙管をくゆらせる波旬に向かって深く一礼した。
「波旬様。ルールを乱すバグが二人、そして使えない手駒が一人……。秩序を保つ監視員として、私と雲外鏡が直接始末に向かいましょう」
波旬は紫煙の向こうで黄金の目を細め、満足そうに頷いた。
「よい。人間と妖怪が絶望に塗れて足掻く姿こそ、最高の余興。羅刹、雲外鏡……存分に絶望を見せてやれ」
「御意——」
真紅の炎と不気味な妖気が爆ぜ、二体の凶悪な処刑人が現世へと降臨するのだった。
◇◇◇
九重堂の作業場を吹き抜ける風が、いつになく冷たく湿っていた。
作戦会議を終えて数日。
傷が癒えきらぬ身体を騙しながら、俺は欅の作業机に向かい、古い鉋の刃を研いでいた。
しゃり、しゃり。
砥石の規則正しい音が滑る。
だが、どれだけ集中しようとしても、胸の奥を抉る不吉な胸騒ぎを消し去ることはできなかった。
「蓮様、お茶が入りましたわ。あまり根を詰めすぎては、せっかく塞がりかけたお傷が開いてしまいます」
黒江が淹れたてのほうじ茶を湯呑みに注ぎ、俺の傍らにそっと置いた。
いつもの甘えたような笑みを浮かべてはいるが、その肩はかすかに強張っている。
彼女もまた、この街を覆い尽くしつつある異常な霊気の澱みに気づいているのだ。
あの冴木刹那との死闘。
そして神崎と小夜から明かされた、十二の『始まりの器』と江戸時代の陰陽師・源将一の真相。
死者蘇生の甘言で最強の剣士を踊らせ、壊れた道具とゾンビ化した少女たちを街に撒き散らす謎の存在。
「誰なんだよ『羅刹』って」
その名をふと口にしてしまった、その瞬間だった。
パリィィィィンッ!!
空間そのものが、まるで巨大な薄ガラスのように割れる高音が響き渡った。
「なっ……!?」
作業机の上の砥石が、何の前触れもなく真っ二つに亀裂を生んで砕け散る。
同時に、九重堂の周囲に張られていた陰陽寮特製の防衛結界が、紙屑のように破れ去る感覚が伝わってきた。
言葉を失う俺の横で、黒江の表情が劇的に凍りついた。
彼女の全身から毛羽立つような戦慄が走り、その瞳が恐怖で極限まで見開かれる。
「蓮様……お逃げください……! これ……ダメですわ……! 今までの刺客とは……存在の規模が違います……!!」
黒江が俺の腕を掴み、狂わんばかりの力で引っ張る。
俺たちは慌てて外に出た。
玄関口を開けると周囲には炎の壁。
ぐるりと一周二階よりも遥か高いたからまで火が上がっている。
ドォォォォォォォォン……ッ!!
熱風が吹き荒れる。
木造の九重堂が、綺麗さっぱり燃えて無くなるまで、いくばくもかからなそうな業火。
空を見上げれば、本来なら群青色であるはずの夜空が、まるで巨大な炉の底のようにドロリとした血の赤に染まり上がっていた。
「くっ……ガハッ……!?」
熱気が肺に飛び込み、吐息すら灼熱の火の粉と化す。皮膚がチリチリと焼き焦げる匂いが漂う。
炎の壁の影から、ゆっくりと歩み寄ってくる二つの影があった。
一つは、見覚えのある長身の剣士——冴木刹那。
だが、その表情にはかつての絶対的な余裕はなく、苦虫を噛み潰したような不快気な色と、微かな葛藤が滲み出ていた。
その手中には、ヒビの入った愛刀。
背後には、もう一人。
冴木の隣は歩みでたその存在を見た瞬間、俺の直感が叫びを上げた。
——立ち向かってはならない。触れてはならない。これは人間が戦っていい「相手」ではない、と。
紅蓮の炎のように燃え盛る長い赤髪。
臙脂色の着流しに漆黒と朱赤の打掛を羽織り、その肌は磁器のように白く、しかしそこから放たれる殺気は街一つを容易く焦土に変えそうなほど苛烈だった。
その瞳は燃える石炭のように赤く光っている。
「……ゲームのルールを破るバグが二人。そして、使えない手駒(冴木)が一人」
美しくも、冷徹極まる声が響く。
その声が鼓膜を震わせただけで、俺の全身の細胞が恐怖で悲鳴を上げ、膝がガクガクと震えた。
「冴木。貴様にはチャンスを与えたというのに、この程度の修繕屋と化生の女相手に『引き分け』などという不手際を晒すとはな」
