『おまえ自身は、どうしたいって思ってる?』
「で、なんで俺までついて行かなきゃならねえんだよ」
「うるさいわね。いいでしょ別に。どうせ暇なんだから」
「そりゃ暇だけど、おまえがそれを決めんなよ」
高層ビルが立ち並ぶビル街を抜けて、マンションや小さなスーパー、いくつかの一軒家が並ぶ住宅街に移動。時間が夕方に差し掛かっていることもあり、買い物帰りらしき主婦や子供と何度もすれ違う。
すれ違うたびに目を向けられてくすくす笑われたり、子供には指を差されたり。
はっきり言って、かなり恥ずかしい。
「なあまゆ。歩きづれぇし、いい加減手を離さねえか?」
「駄目。離して逃げられると困るから」
すました感じで返事をしてきたものの、まゆの指先は小刻みな震えを繰り返していた。
仕方なく、こっちからも手を握り返してやる。まったく、こんなに嘘の下手な奴がどうやって他の奴らを騙せてるのかが不思議だ。
「まゆ、怖いなら俺が代わりに話してやろうか?」
親切心のつもりだったが意地張りスイッチに触れちまったらしく、まゆは手を離すと、じっと俺のことを睨みつけてくる。
「怖い? 誰も怖いなんて言ってはいないのだけど。自分の考えを私に押し付けようとしないで。だいたい、どうして私が――」
「はいはい、わかったわかった。それでいいから」
長くなりそうだったから適当なところで区切る。こいつの扱い方もだいぶ慣れてきた。
「で、実際のとこどうすんだよ」
あらためて聞きなおしてみると、まゆは急に口を閉ざす。やっぱり、無駄に噛みついて問題から逃げたかっただけか。
「……智也が代わりにっていうのは遠慮しとく。この問題はたぶん、私が自分の手で解決しないと意味がないと思うから。だから、智也は口を挟んだりしないでね。何も言わずに、後ろで見ていてくれたらそれでいい。それだけで、安心する事が出来るから」
「……わかったよ」
まゆとの会話はそれで終わった。会話が途切れたとか、かける言葉が見つからないとは違う。しっかりと覚悟を決めているなら、俺が声をかける必要なんてないと思ったからだ。むしろ余計なことを言って、まゆの覚悟を乱してしまうほうが悪い。
「ついた。ここの六階」
一際大きなマンションの前で立ち止まって、まゆはじっと上のほうを見上げる。
備え付きのエレベーターに防犯カメラ。一目見ただけで、俺が住んでるおんぼろアパートなんかとは明らかに違うのがわかる。
マンションの入り口はオートロックになっているようで、玄関の横に設置されたインターホンを押して部屋番号を入力すると、受話器のそばの液晶画面にぱっと光が灯る。
「おいおい、なんかいかにもお金持ちって感じだけど、俺なんかが入って大丈夫なのかよ」
「平気でしょ、私が一緒だもの。それにこのくらいの設備はそう珍しいものでもないよ?私が住んでるマンションにも同じような設備が取り付けてあるもの。まあ、私が住んでいるところの方がもっと厳重だし質もいいのだけど」
「てめっ、さりげなく金持ち自慢かよ。ひがむぞこら」
「ひがまれるようなものじゃないよ。それだけ他人と距離を取って、信用していないって事なんだから。むしろ、私は前に智也と行った田舎みたいな場所の方がいいな。あれだけ開けた造りになっていても問題ない。信用する事が出来るなんて、単純に憧れる。あんな良い環境で育って、なんで智也はこんなひどい性格になっちゃったの?」
「知らねえよ」
「あ、繋がった」
清々しいくらいに俺を無視してくれたまゆの目の前。液晶画面の映像が切り替わり、真奈美の姿が画面に表示される。
「こんにちは真奈美ちゃ……」
『いらっしゃーーい、こころ。待ってね、すぐ開けて……あれ、真っ暗? 故障かな? もしもーし。こころ、そこにいるんだよね?』
真っ暗なのは当然だ。こちらを映すカメラレンズを、手のひらでぎゅっと押さえつけているんだから。
「なにやってんだ、おまえ」
「ごめん智也。ちょっと、代わりに応対してくれる?」
「ああ? なにも言わずに後ろで見てりゃいいんじゃなかったのかよ」
