交渉決裂、その愛は火炎となる
「──美月は、死んでも貴様のような外道には渡さん!!」
王城の回廊で繰り広げられる、異界の転移者・大久保拓真による一方的な蹂躙。
前世の記憶を泥靴で踏みにじられ、激しい衝撃と共に両腕の骨を粉砕された美月が血の海に倒れるなか、拓真の矛先は第一王子エドワードへと向けられる。
死の恐怖に怯え、一度は交渉を試みたエドワードだったが、拓真が美月を「前世の男へのあてつけの道具」として辱める言葉を口にした瞬間、彼の理性を憤怒の劫火が焼き切った。
王城、第一王子エドワードの寝所へと続く回廊。
そこには、精鋭のはずの宮廷護衛騎士たちが、まるでゴミのように無残に叩き潰され、血の海の中に転がっていた。
「ひっ……!」
暗闇から現れた禍々しい影と対面し、美月は息を呑んだ。
「おほっ、まさか本当にお前だとはな……! 会えて嬉しいぜ。――『須藤涼翔』の、お高くとまった彼女さんよぉ」
「えっ……」
美月の頭が真っ白になる。なぜ、この見知らぬ男が、あの世界の彼の名前を知っているのか。
異世界の記憶という、自分と涼翔だけの不可侵の聖域を、泥靴で容赦なく踏みにじられたような激しい不快感と恐怖が、彼女の全身を駆け巡った。
「まぁ、覚えてねぇのは無理ねぇか。こっちは時間がねぇんだ。エドワードとかいう王子様を殺ったあと、お前を連れ帰って……涼翔の代わりに、たっぷり可愛がってやるよ……!」
拓真が凶暴に地を蹴る。美月は咄嗟に『アクアプレッシャー』を連発し、狭い回廊を圧倒的な水の圧力で埋め尽くした。
「やるじゃねぇか!」
だが、拓真はその水圧を強引に相殺し、致命傷を負っても強引に即座に再生させながら、一瞬で間合いを詰めてくる。
(速すぎる……っ! もしかして『フィジカルアップ』を使いながら、同時に『自己治癒』しているの!?)
背後の重厚な扉が開き、エドワードが飛び出してくる。
「エドワード様! 逃げてください! 相手は私と同じ、異界の者です!」
「君を置いて逃げるなど、できるわけないだろう!」
エドワードが『ファイアボール』を放ち応戦するが、拓真は鼻で笑う。
「けっ、王子様は大したことねぇな!」
拓真の放った『アイスジャベリン』が、ファイアボールを正面から掻き消しながらエドワードへと襲いかかる。美月が必死にそれを相殺したその一瞬の隙を、拓真は見逃さなかった。
「隙だらけだぞ、聖女様?」
放たれた容赦のない重い蹴りが、防壁を築いた美月の両腕をへし折らんばかりの勢いで吹き飛ばす。
「かはっ……っ!!」
激しい衝撃に激痛が走るが、肩で息をしながら、美月はすぐに立ち上がった。
「エドワード様、逃げて……! 私が時間を稼ぎます! きっと……ゼクスが、来てくれるから!」
その細い身体は、ここ数ヶ月の血の滲むような特訓により、三倍の『フィジカルアップ』と『自己治癒』を、全身の血管が焼き切れるような激痛の中で、同時に維持できるようになっていた。
すべては、この世界で大切な人と一緒にいるための力。
「……へえ、しぶといな聖女様。お前も三倍まで引き上げてんのかよ」
拓真が、全く同じ「三倍の暴力と持続回復」を纏い、嘲笑う。
魔術の同時使用においては美月が拓真を凌駕していた。だが、決定的な元々の筋力差、そして何より、人を殺めることに一ミリの躊躇もない「殺意」の経験値が、圧倒的に足りていなかった。
「エドワード様には……指一本、触れさせない!」
「いいぜ、じゃあまずはお前から粉々に壊してやる!」
通路一帯を猛烈な濁流で押し流す『ハイドロプレッシャー』を放つ美月。
拓真は天井の石材を突き破る跳躍でそれを回避すると、砕けた破片と共に急降下し、美月の眼前に死神のごとき笑顔で現れた。
一進一退の、しかし確実に美月が削られていく攻防。ミシミシと悲鳴を上げる骨格を、自己治癒の魔力で強引に繋ぎ止めながら打ち合うという、正気とは思えない狂気の光景。
(美月は、これほどまでに成長していたのか……これが、異界の者同士の戦い。だが、私とて……!)
