アリストテレスとアレクサンダー
「先生! 『アリス先生』! 今日もよろしくお願いします!」
「あぁ……それでは今日も始めようか『アレク王子』」
「はい!」
マケドニア王国……その王宮の一室に、一人の王子と家庭教師が対面していた。
王子の名は『アレクサンドロス三世』――後に東方遠征により、大帝国を築く偉大な人物の一人である。若き日の彼は、人物から多くの教えを受け、彼の人生の糧として学び、吸収していった。
家庭教師の名は『アリストテレス』――ソクラテスの死後、プラトンが設立した学院『アカデメイア』にて、かの哲学者から多くを学びながらも、ついそ和解する事は無かった人物である。この頃のアリストテレスは、各所を放浪していたが……現マケドニア王、目の前の王子の父親から手紙を受け取り、家庭教師としてかの王子に自らの知恵を授けていた。
「アリス先生、今日は何について?」
「そうだな……医学については、どこまで話したかな」
「えぇと……薬草の正しい処方と、止血について……それと風邪の対処についても」
「そっか、弁論術もかなり習得してくれたようだし……そうだアレク王子、君が何か、興味のある事柄は無いかな? 今日はそれについて語るのはどうだろう?」
彼らは師と弟子の関係であり、学者と王子の関係だ。が、既に親しい仲のように見える。二人きりの時では、互いに愛称で呼び合う仲だった。
少しアレクサンダー王子は考えて……彼は師に、こう問うた。
「じゃあ……あぁ、まだこれは尋ねた事が無かったかな……先生はどうして、賢く有ろうと思ったのです?」
「うん? どういう……」
「オレは王子だから、王道を学ばないといけない。いつになるか分からないけど、いつか王を継ぐ事になるから……必須な事です。トップが腐った国は悲惨だ。王族はその恩恵の対価として、国家を豊かにし、維持し、そして人民を守護する責任がある。だからこそ多少の贅沢や特権が許される。やり過ぎも危険だけど……」
「かといって、全く公平にしても……国家としての威厳が無くなってしまうからね。そこの匙加減は難しいけど……『適度』を保つ事、出来ないにしても努力する事が、健全で善い在り方だと思う」
お互いに頷きあい、一拍おいて王子は続けた。
「でも……先生は、その、一般人でしたよね?」
「うん。そうだね。特別な血筋は何もない」
「なら、先生は……知恵を得る必要は……必ずしも有ったとは思えないんです。どうして、賢く有ろう、善く生きようと思ったのですか? あなたには……賢く有らねばならない責任は無かった。なのに何故知の探究を?」
純粋な興味、純粋な疑問に、アリストテレスはほろ苦く笑った。懐かしくも悲しいきっかけと思い出を、頭の中で纏めて、ゆっくりと語りだす。
「きっかけは……何というか、成り行きかな。実は私は……あまり良い生活はしていなくてね。そのいわゆる『愚か者』に分類される人だったよ」
「えぇ!? 全然そんな風に見えないですよ!?」
「ははは……変わったのは『アカデメイア』に入ってからだよ。プラトン先生の教えを受けてから、私は『学ぶことは楽しいのだ』と気が付いたからね」
「へぇ~……」
「分からない事が『分かる』ようになる、解けない問題が解けるようになる。そうした瞬間に、確かに人は喜びを覚えるのだと気が付いた。でも……プラトン先生は、いつもどこか悲しそうだった」
「え?」
不意に、先生の表情に暗い影が差した。少しだけ顔を上げて、王子と目を合わせる。数度風がそよぎ、迷いに揺れた先生の唇は、先生なりに導き出した答えを、王子にも伝える。
「プラトン先生の……『イデア論』は知っているかい?」
「確か……この世界は『下』の世界で……本当は完全な世界、上層の世界『イデア』が存在している。この世は不完全な影の写し絵のようなもので、知恵と善を身に着け、この世界から脱出して、最終的には『イデア界』に行かねばならない……でしたっけ?」
