表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼海恋記  作者: S.U.Y
1/3

第一話 港の医師と俺様海賊

 ゴダンの港からリジェヌ港へ向けて、一艘の船が出港した。重い積み荷に船体を軋ませながら、海をゆっくりと進んでゆくその船は、商船だった。

 真っ白な帆が結わえられた帆柱の先端には、赤字に金の刺繍の施された旗が掲げられている。これは、リジェヌ港への航路にある群島を通る際の、通行証だった。群島には海賊が砦を構えており、近くを通る商船を襲って積み荷を奪う。ただしそれは、通行証を掲げていない船に限られた。

 通行証を掲げている船を、海賊たちは逆に護衛する。見返りは、積み荷の利の一割だった。航路によっては群島は交通の要衝となっており、海賊たちへの報酬をケチった商船などは帰り道で必ず襲われた。

 ぎしぎしと揺れる船の上では、水夫たちが忙しそうに駆けまわっている。赤銅色に焼けた肌は逞しく、いかにも海の男といえる風貌であった。

 その中で、船べりに佇む少年の姿があった。水夫たちの邪魔にならぬよう船の端へと寄り、遠ざかる港を眺めて息を吐く。

 少年は周囲の水夫たちとは対照的に、色白の肌だった。身に着けているのは白衣で、小柄な割に腰が服の上からでも分かるほどに張っている。だが肥っている、というわけではない。顔は細く繊細なつくりをしていて、美少年といえた。白衣と対をなす黒髪は、肩のあたりで切りそろえられていて、麻ひもで一つにまとめられている。少年の足元には大きなカバンが置いてあり、その恰好から少年は医師に見える。

 船の上には強い日差しが降り注ぎ、海風はどこか生温い夏の空気を運んでくる。気温はかなり高いのだが、少年は長袖に長ズボンの重装備だった。暑さを、感じていないわけではない。少年の顔には汗の粒が浮かんでおり、船べりに肘を置く姿も気だるげだ。それでも少年は、白衣を脱ぐことはおろか袖やズボンの裾を上げることさえしていない。ずり下がった大きな眼鏡を、ぐいと元の位置に戻して息を吐くばかりだ。

「やあ、紫安先生。客室に姿が見えないと思ったら、こんな所へおいででしたか」

 少年に、声をかけて近づく男の姿があった。少年は半拍ほど遅れて、男のほうへと首を向ける。

「あ、船長さん」

「ほっほっほ、五徳、で良いですよ、紫安先生」

 にこやかに少年の横へとやってきたのは、豪奢な青い服を身に着けた肥った男だ。

「わた、僕も、先生は抜きで構いません、五徳さん」

 船べりから身を起こし、少年は五徳へ向き直る。この船は五徳という商人のものであり、少年は船客だった。

「いやいや、聞けば、紫安先生は王都で学ばれた優秀な医師様だとか。御挨拶が遅れて、申し訳ありません」

 如才ない笑みで、五徳は右手を差し出した。少年は少し躊躇いを見せたが、五徳の手を取って握る。

「こちらこそ、いきなり乗り組むことになって、すみません」

 少し高めの声で、少年が言った。五徳の指が、少年の手の上を擦るように滑る。

「ふむ、先生は、なかなか柔らかな手をしていらっしゃいますな」

 じっと手を見てくる五徳の眼に、少年はすっと手を引っ込めた。

「は、はい。何分、文弱の徒でありますから……それじゃ、僕は客室に戻ります」

 そう言って、少年は五徳の返事も待たずに船尾にある客室へと入った。客室には少年の他に乗客の姿は無く、五徳も来る気配は無い。外から水夫たちを怒鳴りとばす声が聞こえてくるところをみるに、彼はしばらくこちらへ来ることは無いだろう。少年は客室のドアにもたれかかり、ほっと息を吐いた。

「あ、危なかった……」

 ぺたん、と内股になって少年が座り込む。一人になったことに安堵したのか、少年は白衣の前を開けてシャツの中へと風をぱたぱたと取り込んだ。

「あーあ、こんなことじゃ、先が思いやられるなぁ……」

 呟く少年の下で、船がぐぐっと持ち上がる。

「う、ひっ」

 少年の口から、奇妙な声が漏れた。少年が出すにしては高い、女性の悲鳴のような声だ。どすどすと、乱暴に駆けてくる足音がして、少年はびくりと身をすくませる。はだけたシャツと白衣を、慌てて元へと戻した。

