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01/11 Tue.-7

 婚姻届の書類に、書き込みを終えたものの。


 カイトは、それを渡すことが出来なかった。


 いろんなことを、頭の中に渦巻かせてしまったのである。


 メイを信用していないワケではない。


 そうではないのだが。


 この、カイトにとっては非常に重大になってしまった書類が、本当に無事提出されるかが、心配だったのである。


 途中で、彼女に何か不慮の事故が起きてしまったら。


 もしくは、途中で彼女の気が変わってしまうようなことがあったら。


 どちらも、絶対にあってはいけないところではあるのだが、人生何が起きるか分からない。


 彼自身、一番よく知っていることだった。


 いきなりメイと出会って、恋のどん底まで突き落とされ、頭をかきむしるような幸せで辛い日々を味わい、人生最悪と最高をとんでもない落差で味わったのである。


 その衝撃は、ジェットコースターなんかじゃない。ナイアガラの滝だ。


 だから、未だに自分が生き延びていて、しかも、彼女と婚姻関係になれたことさえ信じられないのだ。


 婚姻関係については、彼の短気のせいで、現在未遂の状態だったのだが。


 その過去があったおかげで、すっかりカイトは心配性になってしまった。


 苦労して手に入れた彼女を、何かのはずみでも失いたくないのである。


 絶対確実。


 それが欲しいのだ。


 だから、差し出された手に書類を渡さなかった。


 代わりに―― その手を、掴んだ。


 ※


 今日は平日だ。


 だから、役所の普通の窓口が開いている。


 カイトは、メイを車から降ろすと、そのまま引っ張って自動ドアをくぐった。


 とにかく、目的に向かって突き進む。


 敵、右斜め45度、というところか。


 カウンターに、彼の手が触れる瞬間。


 誰か男が近づいてきた。


 顔は覚えていないが、あの黒い腕カバーは、記憶に残っている。


 昨日、婚姻届の処理をした男だろうか。


 かなり頭に血が上っていたために、はっきりとした記憶には刻まれていなかったのだ。


「あぁ…あなた方ですか」


 という声が、開口一番に出てくるところを見ると、やはり昨日の職員であることは間違いない。


 そういえば、こんなトロくさそうな、フニャフニャした顔だったような気がする。


 カイトの生活速度とは、生物学的に違うのかもしれない。


 それを言うなら、メイもそんなにパキパキした性格ではなかった。


 どちらかというと、この職員と同じ枠の中に入るのかもしれない。


 しかし。


 彼女は、いいのだ。


 とにかく、あのままでいいのである。


「いやぁ、昨日何度かお電話を差し上げたんですが、ご不在のようで心配していたんですよ。わざわざご足労、ありがとうございました」


 自分への印象など、気づいていないに違いない。


 にこにこと、笑顔で対応してくる。


 彼の笑顔に、受け答えをしているヒマはない。


 乱暴な手つきで書類を突き出した。


 紙が、勢いでばしゃっという音を立てる。


 昨日からのカイトの所行のせいで、その用紙はシワだらけになりつつあった。


 大事な用紙に、優しくしてやらないからだ。


 昨日は、このまま帰った。


 とにかく、用紙を渡してしまえば、それで結婚がOKだと思っていたのである。


 しかし、結果的には二度手間になってしまった。


 いくら頭に血が上っていたとはいえ、腹の立つ出来事だ。


 だから今日は、我慢してここで待ち続ける。


 今度こそ、受理される必要があった。


 これ以上、書き直しなんてごめんだったのだ。


 イライラしながら、職員のトロくさい指と目の動きを睨む。


 時々、一カ所で止まるような瞬間があれば、カイトの方がビクリとしてしまいそうだった。


「はい、結構です」


 最後までたどりついた後。


 職員の声と笑顔が、カイトを安堵させた。


 これで間違いなく、メイと結婚したのである。


 世界中に、それを認めさせたのと同じだった。


 ほっとしたのもつかの間。


「結婚、おめでとうございます」


 いきなり、温かい笑顔と声を向けられた。


 確かに、この職員はさっきまでも穏やかな感じではあったが、その色と温度が変わったようにさえ感じられたのである。


 そう。


 祝福というものだ。


 思えば。


 改めて、分かりやすい祝福を感じたのは、これが初めてだった。


 ソウマの家で何か言われたかもしれないが、あの二人の言うことなど、まともにカイトは聞いていなかった。


 とにかく、気に障ることばかりが起きるので、全身棘だらけの状態だったのである。


 シュウは、一瞬笑っただけだ。


 十分珍しい事態であったが、それ以外の反応はなかった。


 後は、まったくいつもと変わらず、である。


 こういう見ず知らずの人間に、一般論として結婚を祝福されるとは思ってもいなかったのだ。


 その波動に巻き込まれたのか、側にいた職員も「おめでとう」、と。


 周囲の、関係のない一般市民までもが、自分らを噂しているようにさえ思えた。


 背中がむずむずする。


 このままでは、『今ここに誕生した、うら若い夫婦への祝福の波動』というもので、腐らされてしまいそうだった。


 耐えられっか!


