第13話 四階は避難場所
会社という場所は、ひとつ問題が片づかないうちに、別の問題を平気で連れてくる。
出社すると、フロア中に音楽が流れていたのだ。
「カトウさん、おはよう。……この音楽、なんで流れてるの?」
「おはようございます。ミヤモトさんが社長にお願いして、デッキを買ってもらったみたいですね」
「え……」
マジか、と思った。
うちの会社は、イベント制作だけを行っているわけじゃない。映像制作の仕事も請け負っている。ただでさえ電話の音や周囲の話し声が、音の調整をする時には邪魔になる。そこに音楽まで流すなんて――ありえない。
いや、せいぜい朝だけ、気分づけに少し流しているのだろう。最初はそう思った。
だが、音楽は止まらなかった。
ずっと、ミヤモトさんの好きな昔のV系バンドの曲が流れ続けていた。
「ミヤモトさん、この音楽、なんでずっと流してるの? 一応言うけど、ここ、音を扱う職場だからね?」
ミヤモトさんは、狐につままれたような顔をした。どうしたのか心配になるくらい動かなかった。聞こえなかったのかもしれない。そう思った次の瞬間、彼女は早口で言い返してきた。
「会社のためにやってるんですよ? 社内の空気が重いので、明るくしたいと思って、社長に相談したんです。そしたらデッキを買って、音楽を流そうって話になって。だからこれは、私一人の判断でやってることじゃありません。逆にジョウさんは、社内の空気が重いことに気づいてなかったんですか?」
ダメだこりゃ、と思った。
社内の空気が重いのは、社長がいるからだ。社長が社員にいちいち無礼なことを言い、押さえつける。そのたびに言われた本人も周りも気を落としていく。そこを社長自身が自覚して改めない限り、どうにもならない。なのに、そこには手をつけず、さらに仕事の邪魔になることをしている。それでは本末転倒だ。
皆、その空気の悪さの原因を分かっていたからこそ、それぞれのやり方で気分を保っていたのだ。業務に集中したり、必要以上のことを言わないようにしたりして、余計な摩擦を避けていたのだ。けれど、おしゃべりな彼女には、その静けさに耐えられなかったのだろう。
そのわがままを聞いて、わざわざデッキまで買ってやる社長も社長だった。映像制作の仕事をしている人間なら、それが仕事に支障をきたすことくらい分かって当たり前なのだ。何でそんなことも分からないのか、理解できなかった。
分かったのは、このフロアには恐ろしく空気の読めない人間が二人いるということだった。厄介なのは、二人にその自覚がないことだ。
これは、音楽が不快だという単純な気分の問題じゃない。仕事の効率が落ちる。集中は削がれるし、音が聞き取りにくくなり、判断も鈍る。
そんなもののせいで作品の質まで落ちたら、あまりにも馬鹿らしい。
そこで、僕は四階に席を移せないか打診することにした。
会社の事務所はビルの三階にある。四階も会社のフロアだが、普段はほとんど使われていない。
社長には、「みんな同じフロアで働いた方がコミュニケーションが取れて、会社の活気も上がる」という妙な哲学があった。だから社員は全員、三階の狭いフロアにぎゅうぎゅうに詰め込まれ、そこで働いていた。けれど、新しく三人も加わったことで、さすがに席が足りなくなった。そこで、それまで物置兼打ち合わせ室として使われていた四階の一角が、ノガミさんの席に充てられることになった。
だったら、自分も四階へ移れないか。そう考えた。
「四階、空いてるなら、僕の席も上へ移動してもいいでしょうか? 人数も増えて、ぎゅうぎゅう詰めですし」
却下されるだろう。半分そう思いながら、僕は社長に切り出した。
僕まで四階へ移れば、社長の目の届かないところに社員が二人いることになる。そういう状況を、あの男が嫌がらないはずがなかった。
しかし、反応は意外なものだった。
「ええんちゃう」
妙だった。けれどその時の僕は、それ以上は深く考えなかった。
四階は、編集室というにはだいぶ心許ない場所だった。段ボールや機材が雑に置かれ、打ち合わせ用のテーブルも場所をとっている。使われていない機材もあちこちに転がっていた。そんな空間の端に、ノガミさんの席が押し込まれるように置かれていた。