「そうだけど、どっちで応対したらいいかわかんないんだもん。いきなり私を出したら混乱させちゃうだろうし、今だけこころの口調って言うのもそれはそれでおかしいし」
「んー、わからなくはないけどおまえなぁ……」
『あれ? こーころ。どうしたの? 聞こえてない?』
「ほら。待たせると悪いし、早く早く」
「ちょっ、おまっ、馬鹿。そんないきなり」
カメラに移らないよう身体をずらすと、まゆは手のひらで押さえていたレンズをぱっと離す。液晶画面の中の真奈美と目が合う。
『えっ、天城君? どうして?』
「よ、よう真奈美。久しぶりだな。えっと、まゆ。じゃなかった。こころがおまえに話があるって言ってんだけど、ドアが開かねえからさ。悪いけど開けてくれねえか?」
『うん。話があるってのは電話で聞いたから知ってるけど、こころ、一緒にいるんだよね。なんで天城君が? あ、天城君のことが嫌いとかそういう意味じゃなくてね』
「あー、それはあれだ。こいつがどっちの口調で話せばいいかわからないってぇっ!」
いきなり手加減なしのボディブローをまゆに叩き込まれて、液晶画面から無理やり引き離される。
「なにすんだこの馬鹿」
「馬鹿はあなたの方でしょ! 何を問題発言しかけているの。私がさっき言ってた言葉、理解出来なかった?」
「どうせ後でばらすんだろ。だったらいいじゃねえか。第一おまえが応対しようとしない理由とか、そんな言い訳都合よく思いつかねえよ」
「だからって限度ってものがあるでしょ。真奈美を混乱させたくないって私の気持ちがわからないの?」
『天城君、誰と話してるの? なんだか声がこころに似てるけど。まあ、とりあえず開けるから部屋の前まで上がってきてよ。部屋番号はわかるよね? インターホンの呼び出しに使ったのと同じ番号』
無駄に噛みついてくるまゆとぎゃあぎゃあ騒いでいるうち、液晶画面が唐突に真っ黒に戻る。ロックが開き、自動ドアがゆっくりと左右に開く。
「よ、よし。予定どおりちゃんと開いたな」
「予定とはだーいぶ違ったけど、結果だけを見ればね。はぁ、もういいっ。ほら、行こう智也。真奈美に本当の事を話す。そうすれば変にこそこそせず、どうどうとあんたを叩けるもん」
「……主旨変わってねえか?」
「いらっしゃい。天城君、こころ。狭い家だけど上がって上がって」
「ああ、俺の家の倍はありそうだけどな」
「……お邪魔します」
真奈美が住む部屋の玄関口。まゆはぽつりと呟いて脱いだ靴を玄関の端に寄せる。
変に隠さずしっかりと話す。そう決めてはいるみたいだけど、それでも、緊張してないわけじゃないんだろう。
「ん、と、とりあえずあたしの部屋に行こう。お母さんたち今日は帰りが遅くなるって言ってたし、変に気を使わなくてもいいからね」
「うん。ありがとう」
言葉づかいを気にしてるせいかまゆの口数は必要最低限で、態度もどこかよそよそしい。
逃げるようにまゆがその場を後にすると、真奈美がくるり。俺のほうに向きなおる
「あ、天城君。こころ、あたしのことを何か言ってなかった?」
「なにかって?」
「だから不満とか悪口とか。だ、だって明らかに怒ってるよねこころ。インターホンの時も顔を見せてくれなかったし、今も不機嫌そうだったし……」
「どうだろうな。真奈美のほうに身に覚えがないなら、ただの勘違いなんじゃねえか?」
俺に振るな。と、心の中で返事を返す。ただまあ、気持ちがわからないわけじゃない。あの態度は俺から見ても明らかに不自然だ。すぐに理由を説明するつもりだろうから、別に構いやしないのだけど。
「ああそうだ。俺は話に口を挟む気はないから、困っても俺に振るのは止めてくれよ」
「どういうこと?」
「すぐわかるよ。ほら、行こうぜ」
ぐだぐだ言ってもしょうがないし、まゆが話すと言っている以上、俺がこれ以上なにかを言うのは野暮だろう。
真奈美は訳がわからないらしく、不思議そうに首を振る。そうして、自分の部屋に案内をしてくれた。
部屋の前。まゆは俺たちが来るのを待っていたらしく、じっとそこに佇んでいた。
「先に入って待っててくれても良かったのに」
「そういう勝手は良くないから」
思わずうわぁーっと苦笑いを浮かべてしまう。
