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蒼海恋記  作者: S.U.Y
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第三話 別れと再会の港町

 紫蘭がワコゥのリハビリを始めてから、ふた月ほどが過ぎ去った。ワコゥのリハビリは驚くほどに順調で、そして紫蘭の鍼はワコゥの身体によく馴染んだ。紫蘭の髪は少し伸びて、今では肩甲骨の下あたりに毛先が届きそうになっていた。

「うん、順調ね。この分だと、もう問題は無いと思うけれど……どうかしら?」

 ワコゥの左腕の肘から肩にかけて、打っていた鍼を抜きながら紫蘭は聞いた。

「……ああ、問題ねえ。ひきつるような痛みも無くなった」

 そう言うワコゥだったが、その表情にはどこか陰のようなものがあった。

「どうしたの? あんまり、嬉しそうには見えないけれど」

 ワコゥの顔を覗き込むようにして、紫蘭が言う。だが、ワコゥはさっと顔を背け、片手で部屋から出るように促す。

「あとは、自分でできる。もう、治ったんだ。お前は……出立の準備をしておけ」

 一方的に言って、ワコゥは紫蘭を部屋から追い立てるように背中を押した。

「ちょ、ちょっと、ワコゥ!」

 振り向いて抗議の声を上げる紫蘭の目の前で、部屋のドアが閉じた。

「何なのかしら、一体……」

 憤然とドアを見つめる紫蘭の側へ、やって来るのは元次だ。

「きっと、先生とのお別れが寂しいんでさあ……」

 洗い物を入れるカゴを紫蘭に差し出して、元次はそんなことを言う。

「ワコゥが? まさか!」

 言いながら紫蘭は、ワコゥの部屋のドアに目を戻す。

「最近、ずっと機嫌が悪いのよ。海に、ずっと出てないからじゃない?」

 紫蘭の言葉に、元次は首を横へ振る。

「ワコゥ様は、紫蘭先生と一緒に居る時間を、とても大切にしておられやす。海に出ている時より、ずっと楽しそうで」

「元次! 余計な事を言うな! お前はさっさと船の準備をしろ!」

 元次の言葉を遮り、部屋の中からワコゥの怒鳴り声が聞こえてくる。

「おっと、すいやせん。俺としたことが、いらぬお節介を……先生、船は明日には出せやす。どうぞ、心残りがあれば、今のうちに」

 元次は洗い物のカゴを紫蘭から受け取り、頭を下げて去ってゆく。心残り、と言っても紫蘭は、海賊たちの住まうこの島での生活のほとんどをワコゥのリハビリをして過ごしてきた。なので、ワコゥ以外への心残りなどは無かった。

「……ああなると、テコでも動かない人だものね。どうしよう」

 二か月も共に過ごしていれば、ワコゥの性格は手に取るように良くわかっていた。貴公子然とした見かけによらず、短気ですぐに大声を上げたり、すぐ人をからかったりする。それなのに変なところで気を遣って、優しい面も見せてくれる。紫蘭はワコゥの部屋で寝食を共にしているのだが、ワコゥが紫蘭に手を出してくることは無かった。紫蘭にベッドを譲り、自分は硬いソファで眠る。

