『そうじゃなくて、そうじゃないけど……凄い馬鹿』
灰色交じりの青色に、にごった雲模様。
涼やかな秋風が流れる学校の屋上で、あぐらをかきながらじっと空を見上げてみる。
空なんてどこも変わらないと思っていたけど、東京の空は田舎とは随分雰囲気が違って見えた。
「……変わったのは俺のほうか」
欠伸をするつもりにもならない。ごろりとアスファルトの上で横になり、あいつが階段を上がってくるのを待つ。
「いたいた。智也、やっぱりここにいたんだ」
しばらくして、聞きなれた女の声が聞こえてきた。知りあってまだ二、三週間。なのに、昔からの腐れ縁みたいな気がするから不思議だった。
なんて答えを返そう。少しだけ考えて、
「またおまえか。しつこい……」
一瞬、おまえと呼んでやった女がきょとんとした表情になる。でも意図を読み取ったのか、すぐに口元を緩ませる。
「しつこいって、そう思うなら大人しくしていて。あなたが変にサボったりしなければ、私だってこんな事をしなくてすむんだから」
「やりたくないならやらなきゃいいだろ」
「委員長って立場上、そういうわけにもいかないの。ほら行こう」
そう言って委員長。いや、まゆは俺の肩を掴むと強引に自分のほうに引っ張ろうとする。
「立場だなんだの言っても、結局は自分の点数アップが目的だろ」
「それはそうでしょ。でなきゃ、誰がこんな面倒な事を」
謙遜も控えめな気配も感じさせない、本当に、心の底から思っていそうな声。
肩にかかっていた髪を指で弾く仕草を見ているうち、思わず噴出しそうになってしまう。
「おまえさ、ホントいい性格してるよ」
「そう? それはありがと。それじゃ、しばらく休んだ後に教室に戻ろ」
そこで限界だった。顔を見合わせてまゆと二人、思わず笑い声を上げてしまう。
「まゆ。おまえなー、そこは『さっさと』教室に戻ろだろ。なに都合よく言うことを変えてんだよ」
「あれ、そうだったっけ。ごめん智也」
「まあいいけど……仕方ねえな。委員長のくせに」
「うん。物凄く真面目な子だったのに、智也に影響されたのかな。なんだかサボリ癖がついちゃったみたいで」
そう言って、まゆはじっと空を仰ぐ。その姿にはどこか幼い赤ん坊のような純粋さ。そして、強い疲労感が混じっているように見えた。
「で、大丈夫だったのかよおまえ。無断じゃないとはいえ、親の許しも得ずに二日間も外泊。帰った後に相当しぼられたんじゃねえか?」
「うん、物凄くいっぱい怒られた。こころも私も、今まで一度だってそんな悪い事はしたことがなかったから」
「確かに。箱入り娘っぽかったもんな。おまえから聞くこころの話や、普段の様子を見てた感じだと」
「箱入り娘。その考えは間違っていないと思う。お父さんも、お母さんも言ってたもの。『わたしたちにとってあなたは、こころはたった一人の宝物。大切な子供なんだ』って、そう言って抱きしめてくれたから」
自分の胸元に手を触れて、まゆは小さく首を横に振る。
「おかしな話だよね。私はこころじゃないのに、お父さんやお母さんは私を大切な宝物。たった一人の子供だって言ってくれたの。変な感じだったけど、でもすっごく嬉しかった。だから思ったんだ。この人たちを悲しませたくないって。ううん、お父さんやお母さんだけじゃない。真奈美や真奈美と一緒に私を探してくれていた人たち。友達やクラスの仲間。こころを好きでいてくれるみんなを、誰一人悲しませちゃいけない。こころだって、きっとそれを望んでいるだろうから」
今の自分がこころにしてあげられること。
そんな風に言えば聞こえがいいけど、どこかすっきりとしない。
こころを失ったことで胸に大きな風穴が出来て、こころが抱えていたアレルギーで体調を崩して、ひとしきり眠って。結局まゆは自分の力だけで立ち直ることが出来た。
こころを失ったショックで自分を傷付ける。自殺する。そんな不安があったけど余計な心配だったみたいで、まゆは今も元気な顔を俺に見せてくれている。
いや、むしろ今までのまゆに比べたら元気すぎるくらいで……。