駄目だこいつ。どっちを出したらいいかわからなくなった挙句、完全に自分を見失ってやがる。
「そ、そう?」
若干引きつった笑みを浮かべながら真奈美が部屋の中に。それに続いてまゆ。最後に俺。
同い年ぐらいの女の部屋なんて始めて入ったけど、あんまりにも物が無さすぎて驚いた。
白を基調とした室内には薄いクリーム色の棚や洋服入れ、化粧台らしき台があるだけで、ゴミはおろか雑誌や小物、人形やぬいぐるみの類一つ見当たらない。
「なんにもねえ部屋だな。なんつうか、無駄に広いって感じ」
「ああ、こころの部屋は小物やぬいぐるみがたくさんあるものね。あそこに比べたら、確かにこの部屋は少し殺風景かも」
「ぬいぐるみがたくさん? こいつの部屋にか?」
「うん。ひょっとして入ったことがない? こころの部屋、すごいんだよ。もう本当にぬいぐるみだらけって感じで、もふもふの子犬とか、両手で抱えないと持てないくらい大きなうさぎとか。こころみたいな小動物系の子ならそういう部屋でも可愛いって思うけど、あたしには似合わないでしょ。ま、ぬいぐるみ自体は嫌いじゃないんだけどね」
冷静な、冷めきった顔でぬいぐるみを撫でるまゆ。駄目だ、シュールすぎておもしれえ。
「ぐっ」
「そんなことより真奈美。話があるんだけど、いい?」
こっそり近寄ってきたまゆに腹を殴られその場にうずくまっていたら、まゆが早々に話を切り出そうとしていた。部屋の隅のほうに移動して、あぐらをかいて見物。後ろで見てればいいって言ってたし、この辺で話を聞いてりゃそれでいいだろう。
「うん。電話で言ってた大事な話っていうのだよね。って、えっ?」
一瞬、真奈美がどうして戸惑った声を上げたのか、俺にはよく理解が出来なかった。でもほんの少しだけ間を置いて、すぐに気づく。こいつ、『まゆ』を隠すのを止めてやがる。
「いきなりの話で驚くかもしれないけど、私はこころじゃないの。いわゆる二重人格というもので、こころとは別人。ううん、別の人格で、しばらく前からこころと入れ替わっていたの」
「はぃ? えっ? まゆ? ギャグ?」
「ギャグじゃなくてまゆ」
いや、たぶん聞き間違えたわけじゃないと思う。
「えーっと、なに? どっきり?」
「どっきりでもない! とにかく、いいから聞いて。真奈美。私は今までずっとこころって名乗ってきたけどそれは嘘で、本当はまゆって名前なの。あ、でもこころがいなかったわけじゃないよ。三ヶ月ぐらい前まではこころは本当にいて――」
「ちょ、ちょっと待って。ストップストップ。何だか頭がこんがらがってきて……えっと、まゆさん? は、こころとは別人なんだよね? 前からこころと入れ替わってたって、時々こころの代わりに姿を見せていたってこと? あ、姿を見せるって言うのも変な話だけど、その、人格が入れ替わっていたというか」
「ううん、時々ってわけじゃないよ。私が生まれてからこころが表に出てくる事は一度もなかったから、この数ヶ月、私がずっとこころの代わりを務めてたの」
「待って! もう一回ストップ! なんかもう突然すぎて頭が……」
「真奈美。気持ちはわかるけど少し落ち着いて。別に騙したりからかおうなんてつもりはないんだから」
「そ、そんなこと言われても。二重人格ってもうその時点で意味がわからないし、第一、数ヶ月前から別人がこころのふりをしてたって……」
額に手を当てて、真奈美は身体を前にかがませる。じっとしたまま身動き一つ取らず、考えごとを続けているみたいだった。やがて額から手を離し、あらためてまゆへと視線を戻す。
「あのさこころ。じゃない。まゆさんは、どうしてそれをあたしに話そうと思ったの? その、まゆさんの話だとずっと前からこころのふりをしてたんだよね。だったらずっとそれを続けてれば良かったんじゃないの? そもそも代わりを務めてるって、それが本当なら、こころは今どうしてるの?」
「それは……」
本当のことを言うべきかどうか。一瞬、まゆは迷っているように見えた。少しだけ目が泳ぎかけて、でも、やがて覚悟を決めたのか、静かに声を漏らす。
「今は、もういない」
「えっ?」
