霧海の山
暗い雲から、大粒の雨がざあざあと休むことなく降り続けている。
村に民家はあるものの、人の気配はほとんどなく、活気など一切ない。太陽を覆い隠す分厚い雲が、雨音以外が聞こえないこの村の静けさをより一層引き立てていた。
「……ふむ、ここが水神山の麓の村か。予想よりも随分と雨が降っておるな。薬も行き過ぎると毒になると言う。これでは作物もダメになっておるじゃろう。」
「……だろうな。確かここの人間は全て各々家族で耕す畑を持っていて、代々受け継いでいたはずだったが」
ヤンロンが天珠から借り受けた無地の赤い番傘をさし、村をぼんやりと見ながら言う。それを見た天珠は花柄があしらわれた紫の番傘をクルクルと回しながらヤンロンに問うた。
「お主、何故この村に詳しいのじゃ? 昔自分が焼き消した山の近くにあったとはいえ、そこまでの興味はなかったじゃろう」
「……昔、ここに見守っていた子どもがいたんだ。流行病で死んでしまったがな」
自嘲気味に言ったヤンロンはそのまま押し黙る。天珠はヤンロンの表情をちらりと見やり、すぐに視線を村へ戻した。
「……では、詳しくは聞くまい。死した者を思い出すのは、辛いものじゃ」
そう言った天珠の目にはハッキリと哀しみが浮かぶが、瞬きと共にそれは消え去る。
「いかんのう。この天気と歳のせいか、すぐに感傷に浸ってしまうわい」
「そうだな。……とりあえずは山の下見だ」
「五百年を経ても地形があまり変わっていなければよいな」
「ああ」
二人はそう軽く会話をして同時に歩き出し、そのまま山へ向かった。
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山に入ると、まず人が一人通れるくらいのけもの道が目に入る。
「けもの道か……。この道に沿っていけば、水龍池が現れる場所に辿り着けるのかえ?」
「いや、こっちだ」
ヤンロンが指をさしたのは正面ではなく、二人の右手の方だった。天珠がそちらに目を向ければ、道らしい道はなく正面の比ではない、霧が深い世界が広がっていた。
「あれでは、獣も避けてゆく訳じゃ……」
「ああ。人間もあっちに入ると間違いなく迷って帰れなくなるから、死にたい奴くらいしか行かないだろう」
「それに加えてこの雨か……嫌じゃのう……」
視界が不利どころではないと察した天珠は、げんなりとした顔をして、肩を大袈裟に落とし、ヤンロンに付いて歩き出す。
「俺の龍の目を舐めるな」
「分かっておる。じゃが、やる気は無くなるというものよ……」
ヤンロンの強気な言葉に、天珠はあからさまにため息をつく。ヤンロンはその天珠の態度に眉を寄せて言った。
「ふん。だったらババアは、紅月の国に帰って自分の家の縁側で茶でも啜って隠居していればいいだろう」
「それも良いかもしれぬ。それに小童。お主、妾がいなくなれば、大っ嫌いな清明の宮にて、あやつの頼みをタオらの為に一人でこなしていく事になるのじゃ、良かったのう?」
「……!!」
こういう時、やはり勝つのは天珠である。
ヤンロンは悔しそうな顔をしながら話を変えた。
「……それはいいとして、天珠。あんたはここ、どのくらい見えているんだ?」
「うーむ……。我らが歩いているこの泥道と、道の左右両側に若い娘の死体がいくつか転がっておるのが分かるくらいかのう」
「前は?」
「ほぼお主の背中くらいしか見えておらん」
「分かった」
天珠は正直に答える。
これはヤンロンが、どれほど天珠は見えていて、龍の目を持つ己がどれほど見なければいけないのか、どれほど天珠の近くに居なければいけないのかを確かめるためだ。
「……それにしても、神の怒りを鎮めるために何人の村の娘を生贄として殺したんだ、ここ数十年の村の長は。歩きにくい上に臭うだろう」
「さてな。じゃが、未だ神に生娘を捧げれば許されると思っておる事の方が問題じゃ。神は人の命ではなく人の信仰心を必要としておる筈なのじゃがのう」
「……? 天珠は何故知っているんだ? あんたは神格なんて持っていないだろう」
ヤンロンは心底疑問に思っている顔で天珠を振り返る。
「調べた訳でも、教えられた訳でもないのじゃ。昔、妾が数十の神を一度に相手をしたのは知っておるじゃろう?」
