『眠りについたその日からずっと、消える事を願い続けていた』
十数本のみかんの木が立ち並ぶ、庭というにはあまりに大きな敷地。
敷地の手前の土道に車を止めても、屋敷みたいになってる家まではまだまだ、結構な距離があった。
「すごい大きさ。智也の実家、こんなに大きいんだ」
「元々は百姓の出だったらしいからな。土地だけは多く持ってんだよ。いまはほとんどあげたり貸したりだけど、田んぼもたくさん持ってたんだとさ」
「なるほどね。ところで、百姓という言葉は差別的な意味合いが強いから使わない方がいいわよ」
タイヤの跡が何重にも残った土道から、黒い斑点模様の入った石畳に地面が変わる。
「あのよ、前から思ってたけどおまえ、生後三ヶ月の赤ん坊のわりには無駄に色んなことに詳し……痛っ! なに足を踏んでんだよ」
「智也。次に私を赤ん坊扱いしたら殴るから」
「てめっ、このうえでそんな寝言ほざくか」
「ほらほら、智也もまゆちゃんもじゃれあってないで、早く家に入りなさい」
「誰がじゃれるか」「じゃれあってなんていませんっ」
怒鳴り声がまゆの声に重なって、それが面白かったのかばばあが笑う。
「うぜぇ。おら、とっとと行くぞあかんぼ女。ぶっ! てめっ、なにしやがる」
「鳥頭。殴るって言ったでしょ」
縁側の見える大きめの部屋に荷物を降ろし、ふうっ、と息を吐き出しながら両足を伸ばす。
部屋だけは無駄に多くあるはずなのにまゆも同じ部屋にいるのが気になるが、まあ、百歩譲ってそこは我慢してやることにしよう。
「何だか変な感じ」
「あ、なにがだよ」
「この部屋から見える景色よ。というより、東京を出てから見た景色全部が、かな」
床の隅に荷物をまとめて正座したまま、まゆは縁側に差し込む木洩れ日をじっと眺めていた。風に乗って漂ってくる緑や土の匂い。大きく息を吸い込んで、香水かなにかのように、自然の香りを楽しんでいた。
「学校にしろ家にいる時にしろ、私がやっていた事はこころが見聞きしたことの復習。あるいは本来あの子が知るはずだった、見るはずだったものを代わりに体験していただけだったのよね。だからこんな、こころが絶対に味わわないだろう体験をしている自分が不思議で……」
昨夜の出来事の後、まゆがこころの名前を口にするのはこれが始めてだった。トラウマとか思い出さないようにしてるとか、てっきりそういうものだとばかり思っていたから、当たり前のように(か、どうかはわからないが)こころのことを話すまゆの姿が、なんだかとても変なように思えた。
「ねえ智也。私が感じたことや思ったこと、経験。こころが目を覚ましたら、あの子は、全部覚えていてくれるのかな。私が、こころの思い出を覚えていたみたいに」
「知らねえよ。俺は多重人格なんてわけわからねえ病気じゃねえんだ。適当にお仲間見つけて、そいつに聞いてみればいいだろ」
「なにそれ、相変わらずデリカシーがないわね。こういう時は嘘でもきっと覚えてるとか、覚えているに決まってるとか、そんな風に気の利いた台詞を言ってくれるのが普通だと思うけど?」
「自己満足のセンチメンタルに付き合う気はねえよ。てめえの中じゃ覚えてるってほうに答えが決まってるのに、無理やり俺にくせぇ台詞言わせようとすんな」
「……むかつく。馬鹿のくせにそういうところの勘は鋭いんだから」
「はっ、言ってろ」
悪態をぶつけ合いながらも、動揺の治まったまゆが以前とほとんど変わっていない理由がわかってすっきりした。
なんてことはない。気配を感じれなくなったけどこころは胸の中にいる。
そんな風に、妄信しきっているんだろう。それが良いことかはわからないが、無理して平静を装うよりはずっとマシだと思う。
上辺を信じて、仮初の安心感を得ようとする。
無意識の行動とか自己防衛本能とか、たぶんそういうものなんだろうけど……。
「池の上に薄い氷の膜が張ってるようなもんだよな」
声を漏らして少しした後、俺たちが部屋に入ってきた障子ががらりと開き、ばばあが顔を覗かせる。やっぱり歳なのか、一月前より小じわの数が増えているように見える。
「智也もまゆちゃんも長旅で疲れただろ。お茶を入れてあげるから、こっちにきて一息つきなさい」
くるりと踵を返し、そのままばばあは部屋を後にする。
