01/11 Tue.-9
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お布団も干したし。
洗濯もした。
掃除だって。
今日の晩ご飯は、おでんだ。
午後、帰ってきてからのメイの時間は、そんな仕事たちで飛ぶように過ぎていった。
カイトが、残業ナシで帰ってくると言ってくれたのだ。
こんなに嬉しいことはなかった。
嬉しさの余り、勢いづいて全部やってしまったのである。
ふふっ。
そして、ことことと音をたてるおでん鍋の前で、メイの顔は思い切り緩んでしまった。
自分の右の手のひらを見つめてしまったのだ。
今日、何回こうやって眺めただろう。
書いてあるのは、カイトのケイタイ番号。
すぐにメモに書き写しはしたものの、どうしてもこの字が嬉しくて、消さないように一生懸命努力してしまった。
ボールペンなので、水なんかであっさり消えてしまいそうで。
ついついゴム手袋をしてしまったり、トイレの後は、そぉっと用心して手を洗ったり。
ちょっと消えてしまった部分はあるけれども、まだしっかりとその文字は手のひらに残っていた。
カイトの字。
それが、自分の身体に刻まれているのだ。無性に嬉しかったのである。
これのおかげで寂しくなかった。
家事をしては眺め、また何かをしては眺め、としていると、すぐにカイトの仕事が終わる時間になったのだ。
魔法の文字だった。
そうやって、まだしつこく眺めているうちに。
車が入ってくる音がした。
帰ってきた!
そんなに大きな音では聞こえない。
けれども、メイは手を眺めながらも、耳はダンボのように外の音を拾おうと頑張っていたのだ。
慌ててガスを切って、玄関の方へと駆けていく。
おかえりなさいを、まず言って。
それからそれから……それから?
メイは、その先のことを思いつけなかった。
そうなのだ。
彼が家に帰ってくるというシチュエーションは、いままでに何度もあった。
しかし、結婚した相手として帰ってくるのは、これが初めてなのである。
どういう風に、振る舞えばいいのだろうか。
バカね。
メイは、自分にそう言った。
普通に、いままで通りでいいのだ。
おかえりなさいの後は、前みたいに食事の案内をすればいいのである。
後のことも、全部普通通りでいいではないか。
ただ。
寝る部屋だけが、やっぱり同じというだけで。
バカバカー!!!
また、自分の考えが暴走しそうになって、慌てて急ブレーキをかける。
そうして、現実でも急ブレーキをかけなければならなかった。
そう。
玄関に到着してしまったのだから。
どきどき。
ドアの前で、メイは胸を高鳴らせた。
これが開いたら。
そう思うまでもなく。
ガチャ。
ドアが。
開いた。
「おかえりなさい」
嬉しさが―― そのまま笑顔になった。
※
ドアの向こうのカイトが、何故か驚いたような、呆然とした顔をしているのを見て、メイは「え?」っと笑顔を止めてしまった。
自分が、何かおかしな格好でもしているのかと思ったのだ。
いまの自分の姿を、再確認してみた。
しかし、別に汚れているようにも見えなかったし、おかしなところはないように思える。
もしかして、顔に何かくっつけているのだろうか。
メイが、そう考えた時。
あっ。
彼女は、いきなり引っ張り込まれるような力を感じた。
気づいたら。
カイトの腕の中だった。
そのまま、ぎゅっと強く抱きしめられる。
思いが溢れ出すような、熱い腕だった。
え? え? えーーーっ??
まさか帰ってくるなり、こんな騒ぎになるなんて思わずに、すごいパニックに陥ってしまった。
とにかく彼女は、いままで通りに事を運ぼうと思っていたのだから。
『おかえり』の後は、このまま夕食の案内のハズだったのだ。
なのに、カイトの方の考えは違ったようだ。
全然、いままで通りではなかった。
本当に、彼がこんなにスキンシップが好きな人だとは、思ってもいなかったのである。
いままでのカイトを知る限り、触れようとしたら怒鳴られそうなイメージがあったのに、いざフタを開けてみたら、こんなにも抱きしめてくれるのだ。
「あっ…あの……おか…えりなさい」
焦りながらも、彼女はもう一度その言葉を言ってみた。
抱きしめられることは、イヤじゃない。
それどころか、ドキドキドキドキして、頭がぼうっとなってしまって、おかしくなりそうだった。
カイトの返事は、もっとぎゅっとしてくれることだった。
ああ。
メイは、少しだけ彼の翻訳のためのパーツを、手に入れたような気がしたのだ。
カイトは、あまり言葉が得意ではない。
それは分かっていた。だから、言葉に出来ないような時は、こうやって行動で表してしまうのだ、と。
その中に、たくさんのカイトの気持ちが詰まっているのである。
どのくらい詰まっているのかというのは、彼女にははっきり分からない。
前例が少なすぎるのだ。
しかし、今日のこの抱擁は、『好きだ』という気持ちがぎゅっと詰められているような気がした。
どうでもいい相手に、彼はこんなことはしないだろうから。
そう思うと、胸がきゅっと震えた。
「おかえり…なさい」
もう一回、言ってしまう。
帰ってきて嬉しいという気持ちを、今度はたくさんこめた。
彼の腕に、そんな言葉で応えようとしたのだ。
普通。
夫婦という関係になる前には、恋人という期間がある。
思いを通じ合わせるのが恋人という基準で考えると、彼らのその期間は、約半日だった。
今日の婚姻届の遅れを加算するとしても、1日半である。
そんな短い期間で、お互いの何を知り合えるというのだろうか。
恋人でも夫婦でもない、同居している他人という時間はあった。
だが、その時はあくまで他人同士に過ぎない。
触れあうことだってほとんどなかったし、最初の数日を除けば、1日の中で一緒にいる時間など、ほとんどなかった。
だから、夫婦という時間よりも、いまはまだ、お互いへの恋の部分を埋めていくので精一杯なのだ。
二人は、恋が成就したばかりなのだから。
「夜ご飯は、おで……んんっっっ」
だからまだ。
全然通じ合えていないキスだった。




