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8.竜と幼き日の思い出

 

 大広間は一瞬、水を打ったように静かになった。

 沈黙の中に、小さな小さな笑い声が響く。不思議なほど、その声は人々の心に届いた。


〈愚かな王太子。お前に可愛いフロルはもったいない〉


 まるで、耳ではなく直接頭の中に響くようで、誰も言葉を発することができなかった。


〈この子がお前を大事に思っているから、側に置いてやっていたのに。彼の心を試すような真似をするなど、無能の極みだ〉


 ゆらりと大広間の空間が揺れ、膨大な魔力が辺りに渦を巻いた。それは人の力の及ぶ範囲ではない。フロルの双子の兄たちも魔術師の長も、即座に自分の杖を構えた。


 誰もが動けずにいるところに、一人の男が部屋の端から中央へと歩いてくる。人々は彼を通すように自然に左右に分かれた。貴族でも騎士でもない、服装からはせいぜい一貴族の従者だろうと思われる姿が、ゆったりと広間の中央を進む。


「……カイ?」


 見慣れた従者の姿にフロルが目を見開いていると、目の前に来たカイがにっこり笑った。そして、人懐こい笑みが見る間に薄れ、人の輪郭がゆらゆらと崩れていく。フロルが呆然としているうちに、一人の男の姿が人ならぬ者へと変化した。それは驚くほど僅かな時間だった。金色の光が輝き、目の前には、大広間の天井に頭がつくかと思うような優美な竜が現れた。


〈くだらない人間の世界など、もういいだろう。我らは駆け引きなんかせずに、自分の気持ちをはっきり言う。フロル、自分の幸せを一番に考えればいい。私と一緒に行こう〉


(──自分の幸せ? そんなこと、これまで考えたことがなかった。だって、僕が考えなきゃいけないのはレオンのことで……。それは、皆の為でもあって)


 呆然として見上げるばかりだったが、竜の穏やかな瞳の色はフロルの心を溶かした。琥珀色の柔らかな瞳を見ていたら、ずっと何も感じなかった心が温もりを思い出す。恐る恐る手を伸ばせば、竜は頭を下げてフロルの手に鼻先をつけた。


「本当にカイ? それに、一緒に行くって……」


 目を細めた竜の鼻先を撫でて、フロルは小さく呟く。すると、カイはフロルの体を前爪でひっかけて、自分の背に軽々と放り投げた。魔力を使った風がふわりと吹いて、フロルは竜の翼の間に降りた。


「フロル! 行くな!」

「戻っておいで、フロル!」


 ルカスとレクスが必死にフロルの名を呼んだ。幼い頃から争うように自分の手を取って、可愛がってくれた兄たちだ。凜とした魔術師の顔を投げ捨てて叫ぶ二人に、申し訳ない思いが湧く。それでも、フロルは竜の背から降りる気持ちにはなれなかった。


(自分で決めても、いいのだろうか)


 双子の兄たちから視線をずらせば、玉座の前にはレオンがいた。驚愕に見開かれた瞳がフロルを見る。同じように、呆然としたまま動けない弟王子や国王、父の公爵や長兄の姿も見えた。


(……誰のことも、考えなくてもいいのだろうか)


 フロルを背に乗せた竜は、天井を見て大きく息を吐く。それは竜巻となって、大広間の屋根をぶち抜いた。悲鳴と怒号が響き渡る中、翼をひらめかせて竜は大空に舞い上がる。


 魔術師たちが竜を止めようとしても、誰も指一本動かすことができなかった。それは無理もないことといえるだろう。竜こそが太古の昔に、人に魔法を授けた存在なのだから。人と竜の持つ魔法では比べることもできないほどに大きな差があった。


 見事な体躯の竜は背に美しいオメガを乗せて、悠々と空を飛ぶ。フロルが竜の体から恐る恐る顔を上げると、巨大な王宮がどんどん小さくなる。家も畑も遥か下になり、緑の大きな連なりになっていく。フロルは振り落とされないようにしっかりと掴まったまま尋ねた。


「ねえ、カイ。これから、どこに行くの?」


〈私の城へ〉


 柔らかな声が、まるで春の陽射しのようにフロルの心に響く。

 カイの目指す先には、真っ青な空と、遥か遠くにそびえたつ神域の山々があった。


 フロルは竜の背に乗りながら、見る間に流れていく風景に息を呑んだ。そして、これが自分が選んだことだと思うと、信じられない気持ちでいっぱいになった。


 これまでの人生で自ら選んだことは、どれだけあったのだろうか。物心ついた時には、自分の道は既に決まっていた。家族も周囲も皆、愛情を持って接してくれたけれど、誰もフロルの意思を尋ねた者はいなかった。