障子を閉めずにいったせいで、風が思いきり部屋の中に入ってきて、寒い。
「あのやろ。じじいが倒れたなんて大嘘ついときながら、よくもあんなこと平気で」
「いいじゃない別に。それだけ頼られていた、必要とされていたって事でしょ。私は正直うらやましいな。たとえ言葉で言ってくれなくても、態度でそれを察する事が出来るんだから」
言葉や態度どころか、姿すら見ることが出来ない相手。
たしかにそんなのに比べればばばあの行動はもっと、ずっとわかりやすいと思う。まあ人騒がせな嘘なんてつかずに正直に話せよ、とも思うのだけど。
「それに、たぶんおばあさんは嘘をついたわけじゃないから」
「はっ? どういう意味だよ?」
「あまり待たせたら悪いし、私はそろそろ行くね。それじゃ」
「あっ、待てよ。馬鹿」
俺を無視して前を進むまゆを追いかけて居間に移動。隅っこにでかいタンスやマッサージチェアーが置かれた居間の真ん中には長机があって、その上にミカンやせんべい、チョコレートが山盛り入ったデザートボウルが置かれていた。
「よいしょ。すぐにお茶を入れてあげるから、まゆちゃんはこたつで休んでなさい」
「はい。ありがとうございます……こたつ?」
「この長机、掘りごたつになってんだよ。ほら、足元が馬鹿でかい空洞になってるだろ。それよかさっきの、」
「あ、本当。こんな風になっていたんだ。私の家には掘りごたつなんてなかったから、少し新鮮かも」
「おいこら、まゆ。無視すんな」
「都会にはこういうものはあまりないかもしれんな。まゆちゃんは、東北の方に来るのは初めてなのかい?」
「あ、おじいさん。はい、あまり東京から外に出て行った事がないので、こういう緑がたくさんある場所は初めてで」
「うんうん、そうかい。それなら色々回って、ゆっくりしていくといいよ」
後ろの障子を開いて居間に入ってきたじじいは、まゆと二、三言話して布団の敷かれていない掘りごたつに足を下ろす。
まゆが妙なことを言っていたから気になったが、別に、それほど変な様子は見られない。
「やれやれ、若い子が来たからって声色まで使ってよくもまあ」
お茶の入った湯呑みをおぼんに載せて、ばばあが居間に戻ってくる。
「なんじゃ? 孫が恋人を連れてきたなら、歓迎するのが普通じゃろ?」
「恋人じゃねえよ」
「孫の恋人を歓迎するのにどうして声色を出す必要があるのか。わたしには分かりかねますがねぇ」
「だから恋人じゃねえって。当人無視して喧嘩始めようとすんな、老いぼれども」
「あ? 老いぼれ? 誰に向かって舐めた口を聞いておる糞ガキが」
「てめえにだよ、死に掛け。なんなら久しぶりにやりあうか?」
「ちょっと、止めなさいよ智也。おじいさんも」
「うるせ。ボウルにみかんでもせんべいでも入ってるだろ。まゆ、おまえは適当にそれでもかじって黙ってろ」
「……血の気が多い人ばかり。まあ黙っていろというなら何も言わないけど」
「すまないねまゆちゃん。ほんと、うちの男どもは短気なのしかいないから」
「い、いえ。とんでもない。それに智也の短気には慣れていますから」
「てめっ、フォローになってねえぞそれ」
「別にフォローしているつもりは――」
まゆの言葉が突然途切れ、長机に手を置く音が響く。それがあまりにも唐突で、どうしたのかと思って目を向けてみると、まゆは俯いたまま、顔を青白くさせていた。
「……! おいっ、どうした! まゆっ」
「何でもな……だけどごめん、少し洗面所を貸して……」
「まゆちゃん。こっち、歩けるかい? 智也、じいさん。あんたらは隣の部屋に布団を敷いてあげて。はやく」
「あ、ああ。行こうぜじじい」
あっけに取られかけていたじじいに声を掛け、急いで立ち上がる。
さっきまでなんともなさそうで、ずっと平然としていたのになにがあったのか。
訳がわからなかったが、ひょっとしたら、と思うことが一つだけあった。
『こころはかんきつ類に対してアレルギーを持っていてね、少しでも食べたり飲んだりすると体調不良を起こして嘔吐。手足にじんましんが出て、軽く発熱をしてしまうの』
いつだったか言っていた言葉。まゆが座っていた手前に置いてあったみかんの皮。
まゆはこころがいなくなったと言ってたけど……ひょっとして、結合したってことか?
