第一話 絵巻物の付喪神と大爆発
瓦葺きの屋根が軋む不穏な音と、立ち込める木屑の匂い。
それが、俺——九重蓮が生まれて初めて死を覚悟した瞬間の光景だった。
「蓮様ぁぁぁっ! 私、私はずっと、この時をお待ちしておりましたの〜っ!」
耳を突き破らんばかりの可憐な悲鳴とともに、俺の視界は真っ黒な墨の濁流と、頭上で弾けた和紙の幻想的な光に覆い尽くされた。
視界の真ん中にいるのは、艶やかな黒髪を揺らし、朱色の帯を締めたゴシック調の和装に身を包んだ小柄な少女。
宝石のように澄んだ琥珀色の瞳をウルウルと潤ませ、顔を林檎のように真っ赤に染めている。
彼女の頭上には、虚空に浮かぶ和紙が幾枚も展開し、そこから光り輝く墨文字が溢れ出していた。
『相思相愛』
『破邪顕正』
『夫婦気取り』
『生涯添遂』
浮かれた文字の嵐。
彼女が放つ途方もない質量を秘めた霊力。
俺の狭い骨董屋を優しく、かつ容赦なく包み込んでいく。
「待て、待て待て待て! 黒江、抱きつくのはいいが、一旦落ちつっ」
「いいえ落ち着けません! 百年の時を超えて現れた運命のお方! さあ、今すぐ私を貴方様のお嫁さんにしてくださいまし〜〜っ!」
ドバァァァンッ!!
空気が爆破されたような轟音が響き渡る。
空間そのものが黒い墨の領域へと塗りつぶされた。
俺の視界が急速に上昇する。
いや、違う。
俺の体ではなく、俺の店と屋根が、極大の霊圧によって上空へと打ち上げられたのだ。
夜空に広がる綺麗な満月。
そよぐ爽やかな夜風。
そして、天井と二階の床を完璧に失い、満天の星空が丸見えになった俺の愛着ある骨董修繕屋『九重堂』の店舗。
「……は?」
呆然と立ち尽くす俺の胸に、ぽすん、と柔らかい感触が飛び込んでくる。
「あはぁ……蓮様の温もり……幸せでございます……」
胸元でうっとりと頬を摺り寄せてくる少女黒江。
俺はゆっくりと天を見上げた。
それから足下に転がる『修繕を終えたばかりの古びた竹筒』と、そこに収められていたはずの『禁忌の妖異絵巻』を見つめた。
「……俺の、店舗が。作業場と住居が……吹き飛んでる……?」
がく。
膝をついた俺の脳裏に、数時間前の出来事が走馬灯のように駆け巡っていた。
◆
俺、九重蓮は、この街の片隅で小さな骨董屋を営みながら、古い道具や霊具の修繕を請け負う職人だ。
一応、先祖を辿れば古い陰陽師の血筋らしい。
そんな俺自身には大した霊力なんてない。
ただ、幼い頃から道具に込められた「人の想い」や「構造の歪み」を視覚的に理解する妙な目ざとさがあった。
だからこそ、途絶えかけた家業を継ぎ、打ち捨てられた道具たちを修理する日々を送っていたのだ。
事件が起きたのは、今日の夕方のこと。
蔵の奥底に長年眠っていた、黒ずんだ竹筒を掘り出したのが始まりだった。
中に入っていたのは、百年以上前のものと思われる一枚の絵巻物。
カビと埃に覆われ、紙の繊維はボロボロ。
墨の描線も掠れかけていた。
『可哀想に。誰にも見られず、こんなところで放置されてたのか』
職人魂に火がついた俺は、特製の和紙と糊を使い、夜を撤夜して絵巻の補修を行った。
丁寧に汚れを落とし、掠れた描線を優しく撫で、本来の美しさを取り戻す作業。
そしてついさっき、深夜二時。
最後の仕上げとして、絵巻の端に軽く霊力を注ぎながら、小さな傷を修復し終えた瞬間。
『……あ……あたたかい……』
絵巻から細い、鈴を転がすような少女の声が聞こえた。
次の瞬間、絵巻物が眩い朱色の光を放ち、紙の中から一人の少女が飛び出してきたのだ。
「ここは、」
「付喪神か? 俺の手で生み出せたのは初めてだ」
「あなたは?」
「俺はお前を見つけて直した男。九重蓮だ」
「そう。あなたが……私は黒江。古の絵巻物……」
百年の眠りから目覚めた付喪神黒江。
彼女は自分を永い孤独から救い出し、丁寧に傷を癒やしてくれた俺の姿を見るや否や、一瞬で顔を真っ赤にし、冒頭の「大暴走」を引き起こしたというわけだ。
◆
「……おい、黒江」
「はいっ、何でしょう蓮様! 初夜のお申し出。でしょうか!?」
「違う。……お前、自分のやったことが分かっているか?」
俺は震える指先で、夜空がむき出しになった天井(だった場所)を指さした。
黒江は琥珀色の目を丸くし、頭を首を傾げる。
「あら? 少し風通りが良くなりましたわね?」
