暗い水底で
「ちょっ、この子、ロープの長さ以上に行こうとしてるわよ!? 一度止めたのに強引にもってっちゃう!」
ティエンが潜ってしばらくして、ロープは足りなくなった。
ロープは確かに30メートル以上、40メートル近くはあったのに。
それがなくなったということは、
「おそらく……水没している深さが相当で、水面まで上がるぶんの長さが足りないんだろう」
「アストリッド! 冷静に分析している場合じゃないわ!」
「手を離すしかない」
「なんですって!?」
「彼女は行く気なんだろう? 行ける、と判断したから引っ張っているんだ。戻るには空気が足りないのかもしれない」
「で、でも……」
「放そう。そして、ロープの端がどこまで引っ張られるのか確認するんだ」
言って、アストリッドは水の中にざぶざぶと入っていく。
「アストリッド!」
「できるだけ奥まで私が行く。こういうのは背が高い人間のほうがいいからね」
アストリッドは、首が水面に出るぎりぎりまでロープの端をつかんでいた。
だが、彼女の思いも虚しくどんどんロープは引っ張られ、ついに手放さざるを得なくなった。
「アストリッド!」
「……潜って確認する」
時間を置いて、アストリッドは水に潜って地面をまさぐった。
(ない。ない。ない……! どこまで行ったんだ、君は!?)
だけれどどこにもロープの端はなかった。
アストリッドの潜水の限界はそのくらいだったのだ。
「ど、どうだった?」
「…………」
ずぶ濡れで上がってきたアストリッドは、エミリに、首を横に振った。
「水面が上がってきている……帰りは相当厳しくなるはずだ」
「そんな……!」
ふたりは大急ぎで検討する。
魔法はどうか。
ドリルマシンでなにかできないか。
他に使えるものはないか。
「——ダメだ」
だけれどそのどれも、使い物にならなかった。
エミリはなけなしの魔力を使って水を掻き出していたものの、焼け石に水という感じだ。
「……無力だ」
アストリッドは高い高い天井を見上げた。
事ここに至れば、自分たちにできることはもうなにもない。
あとは、ティエンの生命力に賭けるしかないのだ。
「いや、なにかできることがあるはず……なにか、なにか——」
そのとき、アストリッドは物音を聞いた。
それはティエンが潜っていった通路ではなく、彼女たちがやってきた——鉱山の入口方面からだった。
△
水中は無音ではない。
むしろ音はよく伝わる。
ゴツン、ゴン……ごぽごぽごぽ……シャァァァァ……そんな音が聞こえてきた。
2メートルも潜れば気圧の変化で耳が痛くなる。
耳抜きができても、潜水に慣れない者には「これ以上潜るのは不可能」だと思わせる苦痛だ。
それでも、現場監督は潜っていく。
先を行くであろう、ティエンを追って。
彼女がいるのは、彼女が水をかいて進んでいるからその流れで感じ取れた。
かすかな気配だけが、現場監督にとっての道しるべだった。
耳だけでなく頭が痛い。
家族のことだけを考えて進む——けれど意識がもうろうとしてくる。
「!?」
そのとき、腕をぐいとつかまれた。
そして手が、岩壁に触れる。
この先が通路なのだろう。
あと30メートルだ。
「…………」
あと……30メートル?
「…………」
無理だ、と思った。
もうすでに息が限界なのだ。
地上だったら涙で顔はぐしゃぐしゃになっているだろう。
それでも、せめて。
自分は入口に向かって進んでいたのだと。
死体となるのだとしても、その姿だけでも残したいとそれだけを願って——現場監督は最後の力を振り絞る。
ティエンも限界が近かった。
行きと違って帰りは水深が増していたし、さらには現場監督を気遣いながら潜らなければならなかった。
通路に入ってからはあとは進むだけだったが、残り30メートル……ぎりぎり、なんとか、行けるという微妙なところだった。
ここから先は真っ直ぐだから、現場監督を気遣う必要はない。
ティエンは暗闇を進む。
絶対に生きて戻らなければ。
戻って、ちゃんとエミリやアストリッド、ニナに感謝をするのだ。
そして——修道院の先生に告げよう。
——町を出る。親を探しに行く。
と。
それはティエンの覚悟だった。
現場監督を見捨てたくなかったのは、ただひとり取り残されてしまった彼が、親に放り出されてしまった自分に重なったからだ。
彼を助けることでひとつ、心にケリをつける。
そうしたらきっと、この街を出ていくことができる——。
「…………?」
ティエンは暗闇で振り返る。
いない。
ついてきていない。
それが意味するのはつまり——現場監督の息が尽きたということ。
まだ通路の半分程度までしか来ていないのに。
「…………」
ティエンは迷わなかった。
道を引き返したのだ。
「!」
5メートルほど先に彼はいた。
ティエンが身体をつかむと、弱々しい力で振り払われた。
——も、もし俺の息が切れたとしても、お前は先に行ってくれ。見捨ててくれて構わん。
さっき彼が言った。
ごぼっ、と音がした。
もう限界だから置いていってくれと——言いたいのだろう。
「…………」
ティエンはしかし、もう一度手を伸ばした。
彼の身体を引き寄せる。
空いた手で壁面をつかみ、足では水をかいて進む。
とん、とん、と現場監督が力なくティエンの身体を叩く。
——置いていけ。なんで連れて行くんだ。お前も死んでしまうだろう。
そう言っているのを感じる。
(見捨てないのです)
現場監督はさっき、こうも言った。
——ふたりとも死ぬよりマシだ。そうだろう、ティエン。
ティエン、と名を呼んだ。
ちゃんと知っているのだ。名前を。幽霊犬だなんて呼んでいたくせに。
それがわかったときに、ティエンは、この現場監督は——ほんとうにちゃんと「監督」していたのだろうということがわかった。
言い方は悪いし、ノルマの使い方もひどいし、ティエンに対しては攻撃的だった。
それでも彼は現場を監督しようとし、ノルマを達成する方向にすべての力を使っていた。
よくよく考えれば、不当な意地悪はなかった。
幽霊犬と罵られても、給料は働きに見合ったぶんだけ支払われたし、ティエンが鉱山に出入り禁止になることだってなかった。
(だからなのかな。わからない。息がつらい。今どれくらいだろ。まだ先が見えない。もう、続かない……)
さすがのティエンも現場監督を抱えて、残りの距離を泳いで行くことはできなかった。
(…………)
目の前が暗闇ではなく、赤い。
身体の細胞という細胞が酸素を求めている。
手足がちぎれそうなほどに痛い。
(ごめんなさい……先生、ニナ、エミリ、アストリッド……みんな……)
そのとき。
くいっ。
ロープが引っ張られた。