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第1章 姉との再会


「姉ちゃん、久しぶり」

 ワンピース姿の姉は、アラフォーだがウエストはくびれていて、肌にはしみ一つなく髪も綺麗だった。10歳は若く見えた。

「お父さんのお葬式以来ね」

「うん」

「あの時は全部、てっちゃん任せでごめんね」

「いいよ。姉ちゃんも大変だったんだから」

 葬儀の時に会った姉は、やつれていて目の下には黒い隈があった。

 だが、半年ぶりに会った姉は元気そうで、昔と変わらないその姿に胸が高鳴った。

 姉は仏壇の父の遺影から目をそらすと部屋を見回した。

「実家は本当に久しぶり」

「僕もだよ」

 二人とも高校を卒業すると実家を出て、正月くらいしか帰ることはなかった。それすら無い年もあった。

 そこで、会話は途切れた。

 姉とは長い空白の期間があり、会っても何を話していいのか分からなかった。

 黙っていると蝉の音が沁みるように鳴り響く、そして古びた畳の香りが、哲也を遠い日の記憶にいざなった。

 姉が家に来たのは11歳の時だった。父が再婚した女性の連れ子だった。哲也は父親と二人で暮らしていたので、女性が一緒に住むようになり家が急に華やかになった気がした。そして思春期を迎える哲也にとって義姉になる恵は身近な異性でもあった。

「そろそろお寺に行く?」

 姉の声で哲也は現実に戻った。

「うん」

 両親の墓があるお寺は歩いて10分ほどのところにある。父の初盆だったが声をかけるような親戚もおらず、墓参りは姉と二人きりだった。

 

「この後はどうするの?」

 墓参りを終えて寺を出たところで姉が訊いた。

「家で食事をしよう。デリバリーで鰻重を注文してある」

 哲也は奮発して国産の特上の鰻重を予約注文していた。

「外で食べることも考えたんだけど、お盆は父さんや母さんの霊が家に帰ってくるんだろう。だから家での食事にした」

「てっちゃんも、ちゃんと考えているんだ」

 姉はいまだに哲也のことを「ちゃん付け」で呼び、子どものように扱う。そんなところは昔から変わらない。そういう哲也も、姉のことを子どもの時のように今も「姉ちゃん」と呼んでいた。この呼び方はある意味では二人の距離を保つための防衛的措置でもあった。

 炎天下の外から戻ると、点けっぱなしにしていたクーラーの冷気が汗だくの火照った肌を冷やし、生き返ったような心地になった。

「鰻重は、あと30分くらいかかるみたいだ。それまで飲んでいよう」

 哲也はスマホのアプリで配達予定時間を見ながら言った。

「何か飲み物を買ってこようか?」

 姉が言った。

「大丈夫だよ」

「でもこの家は今は誰も住んでないんでしょ? 何もないんじゃないの」

「昨日、買い出しに行った。ビールや缶チューハイが冷蔵庫で冷えている」

「用意がいいのね」

「とりあえずビールでいい?」

「ええ」

 哲也はグラスと冷えたビールのロング缶を持って、リビングに戻った。

 ビールをグラスに注ぐと姉に渡した。

「こういう時って『献杯』でいいんだっけ」

「それでいいと思う」

「献杯」

 哲也は一気にビールを飲み干した。

 姉もグラスをあけた。

 哲也は姉にビールを注いだ。

「こぼれるわ」

 勢いよく注がれて泡が吹き出たグラスに姉が唇を寄せた。

 その仕草に哲也の胸はざわめいた。

 哲也のファーストキスの相手は姉だった。

 グラスにピンク色の唇を寄せる姉の姿が、その時のことを思い出させた。

「ねぇ、私の顔に何かついている」

 姉が訊いた。

「えっ」

「私のことじっと見ているからよ。てっちゃんなんか変よ」

 姉がからかうように言った。

 哲也は自分の心が見透かされているような気がして、話題をそらそうと思った。

「実は、姉ちゃんに話しておかないとならないことがあるんだ」

「どうしたの急にあらたまって」

「姉ちゃん、ほんとごめん」

 哲也は頭を下げた。

「なに?」

「実は父さんの遺産はこの家や株とかを合わせると軽く1億円以上になるらしい」

 父は退職金で株をやっていた。その株が爆上がりしていた。そして高井戸にあるこの一戸建ての家も地価の高騰でいい値段がついている。相続税のことで税理士に相談した時、その遺産の額に哲也は驚いた。そして、もうひとつ驚いたのは、姉に相続の権利がないことだった。依頼した税理士は戸籍を示して、姉は父と養子縁組をしていないので、父の遺産を相続する権利が無く、相続人は哲也一人になるというのだ。

