妻からの文
亜寿美は、関がどうして絶縁されたのか、その理由も知っていた。
それでも、関を責める事はなく、ひたすらにこちらでの生活を案じている内容だった。
てっきり里へ帰されたと思っていた亜寿美は、まだ幼い皇子の母であるからなのか、宮に残されているらしかった。
幼いと言ってももう百歳なので、乳母だけでも充分な大きさだったが、父は追い出す事はしなかったようだ。
亜寿美は、自分さえしっかりしていれば、きっと美穂が戻った後、こちらへ関を返してくれるはずだと言っていた。
なので、親が子に教わるような事から美穂に教わって、段々に良くなっていると臣下にも褒められると書いていた。
…主ができても、我のこの心根ではな。
関は、ため息をついた。
亜寿美には悪いが、自分はここでの生活が、思ってもいないほど楽しく感じているのだ。
最初はどうなるかと思ったが、文官達は関がいろいろやるのを見て、便利に使えるとすぐに好意的に接してくれた。
今では、筆頭の帥斗が常に側に呼ぶので、皆が自分を敬ってくれるような雰囲気になって来た。
関も、やればやるほど評価されて喜ばれる、わからない事は仲間内で話し合って協力し合える今の生活が、楽しくなって来ていたのだ。
何しろ、王は孤独だ。
全てを丸投げされて、処理を任され誰かに頼る事もできない。
臣下に甘く見られるからだ。
皇子に戻れば戻ったで、常に渡と比べられて、到らないところを見つけてはこれ見よがしにため息をつかれる。
ハッキリ言って、もう嫌だった。
夢のように美しい美穂を見た時には、王族であるならそれぐらいのメリットがあっても良いではないかと思った。
臣下の方が、より気楽なくせにと、腹を立てていたので、意固地になっていたのだ。
品行方正になど、やってられないと半ば、投げ槍な気持ちでいたのだ。
今思えば、愚かだったと思う。
臣に下った今、誰より穏やかに、その立場を受け入れられて、関自身はそれに驚いてもいた。
元々、王族には向かない生まれだったのだ。
関は、そんな己に苦笑して、そうして、亜寿美に文を書いた。
礼儀を覚えて来たのなら、父王の元に戻って一からやるのもまた、亜寿美のためになる、と。
何しろ、仁弥は今回の立ち合いで、二番目の王達を下してかなりの高い位置につけた。
正月の最上位の王達の様子を見ても、恐らく序列は上がるだろう。
ならば、新しい嫁ぎ先も、見つかるかもしれないのだ。
関は、悟ったような心地になって、そう、返事を返したのだった。
亜寿美は、実家経由で時を掛けて届いた関の返事に、愕然とした。
…関様は、もう戻るつもりはないと仰るの。
亜寿美は、ひらりとその文を床に落とした。
関は、里へ帰れと言う。
新しい生を生きている自分のことは忘れて、次の生を探せと。
亜寿美は、座っていた椅子の前の、テーブルへと崩れた。
「まあ、亜寿美様?!」侍女が、驚いたように亜寿美に駆け寄った。「誰かある!亜寿美様の具合が…!」
回りは大騒ぎになったが、亜寿美はそんなことに構っていられなかった。
「まあ、亜寿美様?!大丈夫ですか、しっかりなさってくださいませ!」
美穂の声がする。
…指南に来てくださったのね。でも、我はもう…。
亜寿美は、そう思いながら、そのまま気を失ったのだった。
渡が、険しい顔で言った。
「…ならば、亜寿美の乳母から仁弥の宮に渡って、仁弥の軍神が獅子の侍女に渡した文が関に届いて、また逆のルートで亜寿美に返事が来たのだの。」
美穂は、頷いた。
「はい…。側に、その御文が落ちておりまして、侍女達を問い詰めたら、乳母がそのように。」
渡は、その文にちらりと視線を落とした。
関は、改心したのだろう。
だが、こちらが思っていたのとは別の方向に改心している。
