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ソクラテスへの手紙

「先生……こんな手紙に従う事はありません。通知者の狙いは明白です! あなたを裁判の場に引きずり出し、有罪であるとおおやけの場で宣言し……先生の名誉どころか、場合によっては命まで奪う腹でしょう! こんな……こんな不正な裁判で、あなたは命を落とすつもりなのですか!? ソクラテス!!」


 既に老いた賢人は……いきり立つ弟子の一人に苦笑した。対面する若い彼の名はプラトン。ソクラテスの弟子の一人であり、後に無数の著書を執筆する哲学者である。若木の至りではあるものの、師である人物を心から案じていた。

 対面するはソクラテス。遥か昔、紀元前のギリシャの哲学者だ。既に老化が進んでいるが、若き日の対話と精力的な活動もあって、かの人物は健康そのもの。その人物に届いた手紙は、言いがかりもはなはだしい。


「『我らの信じる神ではなく……よこしまな神を信奉し、若者たちを堕落させた罪――』何なのです、この罪状は! あなたが、あなたが真理を得たのは……神託が始まりでしょうに!!」


 遥か古、神話の時代。人と神が、すぐ近くにいた時代。ある日、ソクラテスが神殿に赴き、巫女から神託を受けた。その時巫女が口寄せたのは、ソクラテスにとって、納得する事が出来なかった。

『ソクラテスほど賢い者はいない』――巫女の言葉は神の言葉。絶対的に信じるべきその言葉を、ソクラテスは疑った。常人なら舞い上がりそうな物だが、彼は自らの知恵について、絶対的な自信を持っていない人物だった。

 自分は決して、そこまで賢い人間ではない。にもかかわらず、神が『最も賢い』とはどういう意図か? ソクラテスは神意が『何かの間違い』であると証明する為に、様々な文化人、知識人と問答を重ねていった。


 しかし……様々な政治家や詩人と言葉を重ねるが、何度も何度も、ソクラテスが質問を重ねる内に……世に言う『賢人』は、言うほど賢い存在ではないと知った。

 自分は物を知っている。自分は賢い者である。そう自認し、周囲から評価を得ていた人物は、その実『人を口先で丸め込む』事が得意なのであって、美や善について知見を持っていなかった。

 そんな中で、ソクラテスは自分が少しだけ『賢い』と知った。

 自分が『物を知っている』と思い込んだ、無知な者と

 自分が『物を知らない』と思い込んだ、無知な者。

 両者が並んだ時……ほんの僅かだけ、後者の方が『賢い』と言える。

 あぁ、何たることか! ソクラテスは神託を反証すべく、自分より賢い者を発見し、巫女の神託は誤りである――そう証明しようと知識人との問答を繰り広げた。しかしソクラテスの問いに、立派と呼ばれていた人々は、その実知恵について理解が浅かった。その活動を繰り返し、そして得た『知恵』や『善』について……ソクラテスは問いかけられれば、誰にでも問答を行い、自らの『善』や『知恵』について説いた。何の対価も求めずに……


「誰もが知っている筈です! ソクラテスは……自らの知恵を、貴賤きせんを問わずに施したと! その行いも含めて……この審判者気取り共は、先生を逆恨みしたのです! 自らの無知を、おおやけの場で晒されたと! 今まで積み上げて来た功績を……『自称賢人』として胸を張っていた自分たちを、少しは顧みたらどうなのだ……!」


 ――ソクラテスの活動は、賢人とされる人への問答が始まりである。

 しかし『自称賢人』は、その見栄と虚勢故に――知に対して情熱を欠いていた。だから……多くの聴衆の前で無知を晒し、恥を掻いた。

 ――問題はこの時、彼らは『ソクラテスに恥をかかされた』と、解釈したのである。そしてさらに、ソクラテスの行動は裏目を引いていた。


「……先生の弟子たちも、先生と同じ論法を扱い始めました。それで多くの『自称賢人』があぶり出され、大衆の前で恥をかいた。恐らく『若者を扇動し、邪悪な教えを吹き込んだ』の一節はここからでしょう。これは正直、彼ら側の性根にも問題がある様に思えますが……」

「プラトン。それはどういう事だい? 君も彼らもわたしの弟子だろう。その知恵に差が在ると?」

「知恵そのものではなく……もちい方に問題があると言いたいのです、師よ」


 プラトンは侮蔑と虚しさの混じった眼で、ソクラテスに言い放つ。


「彼らは……知恵の探求の為に、あなたの論法を用いているのではありません。『自称賢人』を炙り出し、恥をかかせ、馬鹿にしてコケにしたいから『ソクラテスの論法』を持ち出しているのです! 確かに偉そうな『賢人気取り』は、誰だって気に入りません。反抗期の若者ならなおさらでしょう。

 だから……『立派』とされている人間から、化けの皮を剥いでみたい。好奇心か反抗かは知りませんが、師よ! あなたの教えは、彼らに凶器を与えてしまったのです。名誉を棄損する武器を……」

「そうか……わたしと直接話した者だけでなく、わたしの論法で傷ついた者も、わたしを怨んでいるのだね」

「そうです! これは……これは、そうした諸々が、あなたへの逆恨みとして集約しているに過ぎないのです! どうか裁判所に赴くのをやめてください! むざむざ命を落としに行くような物ではありませんか!!」


 政治家や文化人が、力を持つのはいつの時代でも変わらない。しかしソクラテスが非凡なのは、彼の徹底した『善と美』についての、哲学にある。


「ダメだよプラトン。わたしはこの裁判に行かなければならない。わたしがここで逃亡すれば、彼らはこう言うだろう。

『見ろ、自分のやっている事にやましい所があるから、ソクラテスは逃げ出したのだ』と。

 わたしはそれを良しとしない。なるほどプラトン。君の言う事はもっともだ。きっとわたしは有罪となり、死を宣告されるだろう。しかしプラトン。わたしは善く生きる事が重要だと思うんだ。死んでも誠実に生きるべきだと思うんだ。善く生きれば……わたしが死んだ後、多くの人がわたしの正しさを理解してくれるだろうから」

「……そう、ですか。なら師よ、もう言う事はありません」


 そして、ソクラテスは予言通り――裁判により有罪、そして毒杯を仰ぎ死ぬ事となる。

 そして、ソクラテスの予言通り――多くの人がソクラテスの正しさを理解する事になる。

 しかし――


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