友との再会
瑞花は、王妃の座は降りるが、犬神の宮へと帰るという事を、高瑞と天媛に報告した。
高瑞は、王妃を降りるのなら養子は解消になると言い渡し、瑞花は分かっていた事だったので、それを受け入れた。
なので、養子となった時に与えられた名である瑞花という名は返すことになり、瑞花はまた、松という名に戻ることになった。
ここからは、また新たに松という名に戻り、犬神の宮の軍神として漸に仕えることになった。
それを、漸が許したからだ。
普通に考えたら、気まずい事になるのではと思うものだが、あちらの宮ではそんな事はしょっちゅうで、問題ないのだと共に帰る柊は言う。
なので、天媛もそれを知っていながらも案じて、目に涙を浮かべて松に戻ったかつての娘を見送った。
慧は、何も知らずに乳母の一人に抱かれて眠っている。
この子は、なぜか松が抱くと泣き出すので、いつも乳母が抱くことになった。
どうやら、犬神の方が落ち着くらしかった。
苦労して産んだ子が、自分になつかないのは複雑だったが、犬神の宮ではそもそも、軍神をやっている女は皆、あまり子供に執着はないように見えた。
自分についてくれていた、侍女の菊も夏奈も元は軍神であったと言っていたし、子を育てながら軍神はつらいので、侍女に変えてもらえて幸運だった、と言っていた。
そういう理由から、軍神を続けている女神では、子育てはできないのかもしれない、と松は思った。
「あなた達には世話になります。」松は言った。「我はもう、軍神でしかありませぬので、こんなことを申す権利もないのやも知れませぬが、慧をどうぞよろしくお願いしますね。」
乳母の初美は言った。
「お任せを。瑞…いえ松殿には、王のお相手を下りられても序列16位の軍神であられるのですから。我らに命じてくださって良いのですよ。慧様が百におなりになるまでは、母としての権利は残りますので。」
松は、頷いた。
「ようよう励んでこの子を養って参りますわ。この子には王がついておるので、我がそこまで励まぬでも良いのでしょうが。」
この子のために、何か残してやりたい。
松は、思ってそう言った。
この子は王の子で松が居なくても生きて行けるのだろうが、それでも母が松であることを、誇りに思ってもらえるように、励みたいのだ。
初美は、微笑んだ。
「軍神の方でそこまで子に思い入れがある女神は珍しいこと。我らも励みまする。」
そうして、輿は犬神の宮へと到着したのだった。
松の居室は、軍宿舎に序列相応の物が準備されてあった。
皇子を軍宿舎で育てるわけにはいかないので、慧は乳母や侍女、軍神達に守られて奥宮へと連れて行かれた。
なので、松が子育てに関わるためには、奥宮へと赴いて、王の許可を得てから入る必要があった。
つまり、かなり面倒なのだ。
他の軍神達は、宮の外に与えられている屋敷に己で誰か雇ってそこで昼間は世話を任せ、夜は自分が面倒を見るという形で育てているようだった。
なので、乳母という職業は王族に限らず、多く居た。
その、己で雇う乳母には宮からの援助も半分出るので、基本的に片親が多い犬神の宮は、それで回っていた。
松の場合、皇子なのでそれがないだけだった。
…それは、皇子達は母親が育てないはずだわ。
松は、思った。
皇子達は、王の側で育つので、わざわざ奥宮まで世話に通わねばならないからだ。
しかも、入る度に許可が要る。
訓練や任務で疲れきった軍神が、わざわざ奥宮まで行って子の世話をして、またそこから出て宿舎へ戻って休むなど、かなりきついのでやらない女神は多いだろう。
世話をする者が居ないならこの限りではないが、乳母も侍女もついているのだ。
億劫になって、自然足も遠退くのだろう。
宮で務めている侍女達ならば、合間に見に行けるので少しは頻繁に行けるだろうが、軍神にはきついだろうと松は思った。
できるところまでやるしかない。
松は、思って宿舎の部屋に落ち着いた。
そこへ、訪ねて来る者が居た。
「…瑞…いや、松殿か。帰ったのか?」
松は、顔を上げて驚いた。
そこには、多香子が立っていたのだ。