「でも、姉ちゃんは相続できないらしいんだ」

 絞り出すように言った。

「知ってるわよ」

 姉はビールを飲みながら、あっけらかんとした口調で言った。

「知ってたの?」

 哲也は思わず訊き直した。

「ええ」

「いつから?」

「母がガンの告知を受けた後、母から死んだあとのことの相談を受けたの。母は、てっちゃんには相続権が無いけど、わずかばかりだけども遺産を渡したいって言って、それで遺言書を作ることになったの。その時に私も父さんとは縁組をしていないから、父さんの相続の時には相続権が無いことを知ったのよ」

 哲也はそうだったのかと納得した。

 義母が亡くなった時、哲也も遺産として100万円ほどの現金をもらったので相続権があると誤解していた。だから税理士から姉は連れ子なので相続権は無いと言われて驚いたのだ。

 だが、本当に衝撃を受けたのはそこではない。相続のことを調べているうちに法律上の血族ではないので、姉と結婚できることを知ったことだった。

「なんだ、知っていたんだ」

 それなら、結婚できることも知っているかと訊きたかったが、言葉が出なかった。

「最初から期待なんてしていないし、何もいらないわ」

「そういうわけにはいかないよ」

「相続権が無いんだから、下手に何かもらうと贈与になって税金がかかるでしょ」

 その話は税理士からも聞いていた。哲也が半分を姉に渡したいと告げると、それは哲也から姉への生前贈与になるので、莫大な贈与税がかかるだろうと言われた。

「てっちゃんが全部もらって」

「でも、姉ちゃんもいろいろ大変だろう」

 姉の顔に陰りが現れた。

「大丈夫。心配してくれてありがとう」

 父が亡くなった時、姉は離婚調停の最中だった。だから葬儀に姉は顔を出しただけで、色々な手続や片付けは哲也が一人でした。その後、姉からLINEで離婚することができたという短い報告があった。

「離婚したんだよね」

 姉は頷いた。

「慰謝料は取れた?」

 姉は黙って首を振った。

「どうして? だってあいつは姉ちゃんにひどいことをしたんだろう」

 葬儀の時に姉は離婚の理由を教えてくれた。姉は元夫にDVを受けていたのだ。しかもDVが始まったのは、夫が浮気したことを姉が知ったことがきっかけだという。浮気をしておいて、逆に姉に暴力を振るう元夫に対して哲也は憤った。最低の男だと思った。

「別れることができただけで十分よ」

「でも……」

「あなたにはこんな話をしたくなかったけど、梶山は賭け事と女遊びに狂い、借金だらけだったの。だから弁護士も入れて、家裁にも行ったけど、結局、分与する財産もなければ、慰謝料を払うだけの資力もないということで何も取れなかったの」

「どうして、そんな奴と結婚したんだよ」

 思わず言ってしまった。

「ほんと、そうよね」

 姉は俯いた。

 しばらくして、ビールのコップに水滴が落ちた。

 涙だった。

「ごめん。言い過ぎた」

「いいの。私が馬鹿だったの」

 姉は顔を上げた。

「てっちゃん、今日は飲もう」

 そう明るく言った。

 姉は立ち上がると、台所に行った。

 しばらくすると氷やウイスキーのボトルを持ってきた。

「ねぇ、この『響』はてっちゃんの?」

「まさか。お父さんのだよ」

「でも、今はてっちゃんのだよね」

「まあ、そうなる」

「飲んでもいい?」

「もちろんだよ」

「やった! てっちゃんも飲む?」

「ああ」

 手慣れた手つきでグラスを2つ並べると響を注いだ。

「飲み方はどうする」

「ロックで」

 姉はロックアイスを手づかみでグラスに入れた。綺麗に手入れされたネイルがグラスに映え官能的だった。

「じゃあ、今度は乾杯しよう」

「乾杯」

 哲也は姉とグラスを合わせた。

「ああ美味しい。国産のいいウイスキーは高くなりすぎて、飲めないのよね」

 嬉しそうに姉が言った。

 哲也は、姉が無理をして明るく振る舞っているように思えたが、それに合わせて相槌を打った。

 そうしているうちに特上の鰻重も届いた。

「すごい金額ね」

 姉は伝票の代金の数字を見て驚いた顔をした。

「代金は気にしないで。僕が持つから」

「でも……」

「僕が全部相続したんだから、これくらいのことは当たり前だろう」

「じゃあ、遠慮なくいただくわ」

 姉は幸せそうな顔をして特上の鰻重の蓋を開いた。

 美味しそうに特上の鰻重を食べている姉を見ながら、哲也はあの時のことを思い出した。

 父が再婚して一緒に暮らし始めてから数ヶ月経った頃のことだ。

 哲也はすぐに仲良くなった姉とじゃれるようにして一緒に遊んでいた。幼い時に母を無くし、家族に女性がおらず、温もりに飢えていた。それに性に目覚め始めていた時期でもあった。