ぼんやりと、考えてみる。
あの精神科医はまゆはこころとの結合。一つになることを望んでいると言っていた。
でもそれはあくまでこころの側が主体になるってことで、今みたいな、自分を主体にした状態とは違うと思う。だったら、今の状況をまゆが正確に把握したら……。
「智也、何をぼーっとしとる。ほら、そっちを持て。さっさと布団を敷いてやるぞ」
「……っ。わーってるよ!」
青白い表情のままのまゆをおぶって部屋を移動。障子を足で開けて真っ白の掛け布団をどかすと、敷布団にまゆを寝かせる。
激しい運動をした後みたいにまゆの呼吸は荒くて、指先や手の甲に浮かんだ赤い斑点を見られるのが嫌なのか、ズボンの後ろに両手を隠そうとしていた。
「んなことしなくてもすぐに毛布で隠してやるよ」
掛け布団を身体の上に被せてやると、まゆはごろん、と身体を俺のほうに向けようとしてくる。
「無理すんな。上向いたままでいろ」
「こほっ、うん」
軽い咳払いをして、まゆはじっと天井を見上げていた。目が赤く充血していて、頬もほんのりと赤い。軽い発熱と言っていたが、思っていたよりずいぶん重そうに見える。
「ねえ智也、どういうことだと思う?」
「どうって……」
布団の隣に座布団を引くと、どっしりと座り込んであぐらをかく。
「今の私の症状、かんきつ類に対するアレルギー。これは元々こころが持っていたもので、私が持っていたものじゃないのは知ってるでしょ。ほら、病院で説明をしたとき。あの時私はオレンジジュースを飲んでたけど、こんな症状なんて起きなかった。なのに今はこんな調子。あの時と今で何か違うことがあるとすれば」
「……やめろ」
まゆがなにを言おうとしてるかなんて考えるまでもない。黙らせようと思って声を上げたけど、効果なんて全然ありはしなかった。
「こころは何らかの理由で精神的に追い詰められて、それから逃れるため、あるいは自分の精神を休ませるために『まゆ』という存在を作り上げた。私はそれを信じてきたし、疑いもしなかった。でも違ったんだよね。こころはもうこの世界に未練なんてなくて、たぶん眠りについたその日からずっと、消える事を願い続けていた」
天井を見上げていたまゆがそっと目を細める。溜まっていた息を吐き出したからだろう。胸の辺りの掛け布団が、大きく上下に揺れ動く。
「それが悪いとは言わないよ。私はこころじゃないし、彼女の事情もわからないんだから。でも、もしも本当にこころがそう思っていたとしたら、私がやってきた事は何なのかな。意味なんて何にもなくて、ただの独り相撲を取っていただけなのかな」
なにかを言おう。なにかを言わなきゃいけない。
頭の中でそんな風に言葉がささやいているのに、上手く声を出すことが出来なかった。
励まそうと思っても、なんにも言葉が思い浮かばない。当たり前だ。今まで、そんなことをやろうなんて思ったこともないんだから。
じっと黙り込んでいると、小さなため息を吐いて、まゆが俺に目を向けてくる。
「なんで黙ったままでいるの? 知らねえって言ってよ」
「あっ?」
一瞬、いつものくだらない悪態が飛んできたんだと思った。でもまゆの表情はこれ以上ないってくらいに真剣で、見ているだけで、いつもの馬鹿にしている感じとは明らかに違うことがわかる。
「どうでもいいとか興味ないとか。そう言って突き飛ばしてよ。そうじゃないと対抗意識も沸かない。負けたくない、負けないって気持ちになれないじゃない。智也は……ずっと私を突き飛ばしててよ。寄り添ってきたりしたら、慰めようなんて思ってくれたら、逆に辛いから」
自己厨野郎の勝手な理屈。けれど、不快な感じがするようなことはなかった。言ってることは無茶苦茶でも、俺が嫌いだから言ってるわけじゃない。なんとなくだけど、そんな気がしたからだ。