「寝顔と食事の時の顔は、可愛いげがあるのよね……」

 呟いて、紫蘭は何かを閃いたように手を打った。

「そうだわ。夕食を、作って持って行ってあげよう。きっと、機嫌を直すはずだわ」

 軽やかな足取りで、紫蘭はアジトの台所へと向かう。そこでは年老いた炊事頭が一人、大量の夕飯の仕込みをしていた。

「おお、紫蘭先生。お食事を、取りに来られたんで?」

 しわくちゃの顔を笑みに歪め、炊事頭は紫蘭に頭を下げる。

「それが、ワコゥがご機嫌斜めで……何か、美味しいものを作って上げようって思ったの」

 紫蘭の言葉に、炊事頭は大きく何度もうなずく。

「それは、それは。きっと親分も、喜びますで。何を作りますかい? 今日は若い者が釣りに出ていたので、良い魚がたくさんありますで」

 炊事頭の勧めで、紫蘭は大きな魚を丸ごと一匹、スープに使うことにした。ことことと鍋の中で煮込み、香草と香辛料で味を調える。紫蘭の故郷の、郷土料理だった。

「おうおう、さすがは先生。良い香りで。これを食べれば、きっと親分も喜びますで」

 炊事頭の太鼓判をもらい、紫蘭は喜びの足取りで小鍋に取り分けたスープと食器を持ってワコゥの部屋へと戻る。

「ワコゥ? 入るわよ」

 ノックをして、紫蘭は部屋に入った。ワコゥはバルコニーにいて、西の海を黙って見つめていた。

「ワコゥ、夕食、持ってきたわよ」

 言いながら、慣れた手つきで紫蘭はテーブルの上に食器を並べてゆく。

「そうか。もう、そんな時間だったか。腹、減ってるわけだ」

 長い間同じ姿勢でいたらしく、伸びをするワコゥの腰が鳴った。先ほどまでの不機嫌な様子は無く、紫蘭は内心で胸を撫で下ろした。

「今日は、私が作ってきたのよ。何とかって、お魚のスープ」

 紫蘭の言葉に、ワコゥは目を丸くして皿を指差した。

「……食えるのか、コレ?」

 ワコゥの仕草に、紫蘭はちょっと怒って見せる。

「失礼ね、これでも私、料理は得意なのよ?」

 取り分けられたスープに、ワコゥは恐る恐るといった様子でスプーンを入れる。

「……毒は、ねえな」

「本当に失礼ね!」

 半分くらい本気で怒って見せると、ワコゥはにやりと笑って銀のスプーンでスープをすくって口に入れた。もちろん、スプーンは変色したりはしなかった。

「……旨いな。魚はちょっと、煮崩れてるけど」

「一言、多いわよ。確かに、ちょっと煮過ぎちゃったけれど」

 言いながら、紫蘭もスープを口にした。じんわりと温かみのある出汁が、淡泊な魚のほのかな甘みを引き出している。人生最高の出来、と言っても過言ではない。どう、と自慢げに笑って見せるが、ワコゥはすでにスープを飲み干してしまっていた。

「もう、少しはゆっくり味わって、食べたらどう?」

 言いながら、紫蘭は差し出される空の皿にスープのおかわりをよそった。

「最初に言っただろ、旨いって。それで充分だ」

 ひったくるように皿を受け取り、ワコゥはまた勢いよくスプーンを動かした。健啖ぶりに半ば呆れながらも、紫蘭は炊事頭の添えてくれたパンやサラダも食べてゆく。ワコゥも紫蘭も、よく食べた。

 食事を終えると、ワコゥはソファに寝そべった。息をひとつ吐いて、紫蘭はにこやかな顔で毛布をワコゥへ持って行く。食後のワコゥはだらしなく、そのまま眠ってしまうこともあった。

「……そんなに、嬉しいかよ。リジェヌの港へ行けるのが」

 呟くように、目を閉じたワコゥが言った。

「違うわ。ワコゥが、私のスープを食べてくれたから、嬉しいのよ」

 毛布をかけてやりながら、紫蘭は言った。テーブルに置かれた小鍋の中は、空っぽになっていた。

「ねえ、ワコゥ。私……」

「もう寝ろ。明日は、早い。朝の風に乗って、リジェヌに向かう。一応、男の恰好をしておけ。海神の迷信なんざ俺は信じちゃいないが、周りの眼もあるからな」

 言うだけ言って、ワコゥは間もなく寝息を立て始めた。紫蘭は何となく、胸の中にもやもやとしたものを感じた。

「……そっか。リジェヌに着いたら、お別れだものね」

 呟いて、紫蘭は腰を上げる。見下ろすワコゥの寝顔は、眉間にしわが寄っていた。

「ワコゥ……」

 そっと、紫蘭は唇に男の名を乗せる。しばらくワコゥを見つめていた紫蘭だったが、やがてぶんぶんと頭を振り、ベッドの中へと潜り込む。食器は、明日の朝起きてから片付けよう。頭の片隅でそんなことを思いながら、紫蘭も目を閉じた。眠りは、なかなかやっては来なかった。

「……行くなよ、紫蘭。ずっと、ここで俺と……」

 か細い声が、ソファのほうから聞こえた気がした。

「……ワコゥ?」

 呼びかけてみるが、返事は無い。寝言か、幻聴かも知れない。重い息を吐いて、紫蘭は寝返りをうった。夜が更けて、バルコニーから月の光が優しく降り注ぐ。ぼんやりとした光と波の音に抱かれて、紫蘭はやがて眠りについた。