ただ、どれだけごちゃごちゃした空間でも、三階の状況と比べればずっとましだった。少なくとも、それが原因で仕事の質に悪影響が出ることはない。それだけで、十分だった。
「僕もこっちに席を移すことになりました」
「今、下のフロア、人いっぱいになったけど、何か問題でもあったの?」
顔を合わせたノガミさんが、軽い調子でそう聞いた。
「そうなんですよ、実は……」
そこから、ノガミさんと話す時間は自然と増えていった。二人だけの空間というのは、それだけで妙に距離を縮める。もともと、しょっちゅう飲みに誘われてもいたから、なおさらだった。
「ジョウくんだけに話すんだけどさ、実は……」
そんなふうに、ノガミさんの方から身の上話をしてくることもあった。
「ジョウくんは何か困ってることないの? 俺でよかったら聞くよ」
そう言われると、本当は人に聞かせたくないことまで、ぽろぽろと口から出た。親のこと。昔のこと。ずっと自分の中に沈めたままにしていたもの。言葉にして吐き出すと、それらが胸の底から少しずつ離れていくような気がした。
今思えば、それもまた僕の甘さだった。
ただ、その頃の僕には、それとは別の、もっと分かりやすい救いがあった。
カトウさんだった。
「ジョウさん、こちらの荷物が三階に届きましたけど」
「あぁそれね、頼んでたやつ。わざわざ持ってきてくれてありがとう」
「いえいえ。ジョウさんが三階からいなくなって、なんだか寂しいです。よく一緒にお話ししていたので」
そんなことを言われて、胸のあたりが少しも揺れない男なんて、たぶんあまりいない。まして僕みたいに、長いこと心の火を細くして生きてきた人間ならなおさらだ。
しかも、それはその場かぎりのことではなかった。
カトウさんは何かと理由をつけて四階に顔を出すようになった。
「気分転換に、ちょっと掃除しに来ました」
そう言う日もあれば、別の日にはまた別の理由を口にした。荷物を持ってくる、ついでがあった、少し様子を見に来た。口実はそのたびに違っていたけれど、四階に来る回数そのものは、少しずつ確実に増えていった。
そうなると、僕の中に住みついている愚かな勘違い野郎が、のそのそと姿を現す。
「もしかして、僕に会いに来ているのか」
今思えば、ひどく間の抜けた話だ。
そして、それが勘違い以外の何ものでもなかったと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
ある日、荷物を取りに三階へ下りたときだった。
「カトウさんって、なんで彼氏いないの?」
社長が、いつものようにずけずけと言った。
「たしかに!カトウちゃん、なんで?」
すぐ横から、ミヤモトさんが明るい声で乗っかる。
「いないって決めつけないでください」
カトウさんは笑いながらそう返した。声の形だけ見れば、たしかに笑っていた。でも、その奥には、指で触れればすぐに分かるくらいの硬さがあった。
「え、いるの?」
「いそうだもんねー」
「……いや、いないですけど」
「カトウさんってさ、彼氏いたら逆に怖いよね。強そうやし」
「わかります! カトウちゃん、たまに強気ですもんね」
二人が面白がるように笑うなかで、カトウさんもいちおうは笑っていた。けれど、目だけは笑っていなかった。ああいう笑顔を、僕は知っている。場の空気を壊さないためだけに、とりあえず顔の上に置いておく笑顔だ。中身のない殻みたいなもので、でもそういう殻がないと、その場をやり過ごせないこともある。
四階に顔を出していたのは、僕に会いに来ていたからじゃない。
三階にいるのが、ただしんどかったからだ。
そう気づいた瞬間、自分の勘違いが急にみっともないものに思えた。ついさっきまで小さなぬくもりみたいに感じていたものが、音もなくしぼんでいく。そのあとには、遅れて恥ずかしさだけが残った。
新人を気にかけようと思っていたくせに、僕は先に四階へ逃げていた。そのくせ、カトウさんが上に来る理由を、自分に都合よく受け取っていた。
愚かだ。
でも、その愚かさに気づいたからこそ、ようやく見えたこともあった。
この人は、放っておいたらやられる。
「カトウさん、悪いんだけど、この機材、ちょっと上まで持ってきてもらっていい?」
「はい、わかりました」