「好き勝手言うのは構わねえけど、突き飛ばしてろってのはどうすりゃいいんだよ。あれか、放っておけってことか? だったら俺は向こうの部屋にいるから、落ち着いたら――」
まゆの要望どおりさっさとその場を離れてやろうとしたら、ズボンの裾をぎゅっと掴まれる。
「……なんだよ」
「かっ、勝手に離れようとしないで。い、いいから傍にいてよ」
「へぇへぇ」
手の平返し。というより臆病になってるだけだと思う。
それにしても強がっているとき。普段のまゆはどうしようもないぐらいふてぶてしくてムカつく奴だけど、弱気なときのこいつは意外と……って、なにを妙なことを考えているんだか、俺は。
「で、まゆ。この場に居ろってのはいいけど、優しい言葉をかけるな黙っているなって、てめえは俺にどうして欲しいんだよ」
「そうね……」
言いながら、まゆは上体を起こす。いいから寝てるよう言ってみたが、もう体調は回復したという痩せ我慢が返ってきただけだった。
「前に智也が倒れた時のことを覚えてる? 鉄分不足で家の前で動けなくなったところを、私が運んであげた時のこと」
「ああ、おまえが勝手しやがったあれな。口が滑って母親のことも話しちまったし、本当最悪だったやつ」
「智也はさ、あの時の私みたい態度でいてくれたらいいんだよ。変に同情されても気持ちなんてわかるわけがないし、知ってもいても自分には関係ないって態度を取ってくれれば」
「そういうわけにはいかねえだろ」
「えっ?」
「あのときとは状況と事情が違いすぎてるってことだよ。俺の病気も母親のことも、自分の中ではもう整理がついて現実として受け入れられてた。でもおまえはそうじゃないだろ。信じてた奴がいきなり姿をくらまして、それを現実として受け入れようとせず、根拠のない考えを妄信して、でも、今度こそそれを本当に打ち砕かれて、」
まゆが一瞬こっちを睨みつけてきたのは、反論か文句でも言うつもりだったんだろう。でも途中で声を閉ざして、目をつぶって、まゆはなにかに納得したように、小さく首を縦に振る。
「……経験者は語る、か。智也の場合はどうだったの? お母さんに裏切られて置いてきぼりにされて、どうやって立ち直ったの?」
「言ってもいいけど参考にならねえと思うぞ」
「いいよ。それでも(なんでも)いいから話してよ」
『それでも』じゃなく『なんでも』。
別に声が聞き取りづらかったわけでもないのに、まゆは本当はそう言いたかった。
なぜだかわからないけど、そんな風に思えてならなかった。
「特別なことはしてねえよ。完全に母親に見切りをつけて、考えないようにしてただけだ。けど、おまえにこころを嫌いになれなんて言うのは無理だろ?」
「そうね。それだけは絶対に無理。こころは、私にとっての全てと言っても過言ではないから」
「おまえ、本当にこころのことになると人が変わるよな」
「うん、そう? 自分としては普通のつもりなんだけど」
普通の奴はそんな恥ずかしい台詞真顔で言えねえよ。
「……まあいいや。それよか、おまえぶっ倒れる少し前に変なことを言ってたよな。おばあさんは嘘をついたわけじゃないって。あれ、どういう意味だよ」
「どうって言葉通りの意味だけど? おじいさんが倒れたのは本当。で、心配したおばあさんは慌てて智也に電話をして、たぶんその後におじいさんの体調が回復したんだと思う。後は想像がつくでしょう? 自分が倒れたのは嘘で、顔が見たかったからそんな電話をしたという事にした。おそらくはそんなところでしょうね」
「……なんでじじいとばばあがそんな嘘をつく必要があるんだよ」
「智也」