「今こっちで、女の声が……って、何だ、先生か」

 水夫の一人が、客室に顔を突き出して見回す。

「す、すみません。いきなり揺れて、変な声が出てしまいました」

 謝る少年に、水夫は豪快に笑う。

「なあに、いいってことよ。船に女を乗せると、海神さまが嫉妬して海が荒れるからな。誰かが隠して女を連れ込んだんじゃあないかって、心配になってよ。揺れが怖いなら、慣れるまでしっかり掴まってたほうがいいぜ、先生」

 手を振って、水夫が走り去る。言われたとおり少年がテーブルに掴まると、今度は船がぐんと沈み込む。漏れそうになった呻きを、少年は何とか堪えることができた。

「……本当に、先が思いやられるよ」

 何度も揺られ、血の気の引いた顔になった少年が小さく呟いた。


 船旅も、五日を過ぎる頃には少年の船酔いは治まっていた。それまで、船べりへ行って胃の中のものをぶちまけたりしたが、慣れれば何という事は無かった。客室に設えられた簡易ベッドからのそりと起き上がると、少年は久しぶりに甲板の上に出る。

「おお、もう、調子は戻られましたか、紫安先生」

 肥った腹をゆすりながら、五徳が問いかけてくる。

「ええ。山場は越えました。心配かけて、申し訳ありません」

 ぺこり、と揺れる船の上で器用に頭を下げる少年を、五徳は手を出して制する。

「いいえ。謝ることはございません。船に慣れていない者が、一度は通る道ですからね」

 朗らかに言う、五徳に、少年はほっとした笑みを浮かべる。そのとき、船が大きな波にぶつかり断ち割った。ざばりと海水が滝のように降り注ぎ、甲板は水浸しになってしまう。

「ひゃあ!」

 大きく船が揺れたが、少年が悲鳴を上げたのは別の理由だ。

「今日は、妙に荒れますなあ……」

 ちゃっかり船べりから離れていた五徳が、暢気に空を見て言った。先ほどまで晴れ渡っていた空に、鉛色の雲が、どんよりと垂れこめている。

「あ、あの、僕、着替えてきます!」

「そうですな。風邪をひいては、いけませんからな」

 見送る五徳の視線を背中に感じながら、少年は急ぎ足で船室へと入った。後ろ手に扉を閉めて、部屋に誰もいないことを確認してから急いで白衣を脱いだ。

 白衣の下のシャツは、ところどころが透けてしまっていた。少年の華奢な身体のラインが、露わになってしまっている。

「こんなとこ、見られたら大変だ……」

 少年は手早くシャツを脱いで、着替えに袖を通す。少年の胸には晒し布が巻かれており、筋肉はほとんどついていない。

「ズボンも、替えておいたほうがいいかな……」

 太股からくる、湿った感触に少年は顔をしかめつつ呟く。細くドアを開けて、外の様子をうかがってみる。水夫のひとりが、東の海を指差して叫んでいた。

「海賊だ! ワコゥの旗だ!」

 海賊、という言葉に、少年の全身は一瞬びくりと震えた。だが、通行証の旗を掲げていることを思い出し、安堵の息を吐く。しばらくは、海賊の船とのやり取りがあるだろうか。その間に、ズボンを履き替えてしまえばいい。そう心の中で結論を出した少年は、ベルトに手をかけた。

「面舵ぃ、一杯!」

 その声と共に、船が大きく傾いた。勢いで開いてしまったドアから、少年の目にゆっくりと空の雲が流れを変えるのが見える。

「総員、戦闘用意!」

 五徳の叫ぶ声がした。ばたばたと、水夫たちが船の左舷側へと集まっていった。少年は船室の床を転がり、壁に背中を打ってしまっていた。船室へ、五徳が駆け込んできたのはそのときだった。