珍しく甲冑を着ていないところを見ると、非番らしかった。
「多香子!」松は、急いで駆け寄った。「来てくれたのですね。我のことは、松と。養子縁組みしてくれていた、養父から解消されたので名も元に戻ったのです。」
多香子は、中へと足を踏み入れて扉を閉じた。
「では松。難産だったようだの。里へ帰ったと聞いた時には、王との関係を解消したなら、戻って参るのかと思うだが、よう戻ったものよ。」
松は、多香子に椅子をすすめながら頷いた。
「我の仲間はこちらに居るのだし。あちらでは、女の軍神は居らぬので、侍女としてまた、どこぞで仕える事になるところでした。どちらにしろ、あちらでは、婚姻という取り決めがあって、それを解消せねばなりませんでした。こちらとあちらは違うので。時がかかってしもうて。」
多香子は、椅子に座って頷いた。
「我相手にいつまでも堅苦しいの。そんなに丁寧に話さずで良いわ。我もこうしてもう、遠慮なくしておる。王妃などと、一人の男に縛られる地位など面倒なだけよ。よう解消したものよ。王は、あまり勧められる相手ではなかったしの。」
松は、え、と多香子を見た。
「それは、どういうこと?」
多香子は、苦笑した。
「関係を解消したなら分かろうが。王は何にも優秀な方ではあるが、相手としてはのう。いろいろ適当なところがおありだし、何よりあまり、情がない。貴理子もゆえに、柊を生んでさっさと別れたのだ。というか、腹に子が居るうちから別れた。欲望の捌け口でしかないと、虚しゅうなったと言うてな。今は他に相手が居るがな。」
貴理子?
そういえば、軍にその名の女神が居た。
それが、前の漸の相手だったのだ。
「まあ…そうだったの。我は知らぬで。」
多香子は、頷いた。
「いちいち言わぬしな。貴理子にしても、王が三人目の相手であったし。我らだって、落ち着いて愛せる相手が居ったらと探してあちこちしておるのよ。だが、なかなかにの。こちらは共にと思うても、相手があっさり離れて行くこともある。ゆえ、なかなか定まらぬだけで。だが、貴理子は今の相手とは、もう百年は共に居る。主も王が二人目であったらしいし、これからいくらでも探せるわ。気を落とすでないぞ。」
多香子は、それが言いたかったのだろう。
松は、こんな風だが優しい多香子に、心が暖かくなる想いだった。
「…ええ。我は、別にもう何も。むしろ、こちらへ連れて来てくださった事に感謝しておるわ。我には、帰る里もないし、どこまで流されて参るのかと思うておったけれど…今は、ここで地に足を付けて頑張りたいと思うておるの。」と、立ち上がった。「それより、茶はどうかしら?月の宮の蒼様から、餞別にと龍の宮の高級茶葉を戴いたのよ。上位の宮の王族しか口にできない大層な物なのよ?」
多香子は、お、と身を起こした。
「誠か。我はこれで酒より茶にうるさいのだ。見た目がこれであるから、皆酒ばかりを勧めるのだがの。」
確かに多香子は酒豪に見える。
華々しく美しく強いその様は、皆の憧れだった。
「フフ。では淹れて差し上げるわ。共に楽しみましょう。」
茶の淹れ方は、母の初にも月の宮でも散々教わったので、完璧だ。
早速松は、荷物の中から茶葉の包みを引っ張り出して、丁寧に茶を淹れ始めた。
多香子は、鼻腔を膨らませてその香りを楽しんだ。
「…なんと良い香りよ。」
松は、微笑みながら茶碗へとそれを注いだ。
「誠に。龍の宮の物は何でも当代一と言われていて。茶もそうなの。」と、茶碗を多香子に渡した。「さあ、試してみて。」
多香子は、茶碗を覗き込んだ。
「…金色に見える。」と、ソッと一口茶を口に含んだ。そして、ゆっくりと飲み下してから、言った。「…誠になんと豊潤な。甘いだけではなく、なんであろうか、この香りは。一口でいつまでも楽しめそうよ。」
松は、笑った。
「そうでしょう?大切に飲みましょう。もう、なかなかに手に入らぬでしょうから。」
二人は、そうやって茶を楽しみながら、友として何でもない話に花を咲かせた。
やはりここに戻って来て良かった、と松は心底思っていたのだった。