ヤンロンは頷き、それを確認した天珠は話を続けた。
「その時にのう、人間によく知られ、よく信仰されておった神ほど強く、傷の回復も速かった。特にアマテラスなぞ、妾では近づき一撃を食らわすことすら叶わなんだ」
「紅月の国の者で彼女を知らない人間はいないからな」
「そうじゃ。妖でもアマテラスの事を知らぬのは、神々が人の形をとった頃より古くから存在しておる奴くらいじゃろう。そもそもそこまでの古妖自体が、存在しておるかどうか……」
そう言って肩を竦め、天珠はハッとして話を戻した。
「まぁた話が逸れたのう。やはり歳か……? そういう訳で、神には人の命より、人の信仰心の方が必要だと推測しておっただけじゃ」
「なるほどな」
天珠の言葉に、顔を戻して前を見て歩きながら、ヤンロンが納得したように頷く。
そうしてまたしばらく他愛ない話を交わしながら奥へと進んで行くと、ふとヤンロンが足を止めた。
「……道が変わっている……」
「なに?」
「道が変わっているんだ。この霧にも幻術がかかっているかもしれない」
「五百年の時を経て地形が変化した訳ではないのかえ?」
「ああ。地形は変化していない。ああいや、土砂崩れなんかはあったようだがそれだけだ。俺の目と耳が、それは確認している。しかし、道が変えられているんだ」
地形を変えずに道を変える。それは出来そうで出来ないのだ。
道を一本増やすにも、道を一本広くするにも地形は変える必要がある。
特にここのように霧海が広がる山など、人の手が入らずに自然と育った巨木が、そこらじゅうにある。道らしい道がなくとも、広げようとすれば必ずその木が根を張っていた地面は削れてしまうし、道を増やすことも出来ず、霧が深いのだから、余計な場所まで変えてしまうかもしれない。
「……霧も水か。アイツ、出て来れない癖に面倒な術かけやがって……」
ヤンロンが苛立たしげに舌打ちをし、水龍に毒づく。
「幻術のう……。ならば、知っている道をそのまま進め。邪魔な壁など、殴れば崩れよう。幻術なら、霧散するじゃろうて」
「確かにな」
ヤンロンがニヤリと笑い、握った拳を目の前にある岩に打ち込む。
大きな音がするかと思えば、目の前の大きな岩は無音で崩れ、そのまま霧散した。
「……こんなに分かりやすくていいのか?」
「現実味のない術じゃのう……。妾の作る幻の方が出来が良い……」
そこまで言って、天珠がハッとする。霧散した筈の幻術で作られた岩の欠片は、生き物の様に動き出し、それらは集まって人の形へと姿を変える。
「……!!」
「……な、……!?」
白龍の子供である、梅とタオの姿だった。
恐らく、白龍の宮にて、ヤンロンを襲った水龍の分身のような物だ。
「あのように幼い者らに化け、我らを通さぬつもりか」
「また勝手に俺の記憶を読みやがって……。力が暴走しているだけじゃなく、性格まで変わってないか? あの水野郎」
「そうじゃのう、シュイロンは何度も無断で他人の記憶を読み取ったりするような礼儀知らずではなかった筈じゃ……」
天珠が呟けば、ヤンロンは訝しげな顔を彼女に向ける。
「妙にアイツに詳しいな、あんた」
「シュイロンはたまに妾の屋敷まで来て、酒を飲む程度じゃが」
「アイツが自らあんたの家に?」
「ああ。妾が持つ酒は美味いのだそうじゃ」
二人が会話をしている間も、姉弟に化けているそれは微動だにせず、現れた位置から動かない。ただ単に道を塞いでいるだけだ。
「通り過ぎてみるか?」
「待て。見るに、奴らそこまで知能は高くない。妾が術で試してやろう。」
天珠は着物の懐から人に似た形をした紙を二枚取り出す。そして息を吹きかけ、浮かすように手から離した。
「往け」
そう一言天珠が告げれば、紙だったものが、天珠とヤンロンの姿に変わる。
偽物の天珠とヤンロンは、やはり姉弟を模したままの水龍の分身体の方へ歩いて行った。
水龍の分身体の横を偽の天珠とヤンロンが通ろうとした時、二つの偽物は腹を手刀で刺され、弾け飛び、跡には紙切れだけが残る。
「……やはり面倒な術だ」
地面に降る雨音が、さらに強く、ひどくなっていく。
止まぬ雨の中、二つの天災は、梅とタオに化けたままの水龍の分身を睨みつけた。




