01/11 Tue.-8
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……社長。
リエは、いやな汗をかいた。
一度目を閉じて、いまの自分の感情を沈めようとした。
社長が―― 出ていったきり戻ってこないのである。
その間、取引先からの電話が2件入っていた。
幸い、どちらも急用ではなかったのでよかったが。
時計を見ると、もうすぐ2時。
出ていってから、かれこれ1時間半くらいということになる。
一体、何時に帰ってくるかも伝えずに―― しかも、受付に聞いたところによると、訪ねてきた「自称:妻(?)」の腕を掴むや、一度エレベーターで上に行ったっきり見ていないという。
次に、パーキングの守衛に聞くと、その「自称:妻(?)」を連れて、車で出ていったというのである。
一体、どこに。
いままで、あの社長に彼女や奥さんがいるという噂はなかった。
リエだって、いるなんて思ってもみなかった。
冷静に考えてみれば。
失礼な表現かもしれないが、あの暴君な男と、笑顔でつきあえる女がいるなんて思ってもみなかったのである。
普通なら、あまりのひどさに付き合うまで発展しなさそうだった。
リエでさえ、秘書という仕事上の立場だからこそ、我慢をしているのだ。
ここで、もし彼の短気に頭が来てやめたとするだろう。
そうしたら、あの社長は、『やっぱり女は』というような目で、自分を見そうな気がしたのである。
そう考えると、彼女はますますムキになって、仕事を辞めるなんて思わないようにするのだ。
こうなったらもう、向こうに『必要不可欠な有能な秘書だ』と思わせるしかなかった。
その瞬間を味わうために、リエは忍の一文字で働き続けているのである。
なのに、そんな秘書の心も知らずに、社長は女と出かけてしまったのだ。
無意識に、こめかみに交差点が浮いてしまう。
はっと気づいて、表情をただす。
随分、ストレスがたまっているように思えた。
フィットネスクラブなどで身体を動かしてストレスを発散しないと、ひずみから溶岩が流れ出してきそうだ。
頭を冷やす意味では、水泳がいいかもしれない。
くたくたになるまで泳いで、ベッドにバタンと倒れ込めば、いやなことも思い出さずに、ぐっすり眠れるだろう。
そんな近未来の想像で、何とか目の前のもやのようなストレスを払おうとしているところに、見慣れた姿が現れた。
副社長である。
手には書類だ。
また、彼に決済させるものを、増やそうというのである。
社長室に入ろうとする彼を、リエは呼び止めなければならなかった。
「社長は、ただいま席を外しておられます」
無意識に、イヤミっぽい口調になってしまう。
副社長はぴたりと足を止め、彼女の方を振り返った。
「まさか…開発室の方に?」
それが、一番最初に彼の頭をよぎったのか。
副社長の言葉は、しかし、妥当な線だった。
リエであっても、最初はそう思った。
今日だって、一番最初に社長の所在を訪ねたところだ。
しかし、そこには一度も顔を見せていないということだった。
「いいえ…違います」
分かるはずがない。
いくら頭脳明晰で、分析力の高い副社長であったとしても、これまでただの一度もありえなかった出来事を、言い当てられるはずがなかった。
たとえ、あの社長と同じ屋根の下で暮らしていたとし―― あら?
リエは、目を細めた。
そうなのだ。
社長と副社長は、同じ家で生活しているのである。
ということは、社長が結婚しているかどうかくらい、彼は知っているハズだ。
大体。
やはり、どうしても信じられなかった。
あの社長が結婚しているという事実を。
要素の一つとして、ハルコの存在があった。
彼女は、秘書の職を彼女に渡し、結婚退職したのである。
その後ハルコが、社長宅にハウスキーピングに入ったということは聞いた。
奥さんがいるのに、わざわざ家政婦を雇うだろうか。
ますます、あの「自称:妻(?)」について疑わしさが増すのである。
「社長は、女性の方が訪ねてこられて、出かけられたようです」
リエは、副社長の表情を伺いながら、ゆっくりとそう言った。
ここで彼が、少しでも驚くような素振りを見せるなら、結婚の話はウソだろう。
そう彼女は予測したのだ。
しかし。
思えば、副社長が驚いた顔など、彼女は見たことがなかった。
案の定、彼は別段表情変えることなく、しかも、こう言ったのである。
「そうですか」
そうですか―― こう言ったのだ。
「あの…社長が結婚されているというのは」
かえってリエの方が、その言葉に驚いてしまった。
自分の予測が外れて、本当は社長は既婚者だというのか。
一体、どこで女性を騙してきたのか。
はたまた、完全な政略結婚か何かなのか。
リエの頭の中で、いろんな可能性がめぐる。
「はい、結婚されていますが」
あっさり。
気抜けするほどあっさりと、副社長は答えた。
ほんのすこしの誤解も招かない、正しい言葉だった。
本当、だったのだ。
電話の女性は、「自称」ではなかった。「正真正銘」だったのだ。
「あ、ああ…そうだったんですか」
慌てて取り繕おうとした。
自分一人驚いているのが、バカのように思えたからである。
だから、平静であるかのように顔を作ろうとした。
あの社長が結婚している。
それだけのことだ。
別に自分の仕事には、何の差し支えもないハズである。
「社長は、何もお話になられないので気づきませんでしたわ…いつごろ結婚なさったんですか?」
副社長で有り難いことは。
彼は、聞いた彼女の気持ちなどに興味はなく、事実だけを的確に返答してくれることだ。
だから、リエが守るべきプライドや、仕事に対する感情などに踏み込んでくることはなかった。
だから。
表面上、平静さを作っておくことくらい可能だ。
そうリエは、思っていた。
それを保てると信じて疑っていなかった。
だが。
「昨日です」
副社長は、それだけを言った。
「は?」
リエは、何について言われたのか分からずに、そんな返答をした。
「昨日、社長は結婚されたようです」
もう一度、副社長は、わざわざ言い直してくれた。
はぁ?????
カクン
リエの顎が―― 外れた。
チン。
エレベーターが開く。
あのシルエットが、まっすぐに社長室に向かってくる。
「社長、お待ちしてました」
副社長は、手に持っていた書類を帰ってきたばかりの彼に手渡す。
顔を歪めて、不承不承という感じで、社長がそれを受け取る。
「その一番上の書類は、大至急ですのでよろしくお願いします。では」
副社長、去る。
社長、不機嫌な足取りで社長室に消える。
そんな、ト書きのような世界が展開している間中―― リエの顎は外れたままだった。