「私が生まれてまだ三ヶ月足らずだけど、その間、こころはいつも私の胸の中に居てくれたの。眠り続けていたから話をする事は出来なかったけど、鼓動はずっと感じていた。でもある日、その鼓動を感じられなくなってしまったの。それが、先週の金曜日」
「先週の金曜日? それってこころが行方不明になって、天城君が見つけてくれた」
「うん、あの日だよ。こころが居なくなって、自暴自棄になりかけて、智也が私を見つけてくれて」
見つけたというより、俺が見つけそうな場所で待っていた。そのほうが正しいと思ったけど、とりあえず黙っていた。口を挟まないってのがまゆとの約束だったから。
「あの後色々な事があって、でも、私はこころを演じ続けようって思ってた。そのほうがみんなのため、自分のためになると思っていたから。でも、そこにいる馬鹿が言ってくれたの。いい加減にしろ。現実から目を逸らすな、自分が誰かをしっかりと受け入れろって」
「…………」
「目が覚めたとは少し違うかな。覚悟を決めたって言うのが正しいと思う。私が『まゆ』だって事を打ち明けて、みんなに知って欲しい。わかって欲しいって思ったの。それに、こころの事も知って欲しいって思った。死んでしまった事すら気づいてもらえない。自分が居なくなっても、みんな、当たり前に日常を過ごしていく。そんなの、いくらなんでも酷すぎると思うから」
「それは……」
意味がわからない、訳がわからない。そんな言葉を繰り返していたのに、いつの間にか真奈美は口を閉ざし、じっと瞳を下に伏せていた。そうして、ゆっくりと顔を上げる。
「あの、まゆ……は、ずっと私と一緒に過ごしてたんだよね。こころのふりをしてただけで、友達として、ううん、親友として一緒にいてくれた」
「……うん」
「なら一学期の終わり。期末テストの点数を見せ合ったのを覚えてる?」
「覚えてるよ。少しだけ真奈美の点数の方が高くて、それがすごく悔しかった」
「二人で浴衣を着て夏祭りに出かけて、花火を見たのも?」
「うん、それも覚えてる。真奈美、全然着付けが出来なくて、全部私がやってあげてたよね」
「少し前、屋上で天城君と一緒にいるところを見つけてからかったのも?」
「覚えてるよ。でも、あの時言った言葉は少しだけ嘘になるかな。智也との関係、変な誤解をされてるけどどうしようって言うの」
「あ、やっぱり付き合ってたんだ」
「ううん、あの時は違うよ。でも今はそう……かな」
照れ隠しをするみたいに小さく笑う。というか背中がかゆくなるし、この場に居づらくなるからそういう話は止めてくれ。
「……そっか。じゃあ無理してるように見えてたのは、こころのふりをしてたからなんだ」
「うん、ごめんね。ずっと騙してて」
「いいよ。あたしだって、突然そんなことになったらどうしたらいいかわからなかったと思うもん」
まゆの肩に手を置いて、真奈美は小さく深呼吸をする。
「ねえ、まゆ。こころのことなんだけど、死んだっていうのは……その、本当なんだよね。疑ってるわけじゃないけど、でも、もう会えないってことなんだよね」
「うん。眠っているだけ、休んでいるだけだから、こころはいつかきっと目を覚ましてくれる。私の代わりに表に出てくるようになって、話をしたり、色々な事を教えてくれたり。そんな事を、私もずっと夢見ていたんだけど」
「まゆ……」
小さく肩を震わせるまゆの髪に手を触れて、真奈美が優しくそれを撫でる。
少し、複雑な気分だった。まゆが俺以外の相手に気を許している光景が、少し複雑。
そんなことを思いながらじっと二人のことを見ていると、突然まゆが真奈美の手を退け、俺のほうに視線を向けてくる。
「あのさ、智也。今日は付き添ってくれて本当にありがとうね。すごく感謝してる。でも、悪いけど先に帰ってもらってもいい?」
「ああ? なんでだよ。おまえ、まだしばらくここにいるつもりなんだろ。いいよ、もう少しぐらい付き合ってやるって」
「迷惑をかけるとかそういう事じゃなくてね。その……なんというか、先に帰ってほしいって事なんだけど」
親切心で言ってやったつもりだったのに、なんだかまゆの声はとても不機嫌そうなものに聞こえた。