 哲也は姉を抱きしめると「お姉ちゃん、だい、だい、だいー好き」と言った。

 そうすると姉も「私も」と言った。

 そして、驚くことに姉がいきなり哲也の唇に自分の唇を重ねて来たのだ。哲也は女性とキスするのは初めてだった。

 それを義母に見られた。

「あなたたち、何やっているの!」

 義母がヒステリックに怒鳴った。

「そんなことはしてはいけないの」

 すると姉が義母に反抗した。

「どうしてダメなの。私、将来、てっちゃんのお嫁さんになるんだから」

「何を言っているの! 姉と弟は結婚できないの。お付き合いしてもいけないのよ」

 その後、姉弟でそういうことをすることがいかに罪深い世間に顔向けできない恥ずかしいことなのかという説教が延々と続いた。

 それからは姉と二人きりでいると義母に監視されるようになった。

 哲也はこの事件がトラウマになった。だが、絶対に好きになってはいけない相手と思えば、思うほど、逆に姉への思いは強くなった。

 そして、姉が進学した都立高校に後を追うように哲也も進学した。偏差値の高い高校だったが同じ高校に行きたいという思いで受験勉強を頑張った。

 それでも哲也と姉の間には何もなかった。哲也はできるだけ普通の姉弟のように振る舞い続けた。しかし、哲也の心の深層での姉への気持ちは益々強くなった。

 高校を卒業すると、姉は進学校で成績がよかったにもかかわらず、大学には行かず、静岡県にある会社に就職してしまった。

 姉が去った家は哲也にとって抜け殻のようなものだった。

 哲也は姉がどこの大学に進学しても追いかけられるよう勉強していたので一気に気力を無くしかけた。だが気を取り直すと、哲也は姉が住んでいる静岡にある静岡大学を受験して合格した。しかし、姉は転勤で大阪に引っ越してしまった。そこからは完全にすれ違いで、姉とは年に1回会うか会わないかだった。

 大学生になり一人暮らしを始めた哲也は、姉を忘れようと、大学のサークルの先輩やバイト先の女の子などと付き合ってみた。だが誰と付き合っても夢中になれず、数カ月で別れてしまった。

 30歳を超えたところで、哲也は職場の同僚と結婚した。その同僚の見た目が姉そっくりだったからだ。

 しかし、性格は全然違っていた。

 結婚は数年で破綻した。原因は、哲也の姉への秘めた思いではなく、いつまでも子どもを授からなかったことだった。

 子どもを欲しがっていた妻は哲也に不妊治療に協力するように求めてきたが、仕事が忙しくなってきた哲也はそれが負担になった。

 そうしているうちに妻から離婚を言い渡された。

 子どもができないのは哲也のせいであり、妻は手遅れにならないうちにやり直したいということだった。

 哲也は黙って離婚届に署名した。

 離婚して実家に戻ると、姉がいつの間にか結婚していたことを知った。哲也は結婚式にも呼ばれなかったのでその事実を知らなかった。両親から話を聞くと姉が結婚したのは哲也が結婚してから5ヶ月後のことだった。

 哲也は何もかも失くしたような気持ちになった。

 そして昨年義母がガンで亡くなった。父は義母が亡くなると魂が抜けたようになり、今年の1月に買い物の帰りに転んで倒れた際に路面に強く頭を打ち脳出血し、それが原因で亡くなった。

 父の葬儀が終わってしばらくして、姉から離婚したという連絡をLINEでもらった。

 哲也はすぐに「慰労会をしよう」とリプライしたが、姉からは「今は疲れていて、そういう気分ではない」とやんわりと断られた。

 そこで哲也は、父の初盆の機会を待った。

 初盆で墓参りをするということなら、姉も断らないだろうと思ったのだ。

 そして、今日、やっと姉と会うことができたのだ。

 これまで義母に二人が付き合うことは禁忌であり罪なのだと刷り込まれ、トラウマになっていた。

 だが、今は違う。法的にも倫理的にも何も問題はなかったのだ。

 そんな状況で姉に会うのはこれが初めてだった。

 哲也は、今夜は姉を帰したくないと思っていた。

 これまでの思いを告白したかった。

 しかし、もし姉が「弟から告白されるなんて気持ち悪い」と拒絶されたらどうしようとも思っていた。姉に変態だと思われたら、それこそ、もう一生会うこともできなくなるかもしれない。

 哲也は鰻重を美味しそうに食べる姉を見ながらどうするかを迷っていた。





【作者からのお願い】


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