 カイトは、その落ち着かなさにめまいを覚えながら、しかし、メイの手をしっかりと握って、役所を逃げ出したのだ。


 後ろから、視線が追いかけてくるのを振り切るようにして。


 ひたすら、車を目指した。


 自分が運転席側に。


 メイが助手席側に乗り込んで、バタンとドアを閉める。


 はぁ。


 そんなため息を、同時に洩らした。


 彼女も、あの視線は落ち着かなかったのだろうか、と視線をそっちにやると、向こうもこっちを見ようとしていた。


 ばちっと視線が合う。


 二人―― 赤くなってしまった。


 な、何やってんだ。


 たかが、目が合っただけである。


 と、とにかく。


 カイトは、焦る頭を切り換えようとした。


 まだ、太陽は真上だ。


 メイは家に。


 そして、自分は会社に戻らなければならなかった。


「……送ってく」


 慌ててエンジンをかけながら、ぼそっとそう言った。


「あ、大丈夫…バスで帰れるから…カイトお仕事あるし」


 なのに、彼女はその申し出を断ろうとしたのである。


 その上、ドアを開けようとする素振りさえするのだ。


 あ。


 反射的に手が出ていた。


 そこに―― いて欲しかったのだ。


 確かに、まだ二人きりでいるということに慣れないことはたくさんある。


 居心地が悪いと言えば、そうだった。


 けれども。


 それでも。


 そこにいて欲しいのだ。


 帰るまでに彼女に何かあったら、などという言葉を理由にするよりも、何よりも、自分がそれを一番望んでいた。


 赤い顔で振り返るメイ。


「送る…」


 胸に。


 溢れるものはたくさんあるというのに、それしか言えなかった。


 だから、降りるな。


 そう願った。


 メイは、一瞬瞳の中を揺らめかせたように見えた。


 しかし、その後にゆっくり身体の向きを前に直したのである。


 彼の言葉を受け入れるように。


 ほっと。


 拒まれなくてよかったという安堵感が全身を包んだ。


 そして、ようやく手を離すことが出来た。


 車を走らせる。



 家まで―― もっと遠ければよかった。


 ※


 車は―― 家についてしまう。


 メイは、車を降りてしまう。


 しかし、彼女は運転席側へとぐるっと回ってきた。


 慌てて、カイトはウィンドウを下ろす。


「えっと…その」


 身体を屈めるようにして、中のカイトを覗き込む。


 何か、言葉を探しているようだった。


 彼女の性格からすると。


 きっと。


 お礼の、言葉。


 エンジンはかけたまま、カイトはその視線に吸い込まれていた。


「ありがとう…それと、今日はお仕事中にごめんなさい」


 ちょっと困った風に笑う。


 後半は余計だった。


 もしも彼女が遠慮して、あの書類を持ってこなかったら、仕事から帰ってきたカイトがどうなるか、自分で考えても容易に想像がつく。


『どうして、昼間に電話かけなかった!』


 とキレるに決まっているのでだ。


 この通りの言葉を言えたかどうかは別として。


 彼女の遠慮と、その書類に詰め込んだカイトの決意とエゴに、短気を爆発させたことだけは間違いない。


 それから、夕飯もそっちのけで、また役所へ直行である。


 当然、通常業務は終わっているから、また昨日お世話になった方に行かなければならなかっただろう。


 だから。


 メイの判断は正しかったのである。


 しかし、どうせならその前に、電話をすればよかったのだ。


 そうすれば、カイトは会社から戻ってきて、彼女を乗せ、再び役所に行って―― という行動を取れただろう。


 わざわざ寒い中、メイが一人であちこち行く必要はなかったのである。


 はっ!