臣下として仕えることが、向いていると判断して、終生駿に仕えると思っているようだった。
亜寿美には、皇子は父が面倒を見てくれるから、里へ帰れと書いてある。
何かを悟っているように、もう新しい生を生きている覚悟がそこからは感じられた。
「…長くとは思うておらなんだ。あやつがあちらで改心したらと。だが、あやつはそこに居場所を見つけた。王座よりも、己にとり向いていると思われる臣下としての道をな。困ったの…確かにあやつは、臣下としてならかなり優秀なはずぞ。駿の臣下が重用して喜ぶのも道理よ。関がその地位に満足しているなら、確かにこれよりはないのだろうが…。」
また、跡目がなんとか大騒ぎになる。
渡は、額を押さえた。
関が残した皇子は、確かに居る。
だが、気は薄まって渡とは比べ物にならないし、維心や炎嘉が勧める最上位の座にはさらに程遠くなるだろう。
絶対に、また誰か娶れとうるさくなるはずだった。
「…ですが、関様のご様子は、誠にあちらでの臣の座を楽しんでいらっしゃるようですわ。この内容を見ても、またこちらに戻してとは…やっと、自由におなりになったような書き方でいらっしゃるし。」
そうなのだ。
関は、本心から臣下の地位に満足しているのだ。
全てを捨てた結果、楽になって今の生活が性に合っていたのだろう。
「…確かに、あやつが誠に臣下の地位を楽しみ、そこでやり直したいと申すなら、駿に頼んでも良いが…何しろ、駿は会合で会うと楽になったと喜んでおったし、最初は嫌そうだった騮ですら、関が居て安心しているのだとか。軍務に邁進できるからの。ゆえ、否とは言うまいが、それでは亜寿美がの。」
確かに、亜寿美は自分が頑張る事で関を宮に返すのだと一生懸命だった。
その心の支えがなくなった今、これからも励めるかといえば無理だろう。
何しろ、倒れて奥で起き上がれなくなっているのだ。
「…亜寿美様には、大変に酷なことかと…。ですが、関様はもう、お戻りにはならないだろうし…。」
我が、ここへ来なければこんなことには。
美穂は、心が痛んだ。
我がここへ来て、関様の目に触れたりせねばこんなことにはならなんだのではないか。
美穂が、暗い顔をして下を向いたので、渡はハッとして美穂を見た。
「美穂。主が悪いのではない。王達が勝手に決めて主はそれに従っただけぞ。それに、関は今の状況でむしろ幸福にしておる。ただ、亜寿美のことだけなのだ。別にあれは皇子の母であるから、こちらに残っても良いが…もう帰らぬ関を待ってここに居ても、良い事はあるまい。まだ、三百と少しの歳なのだしな。帰る方が良いのだが…無理に関を戻したところでのう。あやつは恐らく、自暴自棄になろうし。かと言って、あれを戻さねば、また我が…。」
美穂は、自分が落ち込んでいたのも忘れて、渡を見上げた。
渡は、本当に苦悩しているような顔をして、額に手を当てている。
美穂は、渡の顔を覗き込んで、言った。
「渡様?関様が戻らねば、何か問題があるのでしょうか。」
渡は、指の間からチラと美穂を見た。
「…良い。今はとにかく、関自身の幸福と亜寿美の幸福ぞ。一度、獅子の宮へ参って関の心地を聞いて参るわ。あれが、真実どう思っておるのか。誠にもう、こちらへ帰る気がないと申すなら、あれの望みを聞こう。その上で、亜寿美には酷であろうがあれの身のふりを考える。仮に関が戻ると申したら、問題はないのだしの。あれから、三月になる。今なら主が居ってもあれも手を出そうとはしまい。あの時のあやつは、どこか狂うておったのよ。行って参る。それから、考えるわ。」
美穂は頷いたが、渡が何を懸念しているのか、気になって仕方がない。
そんな美穂の前で、渡は多岐を呼び、獅子の宮へと先触れを送れと命じていた。