「……カイト」

 紫蘭の口から、かすかな寝言が漏れ出た。夢の中にある紫蘭の寝顔は、悲しく、そして切ないものだった。紫蘭を慰めるように、海の風がそよと吹く。優しく頭を撫でられるような感覚に、眠ったまま紫蘭は目を細めていた。


 リジェヌの港までは、あっという間だった。商船ならば五日間はかかる航路だったが、ワコゥの快速船は三日で走り抜けた。もっとも、操船はかなり忙しなく、ワコゥはずっと船のあちこちを移動し続けていた。おかげで紫蘭は、道中ワコゥと話す暇も無くリジェヌの港へと降り立つこととなった。

「先生の荷は、ここへ置いておきやす。あとは商人に話をつけりゃ、荷役が持って行ってくれまさ。それじゃ先生、お元気で」

 元次が言って、くるりと背を向ける。あっさりとした、別れだった。海賊の身の上で、港には長居できない。あらかじめそう言われていたのだが、見送りの中にワコゥの姿が見えないことに紫蘭は落胆を覚えていた。

「あ、あの! ワコゥに、元気でって、伝えておいてくれますか?」

 紫蘭の声に、元次は振り返らず右手を挙げて応えた。朝靄に煙る港の向こうへ、その背中はすぐに見えなくなった。

「役人に捕まったら、即座に縛り首だものね。仕方ないわ」

 自分に言い聞かせるように言って、紫蘭は歩き出す。目指す場所は、取引の約束をしていた五勝という商人の商館だ。気を取り直した紫蘭の足取りはしかし、重いものだった。


 艀を使って船に戻った元次が、船長室へと入ってくる。ワコゥはちらりとそれを見やり、また机の上に視線を戻した。数枚の書類が、机には置かれている。

「ワコゥ様。見送りは、無事に終わりました。一応、辺りに危険はありません。先生の荷には、我らの印をつけております。これを奪う不心得者は、まずいないでしょう」

 改まった口調で報告する元次に、ワコゥはうなずきだけを返した。そんなワコゥへ、元次は不満そうな目を向ける。

「ワコゥ様……これで、良かったのですか? 惚れて、いらっしゃったのでしょう?」

 元次の言葉に、ワコゥは黙って机を叩く。書類の側にあったペンが、弾みで落ちた。

「……あいつの意思だ。これで、良かったんだ。それより、元次。あいつ、五勝のところへ?」

「はい。五勝は取引の約束をしていたそうで、先生の荷を高値で買い取ってくれるそうですが……」

 言いながら元次は、机の書類に目を落とす。

「五勝は、五徳の兄だ。何か、臭う」

 切れ長の目をすっと細め、ワコゥは言った。

「……動きますか?」

 応じるように、元次がワコゥを見やる。

「ああ。ついでに、こいつを捕まえておいてくれ」

 ワコゥは一枚の書類を、元次に突き出した。

「この男は……わかりました。ワコゥ様も、動かれるならばどうぞお気をつけて」

「言われるまでもない。もう、この間のような失態はしないさ」

 にやり、とワコゥは貴公子然とした顔に不敵な笑みを浮かべた。


 早朝に訪れたこともあり、紫蘭はかなり待たされて、五勝との面談に漕ぎつけた。もう昼間は過ぎており、商館の中には騒がしさが満ちている。

「入りたまえ」

 上質な樫の木でできたドアの向こうから、男の声が聞こえた。紫蘭は息を吸って、それからドアを開く。正面にある事務机の向こうに、目当ての人物は座っていた。

「五勝さん。このたびは、荷の到着が遅れてしまい、申し訳ありません」

 肥った顔に柔和な表情を浮かべて、五勝は紫蘭を迎え入れた。

「まあ、座りなさい」

 勧められたのは、五勝の机の正面にある椅子だった。背もたれの無い丸い椅子に、紫蘭はそっと腰を下ろす。

「遅れた理由と、弟の……五徳船長の姿が見えない件について、伺っても?」

 柔和な顔のまま、五勝は紫蘭へいきなり質問を投げかけた。やり手の商人であることは聞いていたので、紫蘭にはある程度の心の準備はできていた。それでも、五勝へ弟の死を告げるのは勇気のいることだった。

