第二話 紫蘭の過去とワコゥの傷
島を吹き渡っていく風を頬に感じながら、紫蘭はじっと西の海を見る。燃えるような夕焼けが、紫蘭の瞳を赤く染めていた。
「どうした、紫蘭。島の夕焼けが、そんなに珍しいか?」
声をかけたワコゥだったが、紫蘭の顔を見てぎょっとなった。紫蘭の頬には、一筋の涙が流れている。髪をまとめていた麻紐は解けて、ふわりと拡がる短い黒髪はとても美しく、だからこそ憂いの表情はワコゥの胸を強く打つ。
「五徳さんの船が、燃えているのね……あんなに、夕日が赤いんだもの」
誰に言うでもなく、独り紫蘭は呟いた。
「……奴は、俺たちの決め事を裏切った。旗の偽物を用意したんだ。それなりの罰は与える」
紫蘭は、そっと顔を伏せる。五徳を空になった船に残し、商船ごと焼き沈めたのが気に食わないらしい。ワコゥは息を吐き、紫蘭の側へ寄った。
「奴は助けるわけにはいかなかった。示しが付かないからな。だが、他の水夫は別だ。逃げたい奴は逃がしてやるし、ここで働きたい奴は働かせてやる。お前も、治療が終われば、好きにしていいんだぞ」
ワコゥにしてみれば、五徳のようなクズ商人に情を示す紫蘭がわからない。聞けば、貞操の危機にも五徳は指をくわえて見ているだけだったという。
「……生きていれば、まだ償い様は、あったはずだわ」
それでも、紫蘭は五徳を思って涙を流す。それが、ワコゥを妙に苛立たせる。
「お前も、治療が終わるまでは俺の意のままだってこと、忘れるな……!」
乱暴に顎を引き寄せて、ワコゥが言った。紫蘭はすっと目をそらし、冷たい顔を見せる。
「別に。好きにすればいいわ。男の人がどういうものか、よく知っているもの」
紫蘭の言葉に、ワコゥはがんと頭を殴られたような衝撃を感じた。その正体がわからないまま、ワコゥは口を開く。
「お前……何だって、あんな船に乗ってたんだよ……!」
聞きたい事とは、別の言葉が滑り出ていた。ワコゥの前で、紫蘭は遠くを見つめるような目をした。
「私ね、港で、診療所を持っていたの。お父さんとお母さんが、私財をはたいて建ててくれた、大事な診療所が……」
語り始める紫蘭に、ワコゥは顎を手離し、紫蘭と並んでバルコニーの手すりへともたれかかった。
「婚約を決めた人が、いたの。優しくって、私の噂なんて、気にしないって言ってくれた人が」
「噂?」
「そう。お付き合いした男の人が、次々に不幸になるって……そんな噂。でも彼は、気にしないって言ってくれて……だから、私は彼と婚約をしたの」
そう言って、紫蘭はバルコニーの手すりに肘を組んで顎を乗せる。
「あんまり、いい話じゃなさそうだな」
ワコゥの声に、紫蘭はうん、と応じた。
「彼は、ちょっと博打が好きで……いい人だったんだけれど……負けて、大きな借金をこさえてきたの。それで、私の診療所を、勝手に……」
「借金のカタにされて、カネが必要だった。だから、お前はあの船に乗り組んだんだな。リジェヌの港で、高く売れる薬草を積んで」
「うん……いきなりだったけれど、五徳さんは全部引き受けてくれて……でも……」
顔を伏せて涙声になる紫蘭に、ワコゥはどうしていいかわからず、ただ立ち尽くすのみだ。
「いつも……そんななの。私……兵士の人とお付き合いすれば、戦場から帰ってこなかったり、商人の人の家が潰れたり……うちも、父と母は貴族だったんだけれど、家が潰れちゃった……」
「……それは、お前のせいなんかじゃねえよ」
そう言ったワコゥだったが、それは慰めにもならない言葉だ。ワコゥは紫蘭と共に生きて来たわけではなく、行きずりの存在だ。だから、紫蘭の心の傷には触れられても、それを癒すことはできなかった。
「……カイトが、いてくれたら……」
紫蘭の口から出た名前に、ワコゥはぴくりと反応した。
「カイト? 誰だ、それ?」
細い呟きに質問を返されて、紫蘭は少し戸惑った顔になる。だが、すぐにそれは郷愁の色に染まった。
「私の……幼馴染。まだ貴族だったころ、隣の家に住んでいたの。仲良しで、しょっちゅうデートもして……キスだって、したのよ?」
「……んで、そいつも不幸になったってのか?」
楽しげに語る紫蘭に水を差すかのように、ワコゥが口を挟んだ。たちまち、紫蘭の顔がしゅんと萎む。
「カイト……海の都っていう字を書くって、あとで聞いた。カイトは病気がちで、身体もあんまり強く無かった。だけど、ある日カイトは誰かに連れ去られて……いなくなってしまったの」
