第五話 求婚
結婚。
そう言った瞬間の、彼女の目の輝かせ方と言ったら。まるで初めての恋を知って、心を弾ませる少女のようだった。潤んだ空色の瞳が揺れ、思わず吸い込まれそうになる。
顔の輪郭に被る横髪から覗いた、せわしなくぴょこぴょこと動く両耳を、真っ赤に染めて。全身を駆け巡るむず痒さと羞恥心で落ち着かないのか。もじもじと体をくねらせながら。
それでも真っ直ぐに。射貫くような視線を、俺に向けて来る。
俺の反応が気になって。でも、拒絶されるのが怖くて。
それは、すぐにでも俺の足元へと視線を逸らしたい衝動と。でも同時に、絶対に俺の顔から視線を逸らしたくないという決意の狭間にいるかのような。俺にも同じような経験があるから、その揺れる気持ちはわからないでもない。
俺が、幼馴染に自分の想いを伝えた時も、そうだったから。
凛々しく吊り上がっていた彼女の目は、今は力なく伏せがちで。過剰に背筋をピンと伸ばし、落ち着かなそうに髪をいじる仕草は。『美しさ』よりも『愛らしさ』が際立って見える。
(女性が髪をせわしなく触っている時は、確か心を落ち着かせたい時だったか)
これは書で読んだ内容を、フィオナに直接尋ねたことがあるから覚えていた。そういえば、勇者の味方ばかりするようになってから、俺の前ではいつも触っていたっけ……。
「……えっと、結婚? 好き合ってる男女が、生涯をともにしようっていう、あの――」
「そ、そうだ! その結婚だ! 私は貴方と結婚したい!」
俺の言葉に被せるように。力強く声を張りながら。彼女は俺に、ぐいぐいと迫って来た。
しかし。その言葉が、どうしても呑み込めない。
だって俺は、勇者パーティの活躍に最後まで貢献することができず。愛した女性からも愛想を尽かされた。もう何者でもない、ただの黒魔導士でしかなく。今も胸の内ポケットに入っているお守りは、愛する人を守り続けると誓った、あの日の残影そのもの。
だからこそ。俺は彼女が向けてくるその好意を、素直には受け取ることができなかった。
(ダメだ。そんな風に言われたら、どうしても思い出しちまう……)
誰かに好意を持たれているという心地よさに、再び希望を見出してしまいそうになり。それでも、一度は将来を誓ったはずの幼馴染の、俺を手ひどくフッたあの瞬間の氷のような眼差しが脳裏に蘇って。俺の思考が、ゆっくりと、じっとりと。黒い泥で満たされて行く。
その間も。口の動きから、彼女が続けて何か言葉を発しているのがわかるけど。結婚という言葉があまりの衝撃的で。いまだ癒えていない心の傷に、焼けた火箸を押し付けられようとしているかのような絶望感に包まれた。
だから今。彼女が口にしているであろう言葉は、まったく耳に入っていないけど。
彼女が何かを言っているなら、それに応えなければならない。
「……ちょっと待って。何で、その結論になったの?」
何とか言葉を絞り出す。
これ以上彼女の感情を高ぶらせないよう。ゆっくりと。息を吐くように。
俺の声の低さに驚いたのか。彼女の勢いは削がれ。一気にトーンダウンした。
「あ、あの……。 勘違いしないで欲しいんだ。本当は、こんなことを言うつもりじゃなかった。私は、本当に、ただ純粋に……。ともに魔族と戦ってくれる仲間を求めていて――」
自分でもどうしようもないくらい、ふと湧き上がった衝動に振り回されて。いかにも、ついぽろっと口から出てしまったというような、その戸惑い。不可抗力から発された『結婚』という言葉。
しかし、口にしてしまった以上、想いは膨れ上がって行くため、後には引けず。それ故に、あれこれと言葉を尽くすしかないのだと。
それでも。彼女は一度目を閉じて。ゆっくりと大きく息を吐き。
次に目を開けた時には、彼女の瞳から迷いや戸惑いは消えていた。
たぶんそれは。彼女がエルフで。俺が思っているよりも、ずっと長い時を生きているからこそ辿り着いた。一種の達観による、自身の客観視の賜物だったのだろう。
次に彼女が紡いだ言葉が、それを俺に教えてくれた。
「私は美しいものが好きだ。流れる星のような束の間の強い輝きではなく。私と同じ、あなたのその生き様が。この剣のように研ぎ澄まされ、磨き上げられた刃にこそ宿る、恒久的な煌めきと同じに見えて……」
歌うように綴られる言葉が、俺の汚泥に満ちた心に、一条の光となって差し込む。
「驕らず、堅実で、でも強かで。そんなところをこそ、私は認め。ずっと傍に置いておきたいと。そう切望させるんだ」
彼女が自らの剣に注ぐ、真っ直ぐな瞳が教えてくれる。
「私は欲しい。この剣に勝るとも劣らない。あなたが努力の果てに得たであろう、その魂の煌めきが」
柔らかで、暖かくて、心地よい。まるで春の日の太陽のような。そんな優しく包み込むような笑顔で。心を凍てつかせ、魂を蝕んでいた汚泥を。その温もりで溶かし、洗い流すように。俺を――。俺の心を解き放つ。
「だから私は、この生涯を貴方に捧げる。私が、この剣に命を預けているのと同じように。おとぎ話の大英雄としてではなく、エルフという一種族としてでもなく。純粋に、私個人として。貴方を――。この命尽きるまで、愛し続けると誓おう」
彼女の色白の手が、俺に差し伸べられた。
それはいつだったか、極東に伝わる伝承について記された書で中で見た。まさしく天から降りて来た、一筋のクモの糸のようで。
「もちろん、いきなり結婚まで行かなくてもいいんだ。どうか私の隣で……。ともに笑っていてくれないか?」
そう言って、俺に向けられた瞳もまた。剣に注がれていたのと同じくらい。いや、もしかしたらそれ以上に。清々しいくらい真っ直ぐで、煌めいて見えた。
「だから。そんな顔をしないで欲しい。未だ名も知らぬ、黄昏色の君。きっと貴方には、世を照らす太陽のような笑顔こそが相応しいと。そう思うから」
俺は……。
俺は今、どんな顔をしている?