 そこで、彼はあることに気づいた。


 カイトは、自分の胸ポケットのボールペンを取る。


 これはメイが、会議室で出したヤツではなかっただろうか。


 婚姻届けに、最後の記入をしたヤツだ。


 その記念すべきボールペンで。


「手ぇ…出せ」


 とっさに書くものを見つけられずに、メイにそう言った。


「え?」


 きょとん、と茶色の目が丸くなる。


「いいから、出せ」


 と言いながら、すでにカイトは窓から手を伸ばすと、彼女の右手を捕まえて引っ張った。


 その手のひらに。


 090-○○○○-××××


 その白い柔らかい手のひらに、一瞬とまどいはしたが、カイトは筆圧をかけすぎないように注意しながら、そう書き込んだ。


 ケイタイ番号だ。


 教えていなかったのだ。


 だから、あんな秘書室経由で、まどろっこしいことになったのである。


 このままでは、もし緊急事態になった時に、連絡を付けることが出来ないではないか。


 しかし、これだけではまだ不安だ。


 彼女から自分に電話はかけられても、自分からメイを捕まえることは出来ないのである。


 ずっと、家にい続けるワケではないのだから。


 ケイタイが、もう一つ必要だった。


 しかし。


 とりあえず今は、これで少しだけは安心できる。


 書き終わって手を離してやると、彼女はそれを顔の前に持っていって眺めていた。


「何かあったら…かけろ」


 いや、別に何もなくてもかけていいのである。


 それどころか、何かあってもらっては困るのだ。


 そんな複雑な心理のまま、カイトはその程度のことしか口に出すことは出来なかった。


 メイが。


 嬉しそうな笑顔になった。


 たかがケイタイ番号で、そんなに幸せそうになれるのなら、あと何回でも教えてやりたいくらいだった。


 しかし、同じ番号を2回教えたとしても、もうその魔法はきかないだろうが。


「出来るだけ、かけないようにするから…」


 嬉しそうに、でも、メイはそんなことを言う。



 違う!



 そうじゃねぇ!



 かけて、いいのだ。


 そのために、教えているのである。


「あ、そうだ…」


 カイトの荒れ狂う気持ちになど、気づいてないに違いない。


 彼女が、いま思いついたとばかりに、そう言い出した。


「今日は、お仕事何時くらいに終わります?」


 随分、忙しいみたいですよね。


 メイは、少し心配そうな口調になった。


 先週、彼が土曜日も仕事に行っていたのを知っているだろう。


 家政婦として、しばらく通っていたのだから。


 きっと仕事が忙しいと思っているのだ。


 いや、忙しくないワケではない。


 社長室には書類が山になっているし、開発の方だって次第に納期が迫ってくるのだ。


 しかし、しかし、しかし、しかし、しかし!


「……残業は…ねぇ」


 そう、答えた。


 まだ。


 メイが、自分の身体になじんでいない。


 まるで、山川から汲みたてたばかりの水のようだった。


 生まれたての固い水。


 何度も何度もぶつかって、自分に馴染ませて、柔らかく触れあっているように感じるまで、カイトは彼女の存在には慣れないだろう。


 そこまで、とは言わないが―― もうしばらくは、出来るだけ側にいたかった。


 彼女が本当にそこにいる、という事実から噛みしめることに、いまはまだ精一杯なのだから。


「そうですか?」


 ぱっと、明るく笑顔が輝いた。


 本当に嬉しそうに。


 だから、軽く頭を上下に動かした。


「それじゃあ、帰ってきたらすぐ、ご飯に出来るようにしておきますね」


 にこにこにこにこ。


 カイトが定時で帰ってくるのが、そんなにまで嬉しいのだろうか。


 そう考えると、彼の方もたまらなくなる。


 メイも、自分と出来る限り一緒にいたい。


 そう思っているような気がして。


「じゃあ…気をつけて、お仕事がんばってくださいね」


 もう一度、頭をかがめるようにして、車の中を覗き込んでくる。


 そんなお別れのセリフを言って、カイトを会社に戻そうと言うのだ。


 いや、確かに彼は戻らなければならないのだが。


 手を伸ばして。


 その頬に軽く、触れた。


 せっかく、彼女とこんな時間に出会うことが出来たというのに、きちんと触れた、という気には全然なっていなかったのだ。


 手を掴んで引っ張り回したり、降りるというのを引き止めたり、電話番号を書き込んだりと、そのくらいだった。


 頬に触れると、彼女がカチンと緊張したのが分かる。


 やはり、まだ固い水のままなのだ。


 こうやって自分に触れられることに、まったく慣れていない状態。


 カイトもそうだった。


 彼女への触れ方を、まだ全然分かっていないのである。


「あの…っ」


 緊張した唇。


 赤くなった頬。


 どれもこれもが、ぎこちない反応を返す。



 おかげで―― ひどく、ぎこちないキスになった。

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