「みんなを悲しませちゃいけない。悲しませたくない。そうやって、おまえはまた自分を犠牲にするのかよ。自分が一番泣きたいくせに……戻ったら、またいつもどおりの猫かぶりってわけか」
「猫を被るって、ことわざの使い方が……う、ううん。猫を被ってるわけじゃないって」
こちらの意図を読み取ったはずだけど、今度は口元を緩ませようとはしなかった。
「前にも言ったと思うけど、私の素はあっちなの。違うのはむしろ、今あなたと話をしているこちらの方なんだから」
嘘をつけ、と思った。俺のくだらない遊びに付き合ったり、自分の悩みや思いを馬鹿正直に話したり。そんなのは俺の知っているまゆとは違う。俺の知っているあいつはもっと自由奔放で、捻くれていて、ことあるごとに俺に悪態をついてきていた。顔を合わせれば嫌味ばかりで、お互いの弱みを握り合っていて、お互いの弱さを知っていて……。
まゆの態度は気に入らないけど、まゆが自分を保ち続けてこられたのは、ああいう態度をとれる相手がいるからなんだと思う。
腹を割って話が出来る。弱さを見せてもいい。こころのいない悲しみ、寂しさを隠さなくてもいい相手。
「…………」
「どうしたの智也。違うのはこっちとか、悪ぶってるってことか? って聞いてきてよ。そしたら私がそれについては『複雑な事情』で納得して欲しい。理由は厄介者だからって答えるから。あれ? 合ってるよね? 確かこんな言い合いをしてた記憶があるんだけど」
でも、こんなのは俺の知っているまゆじゃない。今のまゆは明らかに異常で、このまま放っておいたりしていいはずがない。だけど、なにが出来る?
まゆのために、こころのために。俺みたいな……捻くれた野郎が。
「なーるほど、大体の事情はわかったわ。私がたまたま病院を休んでいた日にそんな大事が起こっていたなんて驚いたけど、君の変わりように比べたらたいしたことないか」
精神科の診察室。まゆのためになにが出来るかがわからなくて、俺はあの人に、水野とかいう精神科医の女に助けを求めていた。
喫茶店で会ったときは真っ黒な薄手の上着に高級そうなバッグという、おおよそ医者とはかけ離れた格好をしていたから、白衣姿で椅子に腰掛ける様が逆に新鮮なものに見える。
「さて天城君。君の考え自体はすごく良いことだと思うよ。世の中というのは、やっぱり助け合いの精神が一番大事だと思うからね。でも、とりあえず最初に言っておきたいことが二つ。一つ目、病院に迷惑をかけるな。聞いたわよ。金曜日に変な子供が、水野先生がいないかって夜間の受付に駆け込んできたって。しかもいないとわかったらふざけんなって大声をあげる始末。で、今日も似たようなことを言って乗り込んできたと。まったくこっちは仕事中なんだから、天城君のために時間を割くにもそれなりの手順や待ち時間が必要なの」
「あーあー、それについては悪い。謝るよ。けど、そっちの都合に合わせて待ってやっただろ。診察待ちってことで、何十分もなんにもねえ廊下で時間潰してさ。だから、まゆのためになにをしてやったらいいか方法を」
「はい、ストップ。ここで最初に言っておきたいことの二つ目。天城君。あなた、私が未来から来た青狸じゃないのは知ってるわよね」
「は? なに言ってんだあんた」
「だからね、助けて欲しいと言われてもそう簡単に最善策は出せないし、出したくもないってこと。普段は全く関わろうとしないくせに、都合が悪くなったときだけ頼るのはよくないでしょ。そういうわけで、普通なら門前払いをするところなんだけど――」
「……っ。わかったよ。確かにこんなときだけ頼るってのは虫が良すぎるよな。あんたに助けてくれなんて言ってもしょうがねえし、俺はもう帰るわ。時間取らして悪かったな」
「いや、待て待て待て待て。待ちなさいて」
椅子から立ち上がってとっとと帰ろうかと思ったら、血相を変えていきなり声を荒立ててきた。
「急に物分かり良く帰ろうとしたりしない。これで天城君を追い返したりしたら、まるで私が性格の悪い嫌味な女みたいじゃない」
「ああ? 違うのかよ?」
「違う違う、全然違う。人の話は最後まできちんと聞きなさいって。普通の人ならやらないだろうけど、私は人が良いから特別に協力してあげるって、そう言いたかったの。おわかり? アンダースタン?」