 ――フロル、自分の幸せを一番に考えればいい。


(僕の幸せって、何だろう……)


 竜の言葉を頭の中で繰り返した時だった。


〈フロル、あれが私の城だ〉


 空にそびえたつような山々の間、切り立った岩肌に張り付くように城が建っていた。フロルを背に乗せて、竜が大きく張り出した岩のバルコニーに降り立った時、城の中からたくさんの人々が飛び出してきた。


「カイ様!」

「ご主人様!」


 長らく留守にしていた主人が客人を連れ帰ったと、上から下への大騒ぎだ。自分と同じような人間たちが働いていることにフロルは驚いた。


〈客人を部屋へ〉


 主人の言葉を聞いて、使用人たちがフロルを客室へと案内する。まるで王族が住むような豪華な部屋に、フロルは息を呑んだ。部屋の中は潤沢な魔石が使われて明るく、床には何枚も上質な毛織物が敷き詰められていた。

 フロルが長椅子に座っていると、部屋の扉が開いた。入って来たのは人間の姿になったカイだ。フロルと目が合うと、まるで悪戯が成功した子どものように楽し気に笑う。


「……カイって、本当は竜だったの?」

「そう。でも竜の一族の中では、まだ子どもみたいなものだけど。フロルたちのような人間よりは、ずっと長く生きてるよ」

「……だからあんなに、宝石が好きだったのか」


 竜はきらきらと輝くものが好きで宝飾品を好むと言われていた。どんなにフロルが急いでいる時も、カイはフロルを着飾ることをやめなかった。


「ふふ、どんな宝石よりもフロルの方が綺麗だけどね」


 くつろぐカイは、シセラ王国にいた時よりもずっと気安い。これがカイの本来の姿なのだろうかと、フロルは瞳を瞬いた。城の中では、使用人を驚かさないようにずっと人の姿をとっていると言う。


 カイがどうやってクラウスヴェイク公爵家に入り込んだのか、フロルは知らない。気がついた時には自分の侍従になっていた。今までとは違って砕けた口調で一緒にいるのが不思議だが、これもいいなと思えた。

 温かなカイの瞳を見ているうちに、フロルは体の緊張がほぐれていくのを感じた。


「カイ、どうしよう。僕、シセラから逃げ出してきちゃった」

「あんなところにいても、いいことはないよ。フロル、ずっとこの城にいたら」


 カイが屈託のない笑顔で言う。琥珀色の瞳が輝いて、フロルに顔を近づけた。


「フロルはずっと、王太子や周りのことばかり考えて来ただろう? もう、自分のことを考えたらいいと思うんだ」

「自分の……」


 自分のこと、と言われてフロルはうろたえた。カイが、にっと人好きのする笑みを浮かべる。


「あの時、私に言われて選んだじゃないか。王宮に残るか、共に行くかを。フロルはちゃんと、自分で選ぶことができるさ」


(ああ、そうだ。僕はあの時、確かに自分で選んだんだ。……もうここに居たくない。だから、カイと一緒に行こうと)


「カイはどうして、王宮から僕を連れ出してくれたの?」


 ふふ、とカイは微笑んで、優しくフロルを見つめた。


「昔、フロルが見世物小屋にいた私を助けてくれただろう? 王都で大きな祭りがあった時だ。まだ幼かったから、あの時の事を覚えているかな。私はずっと忘れられなくて、いつか恩を返したかった」

「見世物小屋?」


 フロルは、あっと思った。カイの琥珀色の瞳に遠い日の記憶が甦る。

 幼い頃、王都の祝祭で城下に見世物小屋が立ったことがある。侍女たちが話すのを聞いて、レオンと二人でこっそり覗きに行ったのだ。その時、小屋の裏手にあった檻の片隅でぐったりと横たわっていた竜を見た。弱っていた竜を、子どもたちは持っていた金を全てはたいて買った。


「あの時の竜!」


 フロルはさらに思い出した。最初に「檻の中に竜がいる」と言ったのはレオンだ。大人二人分の背ほどもある竜は弱っている。このままでは死んでしまうと言われ、何とか助けたいと思った。

 レオンにこの竜を助けたいと言えば、すぐに頷いた。竜を買いたいと持っていた銀貨を出すと、見世物小屋の男たちは渋りもせずに売ってくれた。もう長くはもたないことがわかっていたからだろう。


 木陰に座ってフロルが竜の頭を抱き抱え、レオンが魔力を注いだ。二人の子どもが長い時間をかけて竜にありったけの魔力を注ぐと、やがて竜は回復して羽を動かせるようになった。子どもたちが見守る中、竜は夕暮れの光の中を、なんとか空を飛んだのだ。


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