その言葉に、ワコゥは薄く目を閉じる。
「それで?」
「私は、カイトを探した。必死になって、どこへ行ったのか、何をしているのか、生きているのか死んでしまったのか……何も、わからなかった。悲しみに暮れて……そうしていると、私の側に、いろんな男の人がやってきたの。私は……寂しかった。無くしてしまったぬくもりを、どこかに求めたかった。カイトのために、学んできた医術だったけれど、それだけに打ち込む気力が、無くなっていた……」
沈み込む紫蘭の肩を、ワコゥはそっと抱いた。今は、この女にはそれが必要だ。ワコゥはそう思い、華奢で柔らかな身体を引き寄せる。抵抗は無く、すっぽりと腕の中に紫蘭の身体が入り込んでくる。
「……いいんじゃねえの、別に。お前が寂しかったのは、カイトってその男が、お前を放っておいたからだろう?」
「でも、カイトは、私を……」
「お前は、何も悪くない。だから、あんまり自分を責めるなよ」
ぽん、ぽん、とワコゥは紫蘭の背に手を置いて、幼子をあやすように撫でつける。そうして、胸の上に紫蘭の顔を押し付けるようにした。紫蘭の口から、カイトという名を聞くのは、もう終わりにしてやりたい。ワコゥの思いは伝わったのか、もう紫蘭は言葉もなくただただ泣きじゃくった。バルコニーから月を見上げるワコゥの切れ長の眼は、切なく細められていた。
テーブルの上に並べられていた海図を部屋の隅へやり、紫蘭は簡易的な手術台を作った。清潔なシーツを乗せて、ベッドサイドへ運んでもらう。そうして、ワコゥを寝かせて腕を台の上に伸ばさせた。
「それじゃあ、始めるわ。最初に言っておくけれど、すっごく痛いから、覚悟していてね」
患部を前にした紫蘭には、もう気弱な態度は見られない。そこに立っているのは、医師としての紫蘭だった。
「俺を誰だと思ってる? 少々痛いくらいじゃあ、何ともねえよ」
紫蘭の前で、ワコゥが不敵に笑って見せる。左腕の付け根をきつくしばっておいたので、感覚はもうほとんど無いはずだ。紫蘭は、メスをゆっくりと縫合跡に滑らせた。
矢傷にあった毒素は、船上の応急処置で塗った薬でいくぶんか和らいでいるようだった。免疫能力も、ワコゥは高いものを持っているのだろう。それでも、処置はする必要があった。
「骨、削るからね」
ワコゥが小さくうなずくのを確認して、紫蘭は黒ずんだ腕の骨を少しずつ、削った。幸い、それほど深く毒は浸透しておらず、表面を少し削る程度で済んだ。
「あとは、縫合して、終わり。よく頑張ったわ、ワコゥ」
歯を食いしばって、それでもうめき声は上げまいとしていたワコゥへ紫蘭は微笑みかける。その顔を見て、何だか浮き立つような気分を覚えつつ、紫蘭は鼻歌交じりに縫合を済ませた。あとは縫合箇所へ薬を塗って、包帯を巻けば処置は完了だった。
「はい、おしまい。あとは、元通りに動かせるようになるまで、鍼を使うわ」
左腕の紐を解いてやりながら、紫蘭が言った。
「……放っておいても、もう治るんじゃねえのかよ」
ふてくされたような顔で言うワコゥに、紫蘭は首を横へ振る。
「神経も、傷ついていたから。結構大変だけれど、気長に頑張りましょ」
ぐっと拳を握って、紫蘭が言った。ワコゥは紫蘭を見やり、目を少し開く。
「……お前が、手伝ってくれるのか?」
ワコゥの言葉に、紫蘭はすぐにうなずいた。
「当然。受け持った患者さんは、しっかり最後まで面倒見なきゃ。せっかく傷が治っても、元通り動かせなきゃ困るでしょ?」
朗らかに言う紫蘭へ、ワコゥはふっと笑みを浮かべる。
「……そうしている方が、お前らしい」
「ん? 何か言った?」
小さな呟きは、紫蘭の耳にはよく聞こえなかった。だが、ワコゥの顔を見ていると何だか体温が上がってくるようで、紫蘭は戸惑いを覚える。
「そ、それじゃあ、私、包帯洗ってくるから!」
ワコゥの返事も聞かずに、紫蘭は部屋を飛び出した。昨日連れて来られたばかりの海賊のアジトだったが、水場とワコゥの部屋の場所だけは念入りに教えられていたので、迷うことは無かった。
包帯を、水桶の中で洗う。汚れが取れれば、煮沸して乾燥させる必要がある。根気よく、紫蘭は手を動かしつつもワコゥの笑顔が頭の中へと浮かんでくる。
「あんな顔で……笑えるんだ……」
少し緩んだ顔で布を洗っていると、ぬっと影が背後から差した。
「あ、元次さん……」
背後に立っていたのは、水夫の元次だった。