取り繕うように、言い訳するように精神科医の女が必死に言葉を重ねてくる。つうか、この人の言ってるのが仮に本当だったとしても、
「……あんためんどくせぇ」
「む、ひどい言い草。でもまあいいか。ともかく、まゆちゃんはこころちゃんが消滅しても尚、彼女を必死に演じようとし続けている。天城君は、それに大きな不安を抱えているわけだ」
「まあな。べたべたってほどじゃないけどやたらと積極的に話しかけてくるし、正直いままでと違いすぎてて調子が狂う」
「ふぅん、嬉しくないんだ。せっかくまゆちゃんが君に心を開いてくれたのに」
「心を開くとは少し違うだろ」
「えっ?」
「なんていうか、取り繕ってるみたいなんだよな。今日のことだって、今までのまゆならくだらない。馬鹿馬鹿しいとか言って、二言三言悪口を言ってくるはずなのに、変に悪乗りして話を合わせたりしてさ」
「悪乗りってわけではないでしょう? 天城君の遊びに付き合ったというのが真相だと思う。そんなことをした理由は、嫌われたくなかったから?」
「あ? どういう意味だよそれ」
「だからね、こころちゃんという文字通りの心の支えを失った今、まゆちゃんにとって君との関係は命綱みたいなものなの。綱が切れれば奈落の底まで真っ逆さま。失いたくないって思いが前に出すぎて、嫌われたくないからつい尽くしちゃうと。良かったわね天城君。この調子なら彼女、本当にべたべたしてくれるようになるかもよ」
「そんなことされても嬉しかねえよ。第一、嫌いになんかなるわけねえっつうの」
「お、のろけがでたね。ご馳走様です」
「うっせえよ馬鹿。てか、なんで俺との関係が命綱になるんだよ。まゆを知ってるって意味じゃあんたも同じだろ」
「んー、同じというのは無理があるかな。あの子は私を医者としてしか見てないし、私があの子を見ている目も、あくまで、患者としてのものだもの。ほら、あの子はこころちゃんを特別な目で見られたくないと言っていたでしょ」
「ああ。それと、私自身は普通じゃないから変な目で見られても構わないとか言ってたな」
「その言葉、本当だと思う?」
「あ?」
「だーかーら。まゆちゃんは本気で、心の底からそう思っているかって聞いてるの」
「それは……」
問いただされて、思わず言葉に詰まる。確かにあいつは、まゆは普段からやせ我慢ばかりする奴だった。そうだ。考えてみれば、最初に俺に話しかけてきた理由自体がそれだったじゃねえか。俺がこころのことを知らないから。『まゆ』を表に出しても変な目で見られたりしないから、だから自分をさらけ出してきた。
けど病院で偶然まゆに出会って、こころのことを知って……確かに驚きはしたけど、あいつへの態度や見方が特別変わったわけじゃない。
多重人格だろうとなんだろうと関係ない。まゆはまゆで、こころはこころだ。
二人が頻繁に入れ替わるって言うなら面倒もあるだろうけど……二度と、こころが表に出てこられないのなら。もう、こころがどこにもいないって言うのなら。
「なあ先生。一つ聞きたいんだけどあいつを、まゆをこのままにしておいていいと思うか?」
「うん? 以前までのまゆちゃんに戻って欲しいんじゃなかったの?」
「ああ、そりゃ戻って欲しいよ。けどそうじゃなくてさ、あいつに、このまま『こころ』を続けさせていいのかって話。俺との関係を命綱にして嫌われないために必死って、俺をこころの代わりにしてるだけな気がするんだよ。自分では立ち直ったつもりでもなんにも変わってねえ。昔のことを何時までも引きずり続けてるだけ。そうして、ことあるごとに昔のことを思い出して落ち込んだりイラついたり」
胸の奥のほうにぐさり。刃が突き刺さったような気がした。
偉そうに言えた義理じゃないのはわかってる。自分じゃ立ち直ったつもりでも、昔のことを何時までも引きずり続けてるって、まるっきり俺自身のことじゃねえか。
馬鹿なことを言ったから忘れてくれ。
そう言おうと思ったら、精神科医の女がぷるぷる肩を震わせていた。なんだ? この人も俺と同じで面倒な持病持ちか?