「風通りどころの話じゃねえよ! 家が無くなったんだよ!! 二階に置いてあった俺の布団も、明日納品する予定だった骨董の皿も、全部夜空の彼方に消し飛んだんだよ!!」
「ひゃんっ!? も、申し訳ございません! 私、蓮様があまりにも男前で、お心が温かくて、胸がキュンとしてしまいましたら……霊力が抑えきれなくなってしまって……!」
シュンと眉を下げ、上目遣いでオロオロと両手を合わせる黒江。
黒地をベースに朱色と金の刺繍が入った和装。
フリルがついた袴風のミニスカートから伸びる華奢な足。
見た目は15、6歳の可憐な美少女そのものだ。
怒ろうにも可愛すぎて毒気を抜かれる。
「……はぁ。まあいい、命があっただけ儲けものだ……」
「蓮様、お優しい……! 好きです……っ!」
「あ、待て! それ以上キュンとするな! 残った一階まで吹き飛ぶ!!」
慌てて黒江の肩を掴んで距離をとる。
頭上に浮かびかけた『相思相愛』の文字がピタリと止まり、黒江は「ふにゃ」と情けない声を漏らした。
「……とにかく、お前は絵巻物の付喪神なんだな? 名前は黒江」
「はいっ。『禁忌の妖異絵巻』の付喪神、黒江と申します。蓮様に命を吹き込んでいただいたからには、一生貴方様にお仕えし、妻として尽くす所存です!」
「妻は一旦置いとくとして……なんでそんな馬鹿みたいな霊力を持ってるんだ? ただの古い絵巻物だろ?」
「それは……」
黒江が何かを言いかけた、その時だった。
カチ。
静寂の夜に硬質な音が響いた。
俺の首元。
修繕を終えた竹筒を、革紐で首から下げていた。
その竹筒が、突如として内部から朱色の強い光を放ち始めたのだ。
「……なんだ? 竹筒が発光してる……?」
「蓮様、下がってください!」
さっきまでのデレデレとした雰囲気が嘘のように、黒江の表情が凛とした戦心に満ちたものへと変わる。
彼女は俺を庇うように一歩前へ出た。
「この光……『妖光』の共鳴です。刺客が……『化生の蠱毒』の参加者が近づいています!」
「けしょうの……こどく?」
聞き覚えのない単語に首を傾げる隙もなく、半壊した店舗の入口——破れかぶれになった暖簾の向こうから、不気味な足音が近づいてきた。
「ヒヒッ……ハハハハ! 見つけたぞ、見つけたぞぉ!」
月光の下に姿を現したのは、ボサボサの髪にヨレヨレのスーツを着た30代半ばの男だった。
男の目は血走り、肌は土気色。
だが、その手には濁った黄色い光を放つ二つの古い道具が握られていた。
一つは、油紙がボロボロに破れた『古い骨傘』。
もう一つは、黒ずんだ塗りが剥げかけた『木製の裁縫箱』。
「間違いない……朱色の妖光! お前も『化生の器』を持つマスターだな!?」
スーツの男は狂気じみた笑みを浮かべ、手に持った骨傘を突き出してきた。
「俺は落第したんだ……陰陽寮の試験も、社会のレースも、全部落とされた! だが、このゲームで勝ち残れば、大妖怪様が俺を幹部として取り立ててくれる! 死んだおふくろだって蘇らせてくれるんだ!!」
「大妖怪? 死者蘇生……?」
「蓮様、お気をつけください!」
黒江が朱色の袖を翻し、俺の前に立ちはだかる。
「あの男が連れているのは、下級妖怪の『骨傘』と『針女』! すでに器と契約し、マスターとなっています!」
男が掲げた骨傘から、ヒョロリとした一つ目のチビ妖怪が飛び出し、裁縫箱からはゴスロリ風の衣装を着た小柄な女妖怪が姿を現した。
女妖怪の長い黒髪は、一本一本が巨大な裁縫針のように鋭く光っている。
「行けっ、『骨傘』! 『針女』! そいつらの器を奪い、俺の出世の足しにしろ!!」
「ヒヒッ、任せろマスター! 『絶対金剛・骨の陣』!」
一つ目の骨傘が前線に飛び出し、傘骨を大きく広げた。
瞬間、男たちの周りに黄金色の強固な霊力の障壁が展開される。
「くっ……『純愛塗潰』!」
黒江が素早く袖を振り、墨の濁流を放った。
しかし、黒江の放った墨は黄金色の障壁に接触した瞬間、まるで硬い壁に弾かれるようにペタリと表面を濡らしただけで、霧散してしまった。
「なっ……私の一撃が弾かれた!?」
「ハハハハ! 無駄だ無駄だ! 俺の『骨傘』は【金属性】の付喪神! 紙や木を司るお前のような【木属性】の妖怪じゃ、この金剛の防御は逆立ちしたって破れねえんだよ!!」
男の勝ち誇った叫びが響く。
(属性——五行説か!)