四階へ上がってくると、彼女の表情は三階にいるときより、ほんの少しだけやわらいだ。その違いは、意識して見なくても分かった。張りつめていたものが、ほんのわずかだけほどける。そんなふうに見えた。
「やっぱり、こっち静かですね」
「三階がひどすぎるだけだけどね」
「ふふ、たしかに」
そう言って、彼女は少し笑った。その笑い方を見ていると、ああ、やっぱりそうなんだなと思った。ここでは、少しは楽に息ができるのだ。
それから僕は、何かと理由をつけてカトウさんに仕事を頼むようになった。彼女は嫌な顔ひとつせず引き受けてくれたし、こちらとしても頼みやすかった。たぶん、お互いにその方が都合がよかったのだと思う。
撮影現場にもADとして手伝いに来てくれたので、その帰り、打ち上げみたいな形で夜ご飯をごちそうした。二人きりだった。
「カトウさん、最近会社どう? 何か嫌なことない? 最年少だし、いろいろちょっかい出されるだろ」
「そうですね……。嫌なことっていうほどじゃないですけど……。でも、ジョウさんと話してると楽です」
そう言って彼女は笑った。僕はその笑顔を見て、胸の奥に溜まっていた何かが少しだけ軽くなるのを感じた。
「ミヤモトさんは女性だけど、趣味合わなそうだもんね」
「……ジョウさんは好きな漫画が同じだし、いろいろ話を聞いていて勉強になります。あー、お酒がおいしい」
「ありがとう。だったら何もない日でも、ガンガン飲みに誘うからよろしくね」
「本当ですか? 嬉しいです」
その言葉を聞いたとき、僕はまた少し勘違いしそうになった。いや、少しどころではなかったのかもしれない。人は、自分に都合のいいぬくもりには、思っているよりずっと弱い。
僕は少し酔っていたのかもしれない。いつもの僕なら、そう簡単に人の心の中へずけずけ入っていったりはしない。でも、その夜の僕は、いつもとは少し違っていた。
「あのさ、正直に聞いていい?」
カトウさんは、手にしていたグラスをそっとテーブルに戻した。
「はい」
「……しんどいよね」
彼女はすぐには答えなかった。視線だけが、料理の並んだ皿のあいだを静かに行き来していた。何か言葉を探しているようにも見えたし、見つけたくないみたいにも見えた。
「カトウさん、無理して笑ってるときがある」
少し間があってから、彼女は小さく笑った。
「……バレます?」
「バレる。見てれば分かるよ。普通に傷つくと思う」
彼女はグラスに口をつけて、ほんのひと口だけ飲んだ。
「でも、受け流せる人もいるじゃないですか」
「受け流せてるように見えても、受け流せるふりがうまいだけの人も多いよ」
その言葉を聞いて、彼女はまた少し黙った。考えているようにも見えたし、あまり深く考えないようにしているようにも見えた。
「うん。で、もしまた似たような空気になったら、自分が割って入ることにする」
カトウさんは顔を上げた。
「え、ほんとですか」
「ほんと」
僕はそう言った。口にしてから、自分でも少し驚いた。そういうことを軽々しく言う人間じゃないはずだった。でも、そのときはそれがいちばん自然な言葉に思えた。考えるより先に、言葉の方がそこへたどり着いていた。
彼女はまっすぐ僕を見たまま、少しだけ息を吐いた。
「……助かります」
小さい声だった。思わずこぼれたようなその一言には、愛想や社交辞令のような余計なものは何ひとつ混じっていなかった。
少し間が空いた。店のざわめきは相変わらずそこにあったけれど、僕らのいる席のまわりだけ、薄い膜みたいなものでそっと包まれている気がした。外の音は聞こえているのに、どこか遠くの方で鳴っているみたいだった。
僕は箸を置いて、ビールをひと口飲んだ。
「あのさ、唐突なんだけど」
「はい?」
「明日、ディズニーランド行かない?」
彼女は目を丸くした。
「……え?」
「前に好きだって言ってたじゃん。ていうか、気晴らしに」
「行きたい!……でも、急すぎません?」
「急だからいい。気晴らしって、ちゃんと予定を組んでするものじゃないから」
「……たしかに」
彼女は少しだけ笑った。ちゃんと中身のある笑い方だった。見ているこちらまで、少し救われるような。
「回復しに行こう。ミッキーに癒やされに行こう」
「はい。ミニーちゃんにも癒やされましょう」
そうして、急にディズニーランドへ行くことが決まった。