「天城君!」
「んだよっ」
興奮しきった様子でいきなり俺の手を握り締めようとしてきたから、とりあえずぱちんと振り払う。まゆ以外の奴に手なんか握られても嬉しくねえ。
「ああ、ごめんごめん。ちょっと感動して気持ちが高ぶっちゃって。いやいやでもね、わたしゃ嬉しいよ。喫茶店で話してたときは小憎らしい糞がき、もとい相当自分勝手なタイプだと思ってたのに、そんなことを言ってくれるだなんて」
「言い直してもフォローになってねえ。つうか、良い性格してんなあんた」
「あらいやぁね。そんなお世辞言わなくてもいいのに。っと、まあ冗談はこれぐらいにしておくとして、まゆちゃんのことか」
相変わらず、ふざけてるときと真面目なときの切り替えが激しすぎる。目を伏せて考え込んでいると思ったら、急に俺のほうに視線を傾けてきた。
「医者として考えた場合、今の状態を出来る限り保ち続けてあげたいというのが本音かな。
正直、あの子が何の支障もなく日常生活を過ごせているのは奇跡に近いと思うの。こころちゃんの消失を認めていながら正気を保っているなんて、天城君と出会う前のまゆちゃんからは考えられもしなかったもの」
「あんな無理やりが何時までも続くわけねえだろ」
「うーんご名答。なかなか痛いところを突いてくるね。さすがはまゆちゃん大好きっ子」
「うっせえよ」
「ともかく、ね。天城君が考えている通り、まゆちゃんの精神状態が限界に近いというのは間違いないの。君が転校してきてからはだいぶ落ち着きを取り戻せていたけど、こころちゃんが消えるなんて不測の事態が起きて、それでもあの子はこころちゃんを演じ続けていて……」
似たようなことやわかりきったことをべらべらべらべら。自分から相談に来ておいてなんだが、だんだんまどろっこしくて面倒になってきた。
溜め息と一緒に抱えていた感情を思いきり吐き出して、頭の中をすっきりさせる。
「ようするに、こころを演じることがまゆの負担になってんだよな」
「んー、感情の抑制がストレスに繋がっている事例は多いから、その認識で合ってるとは思うけど」
「そっか。なら答えは簡単だな」
「簡単って天城君。君、本気? まゆちゃんの固さはあなたもよく知ってるでしょ。私だって何度もそうしたほうが良いって言ってあげてたけど、あの子いつも聞く耳持たずで」
「んなもん知らねえよ。あんたとまゆの関係なんて、しょせん医者と患者のものなんだろ。俺とあいつの関係とは違げぇよ」
「……天城君。君、凄いわ。凄い馬鹿」
「ああ? 馬鹿にしてんのかてめぇ」
精神科医の女の声は呆れたような、感心したような感じだったけど、とりあえず噛みついておく。理由もわからず馬鹿呼ばわりされる筋合いはねえ。
「そうじゃなくて、そうじゃないけど……凄い馬鹿」
「てめぇ、やっぱ馬鹿にしてんだろ」