俺は瞬時に頭の中で知識を回転させた。
【木】は【金】に切られる。
つまり、黒江の術は相手の属性に対して決定的に不利な『相克』の関係にあるのだ。
「ヒヒッ! 次はこっちの番だ! 影を縫い破れ、『針女』!」
「……刻む」
裁縫箱から飛び出した針女が、不気味な狂気の笑みを浮かべ、頭髪の針を大量に射出してきた。
凄まじい速度の針が、夜空を切り裂いて飛ぶ。
「蓮様、危ないっ!」
黒江が間一髪、俺の身体を抱き寄せて横飛びに回避する。
ドスドスドスッ!
つい先ほどまで俺たちが立っていた床板に、極太の鉄針が深く突き刺さった。
よく見ると、刺さった針から伸びる透明な霊糸が、俺の影を床に縫い付けている。
「くっ、足が……動かない!?」
「影縫いの術ですわ! 蓮様、お下がりください……私が、私がお守りしますから!」
黒江が健気にも俺の前に立ち、朱色の袖を広げる。
だが、相手の属性は【金】。黒江の【木】の攻撃では打撃を与えられず、このままではじり貧だ。
「ハハハ! 終わりだ! 影を縫われたら逃げられん! 針女、そいつらの喉狂いを突き刺せ!!」
男の死刑宣告とともに、針女が大量の針を構え、空中へと跳ね上がった。
(クソっ、どうする!? 俺に戦う力はない……だが、道具の構造なら見える!)
俺は動かない足のまま、目を凝らして敵の器を激しく観察した。
男の手にある『骨傘』。
油紙が破れ、竹の骨組みがむき出しになった骨董品。
(……待て。あの傘、油紙がない?)
本来、傘というものは油を塗った和紙で水を弾く構造だ。
しかし、あの骨傘は長年の劣化で油紙が完全に剥げ落ち、裸の骨組みと和紙の破片だけで構成されている!
(油紙がない傘は水を吸い込んで急激に重くなる!)
「黒江! あいつの障壁を破る方法がある!」
「えっ!? で、ですが、私の攻撃では……!」
「お前の霊力じゃない! 属性の相乗を使うんだ! 黒江、お前の【木】の霊力に、周囲の【水】を巻き込め!」
俺は半壊した店舗の隅——壊れた水道管から噴き出している生活用水の破片を指さした。
「木は水を吸って育ち、水は金を侵す! あいつの傘は油紙がない……水を吸わせれば、あの【金】の障壁は一瞬で劣化して崩壊する!」
「お水と……【木】の相乗……! わかりましたわ、蓮様!」
黒江が力強く頷き、両手を掲げる。
水道管から噴き出す水流が、黒江の放つ朱色の霊気に吸い寄せられ、巨大な墨と水の渦へと姿を変えていく。
「ハッ! 悪あがきを! 【木】に【水】を混ぜたところで、【金】の絶対防御が破れるかよ! 殺せ、針女!」
針女が空中から極太の針の嵐を放つ。
「させませんわぁぁぁっ!」
黒江が叫ぶ。
だが、それだけではまだ威力が足りない。
相手の【金】の硬度を完全に上回るには、もう少し圧倒的な爆発力が必要だ。
(出力……黒江の霊力が一番跳ね上がるスイッチは……!)
俺は腹を括った。
恥ずかしさを捨て、影を縫われたまま、黒江の背中に向かって大声で叫んだ。
「黒江ーーっ! お前は世界一可愛くて、最高に綺麗な俺の自慢の付喪神だ! 大好きだーーっ!!」
「〜〜〜〜〜〜〜っっっ!??!?」
瞬間。
黒江の顔が、まるで沸騰したヤカンのように真っ赤に破裂した。
『生涯一筋』
『愛羅武勇』
『運命成就』
『祝言即日』
頭上に展開された和紙から、金色に輝く墨文字が滝のように溢れ出す。
黒江が限界突破し、彼女の抱く極大の【純愛霊力】が、巻き込んだ水流と融合して宇宙規模の質量へと膨れ上がった。
「蓮様が……蓮様が私に『大好き』とおっしゃいましたわぁぁぁぁぁっっっ!!!」
ドッバァァァァァァァンッッ!!!!