たくさんの感情と、いくつもの思考を内包した俺は――。
ふと感じた、頬を伝う熱さ。
その正体を俺は知っている。
そうだ、これは――。
涙。
そうか。俺は今、泣いているんだ。
男の癖にみっともなく。人前で、それも女性の前で、ボロボロと涙をこぼして……。
目の前にいるのが師匠だったら、『男の癖に女々しいところを見せるんじゃぁない!』とか言って、きっと。あの女の癖に恐ろしく硬い拳で、ボコボコに殴られていたことだろう。
でも師匠は、俺をしこたま殴った後で。痣だらけの顔で半べそをかく俺に、いつもこんな風に言うんだ。
『男なら、人前で流す涙は、本当に必要な時まで取って置け。それを受け止めてくれる相手が現れたなら、きっと。そいつはお前を、絶対に裏切らない』
なんて。
久しぶりに泣いたことで。不意にそんな風に、師匠のことを思い出したり。
「……ダメか?」
ふと意識が現実に戻れば、目の前にはウィルテイシアがいて。
どこか寂し気で、悲し気で。ともすれば、目尻に涙でも溜めていそうなほど儚く。でも、そんなものの一切を蹴っ飛ばしてしまうような満面の笑みを、俺に向けてくれていた。
だからこそ。伸ばされたまま行き場のない、彼女の手が。とても寂しそうに見えて。
俺の手が自然と上がり、彼女の小さな手に重なる。
「……いいのか? 俺で――」
「その言い方は違うぞ? 黄昏色の君。私は、貴方がいいと。貴方でなければならないと、そう言っているんだ」
空色の瞳に映る俺。
ツンツンとした黒のショートヘアの、ほっそりとした輪郭の顔が。彼女の瞳の中に。色鮮やかに映っていた。
その宝石のような瞳に映る俺は、大して顔がいい訳でもなく。覚えやすい特徴がある訳でもない。どこにでもいるような、平凡で、無個性の、しょうもない男の顔をしている。
しかも今は涙でぐしゃぐしゃで、身なりもボロボロで。とても見れたものではない。
それでも、彼女は微笑んでくれている。
ならば、俺は……。
勇者パーティーの一員でなくなったことで。将来を誓った恋人に手ひどく裏切られたことで。もう誰の役にも立てない。誰のためにも生きられないと。そう思っていた俺に。
もう一度チャンスをくれるなら。彼女が希望の光をくれるなら。今一度立ち上がってみるのも、いいのではないかと。
「ところで、そろそろ名前を教えてくれないか? いつまでも黄昏色の君では、正直味気ないし。何より、貴方にその色は似合わない。それでは隣に立つ私の想いも、空滑りするというものだろう?」
空滑りなんて言葉は、俺の知る辞書には載っていないけれど。それでも言いたいことはわかる。
名前の大切さは、俺が魔導士であればこそ、軽視してはいけない。
名前があるということは、その存在を認めるということ。
存在することを肯定する。存在することを許される。そんな大事な要素なのだから。
だから俺は、彼女に名乗らなければならない。
俺という存在を肯定したいと、そう申し出てくれている彼女に。
「……ライオット。俺の名前は、ライオット=ノールディだ」
俺の名を聞いた彼女は、一層明るい笑みを浮かべ。そして、握った手に力を込めた。
「……そうか。それじゃあライオット=ノールディ。改めて名乗ろう。私はウィルテイシア。エルフの里――ソラレスタのウィルテイシアだ。人間と違って姓という文化がないから、ただウィルテイシアと。そう呼んで欲しい」
この時の彼女の顔は、俺の生涯において、最も重要となる記憶になるが。それはまだ、少し先の話。
とにかく。俺は握られた手を握り返し、そして改めて、彼女の名を呼ぶ。
「こんな情けない男だけど。まずは君の旅の道連れとして頼むよ、ウィルテイシア。結婚云々に関しては……。その……。俺の心の整理がつくまで、待っていてくれるとありがたいかな」
空いた手で涙をぬぐいながら。
俺は、今できる精一杯の笑顔を、彼女に向けた。
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