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9/22

01/11 Tue.-9

 お布団も干したし。


 洗濯もした。


 掃除だって。


 今日の晩ご飯は、おでんだ。


 午後、帰ってきてからのメイの時間は、そんな仕事たちで飛ぶように過ぎていった。


 カイトが、残業ナシで帰ってくると言ってくれたのだ。


 こんなに嬉しいことはなかった。


 嬉しさの余り、勢いづいて全部やってしまったのである。


 ふふっ。


 そして、ことことと音をたてるおでん鍋の前で、メイの顔は思い切り緩んでしまった。


 自分の右の手のひらを見つめてしまったのだ。


 今日、何回こうやって眺めただろう。


 書いてあるのは、カイトのケイタイ番号。


 すぐにメモに書き写しはしたものの、どうしてもこの字が嬉しくて、消さないように一生懸命努力してしまった。


 ボールペンなので、水なんかであっさり消えてしまいそうで。


 ついついゴム手袋をしてしまったり、トイレの後は、そぉっと用心して手を洗ったり。


 ちょっと消えてしまった部分はあるけれども、まだしっかりとその文字は手のひらに残っていた。


 カイトの字。


 それが、自分の身体に刻まれているのだ。無性に嬉しかったのである。


 これのおかげで寂しくなかった。


 家事をしては眺め、また何かをしては眺め、としていると、すぐにカイトの仕事が終わる時間になったのだ。


 魔法の文字だった。


 そうやって、まだしつこく眺めているうちに。


 車が入ってくる音がした。


 帰ってきた!


 そんなに大きな音では聞こえない。


 けれども、メイは手を眺めながらも、耳はダンボのように外の音を拾おうと頑張っていたのだ。


 慌ててガスを切って、玄関の方へと駆けていく。


 おかえりなさいを、まず言って。


 それからそれから……それから?


 メイは、その先のことを思いつけなかった。


 そうなのだ。


 彼が家に帰ってくるというシチュエーションは、いままでに何度もあった。


 しかし、結婚した相手として帰ってくるのは、これが初めてなのである。


 どういう風に、振る舞えばいいのだろうか。


 バカね。


 メイは、自分にそう言った。


 普通に、いままで通りでいいのだ。


 おかえりなさいの後は、前みたいに食事の案内をすればいいのである。


 後のことも、全部普通通りでいいではないか。


 ただ。


 寝る部屋だけが、やっぱり同じというだけで。


 バカバカー!!!


 また、自分の考えが暴走しそうになって、慌てて急ブレーキをかける。


 そうして、現実でも急ブレーキをかけなければならなかった。


 そう。


 玄関に到着してしまったのだから。


 どきどき。


 ドアの前で、メイは胸を高鳴らせた。


 これが開いたら。


 そう思うまでもなく。


 ガチャ。


 ドアが。


 開いた。


「おかえりなさい」



 嬉しさが―― そのまま笑顔になった。


 ※


 ドアの向こうのカイトが、何故か驚いたような、呆然とした顔をしているのを見て、メイは「え?」っと笑顔を止めてしまった。


 自分が、何かおかしな格好でもしているのかと思ったのだ。


 いまの自分の姿を、再確認してみた。


 しかし、別に汚れているようにも見えなかったし、おかしなところはないように思える。


 もしかして、顔に何かくっつけているのだろうか。


 メイが、そう考えた時。


 あっ。


 彼女は、いきなり引っ張り込まれるような力を感じた。


 気づいたら。


 カイトの腕の中だった。


 そのまま、ぎゅっと強く抱きしめられる。


 思いが溢れ出すような、熱い腕だった。


 え? え? えーーーっ??


 まさか帰ってくるなり、こんな騒ぎになるなんて思わずに、すごいパニックに陥ってしまった。


 とにかく彼女は、いままで通りに事を運ぼうと思っていたのだから。


『おかえり』の後は、このまま夕食の案内のハズだったのだ。


 なのに、カイトの方の考えは違ったようだ。


 全然、いままで通りではなかった。


 本当に、彼がこんなにスキンシップが好きな人だとは、思ってもいなかったのである。


 いままでのカイトを知る限り、触れようとしたら怒鳴られそうなイメージがあったのに、いざフタを開けてみたら、こんなにも抱きしめてくれるのだ。


「あっ…あの……おか…えりなさい」


 焦りながらも、彼女はもう一度その言葉を言ってみた。


 抱きしめられることは、イヤじゃない。


 それどころか、ドキドキドキドキして、頭がぼうっとなってしまって、おかしくなりそうだった。


 カイトの返事は、もっとぎゅっとしてくれることだった。


 ああ。


 メイは、少しだけ彼の翻訳のためのパーツを、手に入れたような気がしたのだ。


 カイトは、あまり言葉が得意ではない。


 それは分かっていた。だから、言葉に出来ないような時は、こうやって行動で表してしまうのだ、と。


 その中に、たくさんのカイトの気持ちが詰まっているのである。


 どのくらい詰まっているのかというのは、彼女にははっきり分からない。


 前例が少なすぎるのだ。


 しかし、今日のこの抱擁は、『好きだ』という気持ちがぎゅっと詰められているような気がした。


 どうでもいい相手に、彼はこんなことはしないだろうから。


 そう思うと、胸がきゅっと震えた。


「おかえり…なさい」


 もう一回、言ってしまう。


 帰ってきて嬉しいという気持ちを、今度はたくさんこめた。


 彼の腕に、そんな言葉で応えようとしたのだ。


 普通。


 夫婦という関係になる前には、恋人という期間がある。


 思いを通じ合わせるのが恋人という基準で考えると、彼らのその期間は、約半日だった。


 今日の婚姻届の遅れを加算するとしても、1日半である。


 そんな短い期間で、お互いの何を知り合えるというのだろうか。


 恋人でも夫婦でもない、同居している他人という時間はあった。


 だが、その時はあくまで他人同士に過ぎない。


 触れあうことだってほとんどなかったし、最初の数日を除けば、1日の中で一緒にいる時間など、ほとんどなかった。


 だから、夫婦という時間よりも、いまはまだ、お互いへの恋の部分を埋めていくので精一杯なのだ。


 二人は、恋が成就したばかりなのだから。


「夜ご飯は、おで……んんっっっ」



 だからまだ。



 全然通じ合えていないキスだった。

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