「だからそれがなんでなんだよ。訳がわかんねえし理由ぐらい言えって」
「……あのさ」
そう言ってまゆは小さな溜め息を漏らす。よく見れば目つきもいつもどおり、冷徹そうな鋭いものに変わっていた。
「まゆ。たぶんあたしも、今あなたと同じことを考えてるだろうから言うの手伝おうか」
「うん、お願い。行くよ、せーのっ」
「「少しは空気を読め、この馬鹿」」
どぎつい性格の二人組みにマンションから追い出され、仕方なく家に帰ってきたその日の夜。田舎で暮らすじじいとばばあに電話を入れて、そっちに帰ることを打ち明けてみた。
以前に帰るかも、と匂わせることを言っておいたから特別驚かれることはなかったけど、本当にいいのか、とばばあは確認するように何度も同じことを繰り返してきた。
『あんたね、私らを心配して帰ってくるって言ってくれるのは嬉しいけど、まゆちゃんの事はいいのかい?』
「しつけえな、嬉しいならそれでいいじゃねえか。そりゃまゆと会えなくなるのは嫌だけど、ぐたぐだ言っても仕方ねえだろ。第一、あの女が帰ってくるかもって言うならこんなぼろアパートに居続けたくねえよ」
『美雪が帰ってくるかもか。智也、その事だけど、少しいいかい?』
「……なんだよ」
瞬間、ぴくり、と全身が硬直した。受話器を握る指先に無駄に力がこもって、胸の奥のほうからふつふつとなにかが沸きあがってくる。
『あんたはあの子に裏切られたと思っているみたいだけど、あの子はたぶん、最初から家を出るつもりでいたんだと思うよ。あんたが住んでるそのアパートだけど、名義が智也の名前に変わっているからね』
「ああ? どういう意味だよ」
『未成年だから支払いはこっちで行っているけど、そこの家主は智也になっているって事。手続きはあんたが東京に引っ越す数日前に行ったから、元々アパートを明け渡す予定だったんだろう。ご丁寧に、私らの銀行口座に大金まで振り込んでさ』
「……だからなんだよ。金を出してるから俺を大事にしてたとでも言うつもりか」
『そうじゃないよ。そうじゃなくて、ひょっとして手切れ金じゃないかって思ったんだ』
「手切れ金?」
『ああ。お金は払うから母親としての義務は放棄する。最初から放棄してたようにしか思えないけど、本人は、あんなんでも母親のつもりだったんだろう。けど、結局ははした金で智也や私らとの関係を絶とうとした。いや、絶ったと言いきってもいいかもね。あんたを東京に連れて行ったのは気まぐれか、あるいは田舎から外に出してやろうと思ったのか。いずれにせよ、あんたや私らの気持ちを何一つ考えていない、最低の行いなのは変わらないけどね』
「あの女の性格が最低なんてのは言われなくてもわかってるよ。で、何が言いてえんだよ」
『智也。あんた、今も美雪の事を引きずっているんだろう』
「……っ」
言葉の直後、頭の中に電流が流れたような気がした。
『意識して、いつも頭の片隅に置いている。嫌っていて、でも好きで、鎖みたいに心を縛り付けられている。でもね、もう大丈夫なんだよ、智也。あのときは帰ってくるかもなんて言ったけど、美雪はたぶん、そのアパートになんて帰ってこない。どこか別の場所で第二か第三、第四ぐらいの人生を歩むつもりだろうさ』
「だから帰ってこなくていいとでも言うつもりかよ」
『そこまでは言わないよ。でも美雪から逃げるための口実に私やじいさんを使うのはちょっとねぇ』
「……っ。ならどうしろって言うんだよ! だいたい、帰ってきてくれって言ったのはてめえのほうじゃねえか。なのに急に手の平を返して――」
『帰ってくるなじゃなく、言い訳を正当化するために私らを使うなって言ってんだ。
それで智也。本当のところどうなんだい? 言い訳も奇麗事も全部なしで、おまえ自身は、どうしたいと思ってる」
「どうしたいって、んなもん帰るつもりに決まってんだろ。なんでわざわざそんなこと聞くんだよ、うっとうしい」
がちゃん、と思いきり電話を切る。
ったく、言い訳とか綺麗事とか、なに妙なこと言ってんだか。じじいとばばあが心配だから帰ってやる。そう言ってやってんだから、それでいいじゃねえか。