「……私は、医師でしたので助かりました。ですが、五徳さんは……船ごと、焼かれました」

 五徳の死と、自分が生かされた理由について紫蘭は述べる。五勝は黙って、紫蘭を観察するように長い話を聞いていた。

「つまり、たまたま急に乗り組んだあなたは医師だったために助かり、五徳は海賊どもに殺された。二か月も荷が遅れたのは、海賊の頭の治療をしていたからだ、そう、言いたいのですね?」

 確認をするように、一言一言を強調して五勝は言う。その顔からは柔和な笑みは消え、厳しく冷たい視線が紫蘭へと向けられていた。

「は、はい……」

 じっと見据えてくる眼に底冷えするものを感じて、紫蘭は目をそらして俯いてしまう。ふう、と息を吐く音が、紫蘭の耳に届いた。

「出来過ぎた話です。本当はあなたも海賊の手下で、五徳を殺して積み荷を奪ったのではないですか?」

「そんな! 私は、違います!」

 顔を上げて、紫蘭が叫ぶ。それを、五勝は手で制した。

「ではなぜ、海賊の頭の治療などをしたのですか。それも、二か月もかけて。奴らは、人からものを奪って身を肥やす、最低な人種です。あなたの話が本当ならば、腕の治ったその海賊の頭はまた人を殺すでしょう。私の弟を、殺したようにね。あなたは、医師であるにも関わらず、人殺しの片棒を担いだことになる。それを海賊の手下と言って、何がおかしいのでしょうか」

 言われて、紫蘭は顔をまた俯かせる。五勝のいう事は、もっともだった。紫蘭は確かに目の前の患者を救ったが、そのために多くの人間がまた犠牲になる、ということに変わりはない。たとえ、五徳がどうしようもない裏切りを犯していたとしても、それは殺されていい理由などにはならない。五徳は、海賊たちの見せしめのために殺されたのだ。改めて思い返し、紫蘭の目からは涙がこぼれた。

「私は……私は……」

「それから、紫蘭さん。あなたに、言っておかねばならないことがあります。実は、あなたの婚約者を名乗る者が、あなたを保証人にまたお金を借りました。証文は、こちらです」

 ひらり、と五勝が手に持った紙を紫蘭へと見せる。証文を見た紫蘭は、愕然となった。

「どうして……あの人とは、もう婚約は解消しました! 私には、もう何の関係も……」

「残念ながら、ここに書かれたサインはあなたのもので間違いありません。筆跡鑑定も、済ませてあります。そして……彼は金を持って、姿をくらましました。この意味が、おわかりですか?」

 じろり、と見つめてくる五勝の眼を、紫蘭は呆然と見返すことしかできない。

「本来、あなたは海賊の仲間ということで縛り首です。ですが、こちらも借金を返済していただかないことには困ります。ですが……」

 五勝は、にやりと嫌らしい笑みを浮かべた。先ほどの柔和なものとは、完全に異質なものだ。それは、罠にかかった獲物を見やる狩人の顔つきだった。

「あなたに、懸想をした変わり者の貴族がおりましてな。その方の奴隷……いえ、妾になれば、借金を代わりに払っていただける、とのことです。いかがですか、悪い話では、ないと思いますが」

 がん、と頭を殴られたような衝撃が、紫蘭に訪れる。八方ふさがりだ。もう、どうしようもない。医師として生きる道は絶たれ、良くて貴族の囲い者、悪くすれば縛り首が待っている。立ち現れる非常な現実に、紫蘭は完全に打ちのめされた。

「……役人に、突き出してください。私は、もう……」

 言いかけたとき、紫蘭の背後にあるドアが勢いよく開いた。

「紫蘭! 無事か!」

 驚き振り向いた紫蘭の視線の先に、貴公子然としたワコゥの顔があった。黒い羅紗のコートを纏い、手には抜身のサーベルを持っている。美しく整った顔には憤怒の色が強く浮き出て、紫蘭の向こうにいる肥った商人を見据えている。