破格の純愛濁流が、夜空を覆うほどの巨大な津波となって解き放たれた。
「なっ……なんだこの霊圧はぁぁぁ!?」
勝ち誇っていた男の顔が絶望に染まる。
水と墨の津波は、針女が放った針の嵐を力ずくで呑み込む。
そのまま骨傘の展開する黄金色の障壁へと激突した。
油紙のない骨傘は、一瞬にして大量の「水」を吸い込み、骨組みがバキバキと嫌な音を立てて悲鳴を上げる。
「ヒ、ヒエぇぇ!? 重い、重いぃ! 壊れるぅぅ!!」
「馬鹿な、俺の『骨傘』の防御が崩れていく!?」
属性の弱点を突かれ、さらに規格外の質量を叩き込まれた骨傘の障壁。
ガラスのように脆く粉々に砕け散った。
「そのまま吹き飛べぇぇぇぇいっ!」
黒江の愛の怒号とともに、濁流がマスターの男と二匹の妖怪を飲み込み、そのままはるか街の彼方へと吹き飛ばしていった。
「ひえぇぇぇ〜〜〜っ、覚えてろぉぉぉ!!」
夜空に消えていく男の悲鳴。
静寂が、半壊した店舗九重堂に戻ってきた。
◆
「はぁ……はぁ……」
息を整えながら、俺は影縫いが解けた足を進めた。
足下に転がっているのは、霊力を失い、ただの古びたゴミとなった骨傘と裁縫箱の成り果てだ。
「や、やりましたわ、蓮様! 私、蓮様のお役に立てました!」
黒江が目を輝かせ、パタパタと駆け寄ってくる。
そして、そのままの勢いで俺の胸へと飛び込んできた。
「あぁ、蓮様……先ほどの『大好き』というお言葉、真実でございますね!? 私、もう嬉しくて、胸がはち切れそうでございます!」
「あー……いや、あれは出力を上げるためのハッタリというか……」
「えっ」
「嘘です! 本当です! めちゃくちゃ頼りにしてます!」
黒江の目が再び潤みかけたので、慌てて訂正する。
黒江は安堵したように可愛らしく微笑むと、俺の胸に額を預けた。
「……蓮様。先ほどの男が言っていたこと、本当でございます」
「……え?」
「この街では今、恐ろしいゲームが始まっています。名を『化生の蠱毒』。妖怪たちを戦わせる不吉な宴……」
黒江の静かな声が、夜風に混ざって俺の耳に届く。
「刺客たちは、器を持つマスターである蓮様を狙って、これからも次々と現れるでしょう。私が覚醒してしまった以上、蓮様をこの戦いから逃がすことはできません……」
「……なるほどな」
俺は壊れた柱に背を預け、見上げた月を見つめた。
願いが叶う。
死者を蘇らせる。
甘い言葉で人間を騙し、妖怪を道具として使い捨て、挙げ句の果てに人の思い出が詰まった骨董品を戦いの道具に落とし込む。
職人として、そして道具を愛する人間として。
胸の奥で、静かな怒りの火が灯るのが分かった。
「黒江」
「はい、蓮様」
「俺は陰陽師の末裔だけど、大した霊力もない。……だけど、道具の傷を直すことと、歪んだ構造を見抜くことなら誰にも負けない」
俺は首から下げた竹筒を固く握りしめた。
「このゲーム、俺たちが打ち破るぞ。……俺と、お前でだ」
黒江はぽかんと琥珀色の目を見開いた後、花がほころぶような、最高に美しい笑顔を浮かべた。
「……はいっ! どこまでもお供いたします、私の旦那様!」
言葉と同時に、黒江が力一杯俺に抱きついてくる。
その瞬間、彼女の胸のときめきが再び霊力に変換された。
『夫婦円満』
『生涯一筋』
『愛羅武勇』
ドカァァァンッ!!
「……あ」
「あ」
残っていた店舗の一階の壁と、唯一無事だった看板。
黒江の歓喜によって木っ端微塵に吹き飛んだ。
「……黒江」
「は、はいっ!?」
「俺、今日からどこで寝ればいいんだ……?」
「わ、私の絵巻物の中でよろしければ、いくらでも添い寝いたしますわ〜っ!?」
「そういう問題じゃねえよ!!」
星空の下、跡形もなく更地となった店舗九重堂の跡地。
俺たちの過酷で、甘く、破天荒な戦いの日々が幕を開けたのだった。