「ざっくり理解するなら、そんな感じかな……王子はどう思う?」
「うーん……確かめようが無いです。あるかもしれないし、無いかもしれない。実際に行ければ証明出来るけど……」
「ははは……穏便な反応で良かった。実は過激思想扱いを食らった事もあってさ……」
「人によってはそうですよね……でも、プラトン先生って、先生の先生ですよね? とてもそんな、過激思想を唱える人には……」
アリストテレスは、悲し気に目を伏せた。また少し考え、言葉を組み立てて王子に話す。
「そうだね……プラトン先生の先生が、原因なんじゃないかと思うんだ。名前をソクラテスと言う」
「先生の先生の先生ですか」
「うん……だけどソクラテス先生は、当時の政治家や文化人に、知恵の問いかけをして……相手に恥をかかせてしまっていた。それが原因で恨みを買い、不当に裁判が開かれ、処刑されてしまったんだ」
「……」
「でも……聞く限りでもソクラテス先生は、死罪を食らうほどの落ち度があったとは思えない。当時は住民全員の投票で『ソクラテスは有罪か無罪か、罪状はいかほどか?』を、決めるシステムだった」
「じゃあ……それで処刑されたって事は……」
「うん……あの日のアテナイ人によって、ソクラテスは殺された。プラトン先生はそう思ったんだろう。
知恵と善い生き方を愛していた、ソクラテス先生。けれど彼の周囲にいた人はそうではなかった。知恵も足らず、善く生きようともしない。その後あの裁判は不当だったと、ソクラテスを貶めた人を、遅れながらも処断した。けど、遅すぎたんだ。プラトン先生は現実に絶望したんだろう。だから『ここは現実ではない』『上の世界がある』と、論理立てを始めたんだ。
私は……先生をその憎悪から救いたかった。現実の醜さに絶望して、その知恵を上手く使えない、あの人の心を自由にしたかった。でも結局、最後までプラトン先生を解き放つ事は出来なかったな……先生も先生で、憎しみを糧に知恵をつけ続けていたから……何とか追いつこうと私も学んだのだけど、結局逃げ切られてしまったよ……」
思った以上に、重い話になってしまったが……アリストテレスは、胸の中にしまった思いを、少し吐き出せて楽になった。表情は悲しげだが、懐古に揺れる先生の顔に、苦痛の色は見られない。しばしの沈黙の後、王子は空気を換えようと話題を振った。
「世界……か。あ、そうだ先生、実は一つ気になっていた事があって」
「何かな?」
「世界の果てって、どうなっていると思います?」
「……」
やや露骨だけど、王子の気遣いが嬉しい。無理に先生ははにかんで、結局少し困った。
「確か……世界の果てまで行くと、海が滝のようになっている……だったかな。この世界は下から『バハムート』あるいは『ベヒーモス』と呼ばれる何かが、支えているって話だ」
「そっか、支えがないと崩れちゃいますもんね」
「うん。でも端っこの方に行くと、支えきれない場所が出てくる。そこから先は海が滝のように、下に落ちていく……とされている。断言できないのは、誰も確かめた事が無いからだね。最果ての海は……確か『オケアノス』と呼ばれていたかな」
何が琴線に触れたのか、急に王子はがばっ! と立ち上がった。少年そのものの無垢な瞳で、きらきらと宝物を見るような目つきで、先生を見つめて叫ぶ。
「先生! どれぐらい進めば『オケアノス』に行けるんですか!?」
「うーん……ずっと海を西に進むか、東の陸地を突き進めば、いずれ世界の端に行ける……と言われているけど」
「海まで行くのは大変そうだけど……そうだ! オレ! 即位したら東に遠征して……陸の世界の果てを見に行ってきます!!」
「急に無茶を言うね!?」
突然の宣言に、先生も困惑を隠せない。きっと落ち込んだ自分を慰める為に、ちょっと見栄か冗談を言っている。この時は……賢者アリストテレスは、そう思っていた。