「な、何ですか、あなたは! これ、誰か!」

 机の上に置かれたベルを鳴らし、五勝が人を呼ぶ。その様を見て、ワコゥは凄まじい顔で笑う。

「はん! ここには、誰も来ねえ。俺の手下が、商館中で暴れているからな。紫蘭、怖い事、されたのか? 泣いてるじゃねえか」

 ワコゥの姿を呆然と眺めている紫蘭だったが、ワコゥの指が優しく頬の涙を拭ってくれたことで、はっと目を見開いた。

「ワコゥ! あなた、どうしてここに? すぐに逃げないと! 役人が来たら、縛り首に……」

 ぎゅっとワコゥに抱きすくめられ、紫蘭は言葉を切った。

「少し、調べものがあったんでな。迎えに来るのが遅くなった。ごめんな」

 あやすように、優しく背中を叩くワコゥの胸で紫蘭は号泣する。もう、何もかもが解らなくなってしまっていた。ただ、ワコゥに対する気持ちだけが、紫蘭を泣かせている。

「こ、こんなことをして、ただで済むと思っているのですか!」

 喚く五勝を、ワコゥはじろりと睨み付ける。

「ああ? それは、こっちのセリフだ。世間知らずのお医者様をだまくらかして、大金を何度もむしり取ったあげくに貴族の囲い者にするとは、良い度胸だ。旗の偽造の件についても、お前には聞きたいことが山ほどあるぞ?」

 どん、とワコゥが足を机の上に乗せて言った。怯える五勝だったが、まだ余裕はあるのかワコゥの眼を真正面から見返している。

「どこから聞きつけたのかは知りませんが、私がこの小娘を騙した、ですと? どこにそんな証拠があるのですか?」

 言い返す五勝だったが、ワコゥの背後に現れた男の顔を見てさっと青ざめる。

「ワコゥ様、捕まえてきやした! こいつが、先生の元婚約者でさあ!」

 後ろ手に縛られた優男が、元次に蹴りを入れられて部屋の中へとまろび出る。

「あっ、紫蘭! これは……違うんだ! 助けて下さい、五勝様!」

 優男は紫蘭に向けて叫び、それから五勝にすがりつくように駆け寄った。

「うるさい! お前など、私は知りません! それより、役人はまだですか!」

 五勝は優男を蹴倒して、苛ついて声を荒げた。それに答えたのは、元次だった。

「ワコゥ様、もうすぐ、役人が来ます」

 ワコゥへ膝をついて報告をする元次に、五勝はにんまりと笑う。

「終わりだ! 狼藉者め! お前らまとめて、縛り首だ!」

 ひひひ、と醜く顔を歪めて笑う五勝だったが、ワコゥは動じない。

「そうか。手下に伝令。船に戻っていろと伝えてこい」

 ワコゥの命令に、元次は短く返事をして部屋の外へと出て行った。

「ワコゥ! あなたも逃げて!」

 ワコゥの腕の中で、紫蘭が顔を上げて言った。ワコゥは微笑み、紫蘭の額に軽くキスをする。一瞬の出来事に、紫蘭の思考は完全に止まってしまう。

「大丈夫だ。俺に任せておけ。それから、あまり大声を出すな。耳に響く」

 ワコゥの言葉に、紫蘭はただうなずいた。そうしているうちに、どかどかと靴音を響かせて役人と兵士たちが部屋に踏み込んでくる。

「おお、来てくださいましたか! この者たちは海賊です! さっさと捕らえてください!」

 役人へ向けて、五勝が叫んだ。だが、役人たちはワコゥの顔を見ると厳めしい顔で五勝へと詰め寄る。

「我々に、この方を捕らえよ、と? お前は、そう言うのだな、五勝?」

 問いかける役人に、怪訝な顔をしながらも五勝がうなずく。

「は、はい! そうです! こやつは、海賊の頭、ワコゥです!」

 叫んで訴える五勝に、役人は首を横へ振る。

「何を言っている。この方は我がブランシェ王国第一王位継承者、カイト王子その人であるぞ!」

 役人の言葉に、部屋の中のワコゥと役人以外の全員が動きを止めた。あちゃあ、とワコゥは顔に手を当てて呻き、すぐさま紫蘭を抱えて部屋を出る。猛然と駆けるワコゥの姿を、不意を突かれた一同は見守ることしかできない。

「ちょ、ちょっと待って、待ってってば! ワコゥ!」

 抗議の声を上げる紫蘭だったが、ワコゥは聞き入れない。

「このまま、船に戻るぞ、紫蘭!」

 商館を出て、港町の桟橋へとワコゥは走った。桟橋には艀がつけられており、元次が艀をもやった綱を解いて手招きしていた。

「ワコゥ、あなたは、カイトだったの?」

「喋るな、舌を噛むぞ!」

 どん、とワコゥが桟橋を蹴って、離れる艀へと飛び込んだ。咽喉から上がる悲鳴を押し殺し、目を閉じた紫蘭の身体に着地の衝撃が走る。うっすらと目を開けた紫蘭の身体を、ワコゥはそっと降ろした。