「紫安先生! 海賊です!」

 船室の床に落ちた、濡れた白衣を拾い上げながら五徳が叫んだ。その顔は真っ青で、額には汗がいくつも浮かんでいる。

「五徳さん、海賊って……通行証があるから、大丈夫なんじゃないんですか?」

 酷く慌てた様子の五徳へ、少年が問いかける。だが五徳は、首を横へ振った。

「あの旗は、偽物です。海賊なんかに、利の一割を払うのが惜しくて……奴らが、別の商船の護衛で今近くにはいないという情報もありましたから、私は……」

 ぶるぶると白衣を握りしめながら震える五徳に、少年は呆然として立ち尽くした。

「に、逃げられそう、なんですか?」

 少年の問いかけに、五徳はまた首を横へ振る。

「荷を捨てれば、多少の速度は出るでしょう。ですが、相手は快速船です。勝負に、なりはしませんよ」

 五徳は船室の入口から外に目を向ける。少年も合わせて視線を動かすと、青く塗られた大きなマストがすぐ近くに迫っていた。

「そ、それでも、こんなこともあろうかと港で屈強な水夫たちを雇っておいたんです! 彼らなら、きっと」

 五徳の言葉が終わらないうちに、船室の入口へ水夫がやってくる。少年の悲鳴を聞きつけてやってきた、あの水夫だった。

「船長、先生、すまねえ。俺たちは、勝ち目の無い戦はしない主義でな。この船は、降伏する。悪く思わんでくれ」

 済まなそうに言う水夫へ、五徳も少年も絶望の面持ちになった。

「そ、そんな! 違約だぞ! 剣が折れ矢が尽きるまで、戦うのがお前たちの仕事だろう! それだけの、給金は払っているのだぞ!」

 普段柔和な五徳が、目の色を変えて怒鳴った。五徳の手の中で、白衣がくしゃくしゃになる。

「命あっての、物種でさあ。俺たちだって、無駄死には御免だからな。貰った金は大人しく返すから、今は、神妙にしててくれねえか?」

 詰め寄る五徳の手から、水夫が白衣を奪うように取ってから言った。くしゃくしゃになった白衣を、水夫は少年に投げ渡す。

「先生も、それでいいか? 大人しくしてりゃあ、悪いようにはされねえ。それは、俺が保証する」

 水夫の言葉に、少年はうなずくしかなかった。白衣の裾に腕を通し、襟を引いてしわを伸ばす。

「……わかり、ました」

 少年の口から、小さく同意の声が漏れる。同時に、船べりに板がかけられ、凶悪な面構えの海賊たちが次々とこちらへ渡ってくる。

「ようし、こいつらふん縛れ! 親分の命令だ! さっさと積み荷を全部、奪って来い!」

 指示を出す子頭に従って、海賊たちは一か所に集まっていた水夫たちに縄を打ってゆく。あっという間に後ろ手に縛りあげるその様は手慣れていて、少年は状況も忘れて見入ってしまっていた。