「……申し訳ございません、羅刹様」
あの冴木刹那が、膝を折り、屈辱に歯かみしながら頭を下げている。
羅刹は冷ややかな眼光を俺に向けた。
「我が名は羅刹。理を乱し、器の因果を歪める不純物……九重 蓮。そして始まりの器。貴様たちを『処分』するために、直々に降り立った」
軽やかに一歩を踏み出すと、その足元から赤蓮の炎が爆ぜ、石畳がマグマのように赤く溶け落ちた。
「処刑を始める。貴様らはこの戦いに不要だ」
「蓮様っ! 私の後ろへ!!」
黒江が悲鳴のような叫び声を上げ、俺を背後に押しやった。
彼女の全身から、これまで見たこともない密度の黒墨が溢れ出る。
死線をくぐり抜け、限界突破を果たした彼女の「純愛霊力」。
朱赤と蒼紫の極光を纏った高密度の墨が、彼女の周囲で巨大な嵐となって渦巻いた。
「いかに鬼神の名『羅刹』と名乗ろうと……どんなに強い敵だろうと! 蓮様を傷つけさせはいたしませんわっ! 『純愛極限・黒蓮華ノ陣』!!」
黒江が両手を突き出す。
空間を埋め尽くすほどの質量を持った墨の巨蓮が、五行の【木】の霊力を極限まで高められ、直撃すれば山すら穿つほどの威容を誇って羅刹へと押し寄せる。
極限の霊力が合わさった、絶対の防御。
羅刹は、顔色ひとつ変えなかった。
ただ、億劫そうに細い指先をチチッと鳴らしただけだった。
「……不快だな。ゴミが」
羅刹の背後に佇んでいた古鏡『雲外鏡』が、その姿を表し、不気味な蒼白色の光を放った。
キィィィィィィン……ッ!!
耳を刺す高周波の音が空間を伝破した瞬間、信じられない光景が広がった。
「な……なに……!?」
黒江が放った渾身の『黒蓮華』。
それらが羅刹の身体に触れる直前、まるで「初めからそんな術式など存在しなかった」かのように、サラサラと透明な粒子となって空中へ分解し、消滅していったのだ。
「私の……私の純愛霊力が……消えて……いく……!?」
黒江が呆然と己の手を見つめる。
攻撃が防がれたのではない。相殺されたのでもない。
黒江が練り上げた術式の構造そのものが、『雲外鏡』が放つ概念光線によって根本から解体・無効化されたのだ。
「これが『雲外鏡』の権能【概念解体】だ」
羅刹が静かに、だが重苦しい声で呟く。
「術式とは、霊力を一定の理に従って組み上げた構造物に過ぎん。雲外鏡の光は、その理そのものを破綻させ、ただの無害な霊素へと還元する。……いかなる強力な術も、雲外鏡の前では意味をなさない」
「そんな……っ! 術式そのものを解体するなんて……それじゃあ、どんな霊術も通用しないじゃないか……!」
俺が絶望に息をのむ暇すら、羅刹は与えてくれなかった。
「無効化の後は……消滅だ」
羅刹が優雅に右手を掲げる。
次の瞬間、地面から真紅の火柱が立ち昇った。
ゴォォォォォォォォッ!!!!
九重堂は、防御の術を張る間もなく、圧倒的な熱量によって一瞬で灰すら残さず灼き滅ぼされた。
次元が違う。威力や速度という次元ではない。存在の根本的な「格」が違いすぎるのだ。
「圧倒的な力……。神崎さんでもこんな強い術使えるかどうか……一体何者なんだ!」
まだ地に臥したままの冴木。
あの男さえも頭の上がらない強さ。
「あっ……あぁ……っ!」
目の前で燃えていく我が家、黒江が膝から崩れ落ちる。
「さて……次は貴様たちだ、不純物」
羅刹がゆっくりと手を俺たちへ向ける。
その指先に集まるのは、太陽すら想起させる、直視することすら叶わない極大の紅蓮光。
雲外鏡による「術式の解体」と、羅刹による「圧倒的火力の消滅」。
完全無欠の処刑システムを前に、俺の職人としての知恵も、黒江の愛も、何一つ届かない絶望の深淵へと叩き落とされていた。
「蓮……様……っ。ごめんなさい……私……蓮様をお守りできません……っ」
血を流し、術を奪われた黒江が、俺の足を抱きしめて涙を流す。
羅刹の指先に宿る紅蓮の光が爆ぜる。
死が、すぐそこに迫っていた——。