「洗い物なら、私どもにいいつけてくださりゃ、いくらでもしますぜ、先生」
元次は言って、紫蘭の手から洗い桶を取って手を入れた。
「これは、洗って乾かせばいいんですかい?」
「いえ、洗ったら沸騰させたお湯の中でしばらく煮込まなくちゃいけません」
言葉を交わしながら、紫蘭は元次の作業を黙って見守った。元次は慣れた手つきで、布の血痕を洗い落としてゆく。感心していると、元次が声を上げた。
「ワコゥ様の腕を治してくださって、ありがとうございます、先生」
唐突なお礼の言葉に、紫蘭は手を胸の前で振った。
「い、いえ、私のほうこそ……その、助けて、いただいて……」
紫蘭が言うと、元次は手を止めて土下座をした。
「せ、先日はうちの者が、大変な失礼を!」
「い、いいんです! 思い出させないでください! もう気にしてませんから!」
言葉通り、紫蘭は昨日の子頭の顔など綺麗さっぱりと忘れてしまっていた。色々とあったのと、医師モードで治療をこなしたりしているうちに記憶が有耶無耶になっていたのだ。
「あいつは今、一番きつい仕事をやらせておりやす。新米の、やる仕事です。ですから、それでどうか……」
「いいって、言ってるでしょ?……あ、ごめんなさい」
しつこく謝る元次に、紫蘭はつい口調を崩してしまう。だが、元次は笑って首を振る。
「いえ、俺なんぞに、丁寧な言葉遣いしねえでくだせえ。しがない、水夫頭なんですから。それより……先生、ワコゥ様の様子、どうでしたか?」
元次の問いかけに、紫蘭はワコゥの顔を思い浮かべる。
「ええ。あとは傷がくっついたら、リハビリするだけです。順調ですよ」
「そいつぁ、何よりです。その、リハビリってのが終わったら、先生はどうなさるんで?」
そう言う元次に、紫蘭は少し考える。
「……連れて行ってもらえるなら、リジェヌの港まで連れて行ってほしいんですけど。できれば……積み荷も一緒に」
「そりゃ、お安い御用です。何しろ、ワコゥ様の腕の恩人ですからね」
笑顔で答える元次に、紫蘭はほっと息を吐いて胸をなでおろす。
「良かった……リジェヌの港で薬草を売ったら、それを元手に小さな診療所を開こうって思ってたんです」
「へえ……先生が、そんなことをなさるんですかい。ま、事情は深くは問いやせんが、わかりやした。先生の身柄は、ワコゥ様が責任をもって、きっちりと届けやす!」
「ありがとうございます、元次さん」
ぺこり、と頭を下げる紫蘭を、元次が慌てて手で制した。
「とんでもございやせん。先生……それまでどうか、ワコゥ様のこと、よろしく頼みやす!」
はい、と答えて笑顔を見せる紫蘭に、元次も笑みを返してくる。それから、湯を沸かしながら紫蘭は何となく元次と一緒にワコゥのことについて話すことになった。
「ワコゥは……何か、こう、基本的に人を見下した感じ、しますよね」
「人の上に、それも荒くれどもを率いるお立場の人ですから……」
容赦の無い紫蘭の指摘に、元次は苦笑して答える。
「あと、細いくせに頑丈で、傷の治りも早いです」
「ワコゥ様はここへ来て、苦労なされやしたから……昔はもっと」
言いかけた元次の背後から、ぬっと銀色のサーベルが伸びる。それは元次の首をかすめ、ぐつぐつと煮立つ鍋に触れそうになった。
「余計なおしゃべりはそこまでだ、元次」
「ワコゥ! 危ないわよ!」
紫蘭の抗議の声を、ワコゥは鼻で笑う。
「このくらい、日常風景だぞ? ここでしばらく暮らすのならば、お前も慣れろ」
「まあまあ、先生。ワコゥ様、この場はどうぞ、お許しを」
憤然とする紫蘭に手を振って、元次はワコゥに恭しく頭を下げる。その形は見事なもので、紫蘭は元次の中に何か異質なものを感じた。
「まったく……お前も俺について何か聞きたいなら、直接俺に聞け。答えられることなら、何でも答えてやるから」
そう言って、サーベルを収めたワコゥは鍋の中身を覗いた。
「なんだ、コレ? 今日の夕飯か?」
思いがけないワコゥの言葉に、紫蘭は元次と顔を見合わせて笑う。
「あはは、ワコゥったら、おかしい!」
「ワコゥ様、夕飯はもうちょっと、待っていてくだせえ。すぐに、手配しやす」
「お、おい、笑うな! 何なんだ、おい!」
怒るワコゥをからかうのが楽しくて、紫蘭は元次に感じた違和感などはすぐに忘れてしまう。群島に吹き渡る風はどこまでも涼やかで、それは紫蘭の心を気持ちよく吹き抜けていくのであった。