「子頭! あとは船室だけですぜ!」

「おう! 欲の皮の突っ張った商人五徳、連れてこいやあ!」

 そんな叫びを交わし合い、海賊たちが船室へと近づいてくる。ドアを閉めようと動きかけた五徳を、水夫が腕を掴んで制した。

「無駄な抵抗は、やめてください、船長」

 そう言って水夫は、五徳の腕を後ろへと回して縄をかけた。鮮やかなその手つきは、先ほど見たものとよく似ていた。

「あなたは……まさか……」

 驚きに目を見開いた少年に、水夫はにやりと笑った。

「察しがいいようで、何よりです、先生。俺は、彼らの、海賊ワコゥ一味の仲間でさあ」

 そんなやり取りをしていると、手下を連れた海賊の子頭が船室の中へと踏み込んでくる。

「おう、ご苦労だったな元次! お前のお陰で、事が早ええぜ!」

 水夫の名を呼んで、子頭はばんばんと肩を叩く。

「子頭、船に急に乗り組んできた医師の先生がおられまして……」

 元次の言葉に、子頭の眼が少年の方へと向いた。

「ああん? センセイ、だあ?」

 半月刀を手に近づいてくる子頭に、少年は立っていられないくらいに膝を震わせていた。子頭の全身から醸し出される、暴力と血の臭いのようなものが、恐ろしかった。

「けっ、小娘みてぇに震えてやがる。こいつが、本当に医師なのか?」

 がつ、と子頭の手が伸びて、少年の胸倉をつかんだ。

「あっ!」

 思わず上げた少年の声に、子頭は首をちょっと傾げ、それから少年の白衣をはだけた。

「てめえ、もしかして……」

 少年のシャツの襟もとに、子頭の右手がかけられる。シャツが引き破られたのは、一瞬のことだった。晒し布を巻いた少年の薄い胸板が、露わになる。

「……女、か」

 胸を隠すようにへたり込む少年、いや女の姿に、子頭の顔に卑しい笑みが浮かんだ。

「い…や…」

 か細い声を上げる女の視線が、助けを求めるように周囲を彷徨う。だが、後ろ手に縛られた五徳も、それに付き添うように立っている元次も、驚きに目を見開くばかりだ。

「たっぷり楽しんだ後で、サメの餌にでもしてやるか。船旅に、女はご法度だからな」

 わきわきと、手を動かしながら子頭が迫る。

「子頭、そいつは積み荷じゃなくて、船客ですぜ。親分の命令は、積み荷を奪う事だけの筈で」

「細けえことは、言うんじゃねえ! ここは、俺が任されてんだ!」

 声をかけた元次に振り返り、子頭が怒鳴りつける。それから子頭は、冷たい眼を女に向けた。

「脱げ。それとも、破られるのがお好みかい?」

 尻餅をついた姿勢の女へ、子頭が言った。女は観念したように俯き、のろのろとズボンのベルトに向かって手を動かす。右足、左足と順に、女の素肌が子頭の目の前に晒されてゆく。女が下に履いていたのは、ショーツだった。

「下も、全部だ……」

 子頭はますます卑しい顔になって、女を促した。じっと、女が子頭を見上げる。

「……脱いだら、五徳さんには酷い事、しないでくれますか?」

 声を震わせて、女が言った。

「ん? ああ……いいとも」

 子頭はちょっと考えるそぶりを見せたが、すぐにうなずいた。

「てめえが余計な手間取らせなきゃ、すぐに済むからよ。そうしたら、ちゃんと五徳の野郎は助けてやるぜ」

 子頭の言葉を受け止めて、女は顔を再び俯かせる。そしてゆっくりと、女の両手が腰へと伸びてゆく。

「何をしている、子頭」

 ふっと、女の鼻先に銀色の輝きが現れた。よくよく見れば、それは刃物である。女は目を見開き、動きを止めた。女の眼前に立つ子頭の股間の下に、いつの間にか銀色の刀身があった。

「お、親分……こ、これは……」

「俺の命令を破って女遊びとは、良い度胸だ」

 脂汗を浮かべる子頭の股座で、刀身が上に向かってゆっくりと動く。

「親分……! こ、こいつが、女が、船に、乗ってたから、つい……」

「お前のその汚いものを、サメの餌にでもしてやろうか? つべこべ言っている暇があるなら、とっとと船倉へ行け」

 子頭の背後から手が伸びて、その大柄な身体をぐいと押しのける。ショーツに手をかけたまま、女は現れた男を呆然と見上げた。

「……服を着ろ」

 先ほどとは真反対の命令口調に、女は呆然となりながらも慌ててズボンを上げて、シャツを入れて白衣の前を閉める。それから女は、眼鏡をずり上げて男を見た。

 切れ長の瞳に、シャープな顔つき。はだけたシャツの中は浅黒く、逞しい胸板がちらりとのぞいている。かなりの長身で、羽織った黒い羅紗のコートに包まれた肩幅は広くがっしりとしていた。短い黒髪をオールバックにした額には、ぱらりと一筋の髪が落ちている。眉は細く、顔だけ見ればどこかの貴族のようにも見えた。子頭を脅しつけたサーベルは、腰に差した鞘の中に仕舞われていた。