とたん、まゆの口調が鋭いものに変わる。冷や汗をかきかけているのに目を尖らせ、俺のことをじっと睨みつけてくる。
「なんでって、本気で言っているなら私はあなたを軽蔑する」
本当は辛いのに嘘をつく。なんでもないふりをする。
まゆが必要以上に腹を立てているように見えるのは、じじいやばばあの態度に自分の姿を重ねたからかもしれない。
「わかった、悪かったよ。でもこれだけは教えてくれ。なんでおまえは、ばばあが嘘をついてるってわかったんだ?」
「んー、嘘つきとしての勘かな。私自身がこころを演じ続けてるせいか、喋り方や言葉の溜め方でわかっちゃうんだよね。普段嘘を言いなれていない人の場合は特に。ただ、おばあさんたちがやせ我慢をしてるのは間違いないから、出来るだけ優しくしてあげたほうがいいと思う」
「優しくねぇ、気が進まねえな。おまえが物凄く特殊な例ってのはわかってるけど、一番身近なやせ我慢がこれじゃあな」
「特殊ってわかってるなら、おばあさんたちには普通の接し方をしてあげてよ」
「はいはい、努力はしてみるよ」
「はいは一回でいいって子供のときに習わなかった?」
「そういうのを素直に受け止められる環境で育ってねえよ」
「あ、そうか……ごめん」
皮肉や返し文句で言ったつもりだったのに、言葉をそのまま、素直に受け止められて驚いた。おまえ、そんなキャラじゃねえだろ。
「馬鹿、冗談だよ。俺の言うことなんて本気にすんな」
「うん。本気になんてしてない。ちょっと頭がぼーっとしてただけ」
いつもどおりの返し文句なのか、本当にそうなのか。小さく息を吸い込んで吐き出すと、まゆはあらためて布団に横になる。
「少しだけ眠らせてもらうね。せっかく実家に上がらせてもらったのに、ごめん」
「いいよ、いきなりあんな訳のわかんねえことが起きたんなら仕方ねえ」
「ん、ごめん」
ほんのりと赤みがかった頬をこちらに傾け、ゆっくりと瞳を閉じる。
それから少しして、もぞもぞと腰の辺りが揺れ動き、赤い斑点交じりの小さな指、腕が顔を覗かせる。なんだよ、と思っていたら指先がぱたぱたと左右に大きく揺れて、俺の右手に触れてくる。少しだけ動きが止まった後に、指をぎゅーっと強く握り締めてくる。
指先は冷たいけど手の平の辺りはほんのり暖かい、確かな温もりが伝わってくる。
「寝るんじゃなかったのか?」
「眠るよ。だから……眠れるまで手、手を、繋いでいて欲しい」
「はいはい」
「馬鹿、はいは一回で言いの。本当に智也は――」
まゆの言葉が中途半端なところで途切れ、代わりにすーっという微かな吐息が聞こえてき始める。えらく寝つきがいいと思ったが、電車のときみたいに寝たふりをしてるだけかもしれない。
試しに手を離してみると、瞼がぴくぴくと大きく震えた。うっすら目を開いて悪態をついてくるかと思ったけど、それ以外には反応なし。まゆの手を畳に下ろしてその場を離れようかと思ったが、
「……どうせ寝たふりだろ」
眠れるまで手を繋いでて欲しいって約束だったから、仕方なく手を握りなおしてやる。
こいつのことは嫌いだけど、約束したから仕方ない。
目を覚ましたら、信じた相手がどこにもいなかった。
俺はあの女とは違う。だから、そんなふざけた真似は絶対にしない。
「あの女と一緒になりたくないからやってんだからな。勘違いすんじゃねえぞ」
声に出したのは、あくまでもまゆに言い聞かせるためだ。俺自身は自分の考えに納得してるんだから、ごちゃごちゃ言う必要なんてない。
膝に乗っかっていたまゆの腕がかくん、と畳の上に転がりかけたのを慌てて支えながら、それにしてもこいつは性格が悪い、と思う。寝たふりをしてるだけなら、一言ぐらい返事をしてくれてもいいだろうに。