「紫蘭……黙ってて、すまない。俺は、カイトだ。十五歳までのお前の知ってる、あのカイトだ」

 ぎしぎしと元次が櫓を使い、艀は海へと滑り出てゆく。

「どうして……海賊になってるの……名前も、変えて」

「お前と別れてから、俺は変わった。変わろうとしたんだ。弱くて守られてる自分から、強くて、お前を守れる男になりたくて……それで、父に頼んで私掠艦隊の、言ってみりゃ海賊団を作った」

「カイトのお父さんって……貴族の人じゃ、なかったの?」

 遠い水平線を眺めて、ワコゥは口を開く。

「育ての父、ってやつだ。もっとも、俺もお前と離れて事情を聞くまで、何も知らなかったけどな」

「そっか……生きていてくれて、よかった、カイト……」

 そっと身を寄せようとする紫蘭の肩を掴んで、ワコゥが押し留める。

「もう、俺はワコゥだ。カイトじゃない。なあ、紫蘭。俺のところへ来ないか? 今から港へ戻ったって、お前はもうまともに暮らすことなんて、出来やしない。五勝の奴は捕まっただろうが、あの程度の悪党は世間には掃いて捨てるほどいるんだ。お前が生きていくには、汚れ過ぎてる」

 ワコゥの言葉に、紫蘭は顔を俯かせる。長い、長い沈黙が流れた。潮風が、二人をそっと撫でて過ぎる。

「ワコゥ様、先生。もうすぐ、船に着きます」

 控えめな声で、元次が告げた。

「……わかった」

 ワコゥは言って、紫蘭から手を離した。間もなく、ワコゥの快速船が姿を現した。見上げるような船べりから、太い縄梯子が下ろされてくる。ワコゥは縄梯子を掴み、引き寄せながら紫蘭へ手を伸ばした。

「俺の手を取れ、紫蘭。俺が、お前を幸せにしてやる。世の悪意全部から、お前を守ってやる。だから……」

 紫蘭は、ワコゥの瞳を見つめる。吸い込まれそうな力強い瞳に、紫蘭はおずおずと手を伸ばした。

「……海賊は、手伝えないわよ? 私、これでも医師なんだから……」

 指先が、触れあった。次の瞬間、紫蘭の腕はワコゥに引っ張られ、身体ごと紫蘭はワコゥの胸に飛び込んだ。

「そんなのは、俺がやる。お前は黙って、俺の側にいりゃいいんだ」

「もう、強引なんだから……」

 言いながら、紫蘭は笑みを浮かべていた。縄梯子を登る間中、ずっと紫蘭は強くワコゥの背中へ回した手に力を込めていた。

「野郎ども! 錨を上げろ! 出航だ!」

 元次が続いて縄梯子を登り、艀を回収したところでワコゥが号令の声を上げる。寄り添ったままの紫蘭へ、海賊たちの好奇の視線が集まっていた。

「てめえら、何をじろじろ見てやがる! 早く持ち場へつけ!」

 苛立った声を上げるワコゥに、海賊たちは生暖かい笑みを浮かべながらてきぱきと持ち場へ散ってゆく。

「ワコゥ……私、あなたが好き……」

 小さな声で、紫蘭はワコゥの胸に呟いた。

「はん、当然だ。俺は、最高の男だからな!」

 胸を張ってぽんぽんと頭をはたくワコゥに、紫蘭は目を細める。

「だから、あなたがどんな怪我をしても、誰も知らない病気にかかっても……私が、治してあげる」

 背伸びをして、紫蘭がワコゥの頬に唇を当てた。周囲の海賊たちが、口笛を鳴らしてそれを囃し立てる。そして、ワコゥが怒鳴りつける。そんな光景を、紫蘭は楽しそうに見守った。

 青い帆が風をはらみ、船が蒼い海の上を滑るように進んでゆく。見渡す限りの水平線へ向かってどこまでも進んでゆく船は、やがて彼方へと消えてゆくのであった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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