「服……着ました」

 じい、と見つめてくる男に、女は言った。

「お前が医師なら……」

 男は、言いながらコートの左腕をまくり上げる。女は、はっと息を呑んだ。

「これが、治せるか? 治せるなら、お前は助けてやろう」

 挑むように言う男の左腕は、肘の下あたりから脇近くまでが包帯に包まれていた。包帯の下からのぞく肌は青黒く、包帯の上からでもむっと嫌な臭いが鼻についた。

「それ、どうしたんですか?」

 女の眼の色が、変わった。恐怖の震えはぴたりと治まり、男の左腕を取って触診を始めている。

「一週間ほど前か。海軍の奴らと、戦になって射られた。矢に毒があったのかもしれん」

「熱い……早く治療をしないと、腕、切り落とさなくちゃいけなくなるかも」

「治せるか?」

 男の言葉に、女はただ腕を調べる。

「わからない。でも、努力はするわ」

 男の顔を見上げる女の瞳は、真摯な色を宿していた。

「……お前、名前は?」

「紫蘭。医師よ」

 ぐるぐる巻きになった包帯を解きながら、紫蘭は言った。

「……ここでするのか、紫蘭?」

「応急処置だけなら、ここでできる。あとは、もう少し揺れない場所で、しっかりと治すのよ」

 手を動かしながら、紫蘭は言った。

「元次さん。私のカバンを、取ってきてもらえる? 甲板に、置きっぱなしにしてきたから」

 紫蘭の言葉に、元次は男の顔を伺った。

「行って来い。ついでに五徳も、連れて行け」

 男が顎で指示を出すと、元次はうなずいて五徳を追い立て、足早に船室を去ってゆく。

「……酷いわね、これ」

 包帯の取れた傷口を見て、紫蘭が呻いた。矢じりを無理やり引き抜いたのか、左腕の皮膚は滅茶苦茶に敗れている。赤黒い傷口には、白い膿までわいていた。

「こんな傷で……よく、立っていられるわね」

 男の傷口を診ながら、紫蘭は感嘆の声を上げる。

「この程度の傷で、休んでいられないんでな。いつ治る? 今日か、明日か?」

 せっかちな男の言葉に、紫蘭は息を吐いた。戻ってきた元次からカバンを受け取り、中から消毒のアルコールと薬を取り出す。

「そんなに早く、治るわけないでしょ? ほっといて腐るほうが、たぶん早いわ。もちろん、そうはさせないけれど」

 紫蘭は言って、男の腕にアルコールを塗布して膿を布で取り除く。それから、薬を塗った別の布を患部へと当てた。

「痛っ……!」

 顔をしかめる男に、紫蘭はにっこりと微笑む。

「しみるわよ、この薬」

「……先に言えっ!」

 恨みがましい眼で、男は紫蘭を見やる。その表情に、紫蘭はどこか懐かしいものを感じた。

「おい、治療は終わりか?」

 少しの間、紫蘭の心はここにあらずの状態だった。男の言葉にはっと我に返ると、紫蘭は首を横へ振る。

「今はいったん、傷口を塞いでおくだけ。陸地に上がったら、また開くから」

 頭に浮かんだ想いを、紫蘭はすぐに打ち消した。揺れる床の上で、紫蘭は素早く縫合を済ませると新しく清潔な包帯を男の腕に巻いた。それで、応急だが処置が終わる。

「これで、おしまい。でも、あんまり動かさないように……きゃあ!」

 紫蘭の言葉が終わらないうちに、男が紫蘭の身体を右腕だけで抱え上げた。

「終わったなら、さっさと俺の船に戻るぞ。俺は時間を無駄にしない主義でな。元次、カバンを持って行ってやれ」

 言いながら、男はさっさと歩き出す。

「降ろして、ねえ、降ろしてよ! 別に、自分で歩けるから!」

 足をばたつかせる紫蘭であったが、男は我関せずと船べりに渡された板の前まで歩いた。

「そこ、自分で渡れるなら降ろしてやってもいいぞ」

 涼しい顔で、男が言う。紫蘭の視界には、ぐらぐらと揺れてたわむ渡し板と船体に挟まれてぶつかる波が見えた。

「……運んで、ください」

 硬直する紫蘭に、男がふっと微笑む。ぎゅっと男の服を掴む紫蘭の手が、固く熱い手のひらに包まれる。

「怖いなら、目、閉じてろ」

 男の声に、紫蘭は目を閉じる。ふわふわと頼りない感覚の中で、風が紫蘭と男を撫でるように吹いている。

「そういえば、あんたの名前、聞いてなかった」

 目を閉じたまま、紫蘭がぽつりと言った。

「……ワコゥ。そう呼ばれている」

 男は静かな声で、そう言った。吹き渡る潮風よりも、男の声は心地よく紫蘭の耳をくすぐるのであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