「ここだっ!」
隙を突き、エドワードが拓真の側面から決死の覚悟で斬りかかった。
だが、拓真は紙一重で後方へ跳躍し、エドワードの剣は空を切る。そして、その体勢のまま、拓真の超高速のカウンターの蹴りが放たれた。
――その一撃を、美月は咄嗟に自分の身体で庇った。
凄まじい衝撃と共に美月の防御は粉砕され、彼女の腕の骨が、嫌な音を立てて完全に砕け散った。
そして、身体は紙屑のように宙を舞い、石壁へと激突し、強固な壁を深く陥没させた。
「――美月っ!!」
エドワードの悲痛な叫びが響く。美月の肺からすべての空気が絞り出され、視界が急速に明滅していく。
彼女は大量の血を吐きながら、その場にぐったりと崩れ落ちた。
「終わりだ。王子様も、お前も――」
拓真が無防備になったエドワードへと、獲物を品定めするような足取りで歩み寄る。
その絶対的な暴力を前に、エドワードの膝は小刻みに震え、顔面は蒼白に染まっていた。死の恐怖が、彼の全身を支配する。
「お、お前の望むものをやろう! 金か、地位か……この国で望む限りの事を約束する。どうだ? 悪い話ではないだろう!?」
拓真の足が、ピタリと止まった。
「そうだなぁ。じゃあ、あの女を俺にくれりゃあ、考えてやるかもしれねぇなぁ」
拓真は壁際でピクリとも動かない美月を親指で指し、下卑た、どこか狂ったような笑みを浮かべた。
「前世で須藤の女だった奴がさ、この異世界で新しい男を作って、その婚約者の目の前で俺に組み敷かれて絶望する……。想像するだけで、最高に気分が良さそうだ。なぁ、王子様よぉ?」
――その瞬間。
先ほどまで死の恐怖に怯え、膝を震わせていた人物とは別人のように、エドワードの瞳に、凄まじい憤怒の劫火が灯った。
自分が心から愛する人。そして、今もなお自分の命の盾となって、ボロボロになりながら守ってくれた大切な女性を、ただの「道具」として、男へのあてつけとして辱める。
その悍ましい事実が、彼の王子としての誇りを、一人の男としての理性を、完全に焼き切った。
「交渉決裂だ。……美月は、死んでも貴様のような外道には渡さん!!」
エドワードの魂の叫びと共に、回廊の空気が一気に膨れ上がる。
彼が行使した『ファイアボール』の弾幕は、先ほどまでの怯えが混じったものとは比較にならないほど、威力も、数も、その密度も跳ね上がっていた。
「ひゅう! 王子様もやればできるじゃねぇか。だが……!」
けれど、拓真は表情一つ変えず、迫り来る炎の弾幕を暴力でいとも簡単に相殺していく。爆炎の中で、拓真の冷酷な瞳がぎらりと光る。
(勝てない……。今の私では、こいつに傷一つ負わせることも叶わないだろう)
それでも、エドワードの瞳に諦めの色は、微塵もなかった。
(だが……一秒だ。一秒でも長く、私がこの場に踏み止まる。私がここで盾になれば、その分だけ、あいつ――ゼクスが間に合う可能性が上がる……っ!)
皮肉なことだった。かつては美月の心を占めるその存在を疎ましく思い、激しい嫉妬の対象でしかなかった男の圧倒的な『力』を、今は世界の誰よりも求めている。
たとえ魔力が尽きようとも、この肉体が消し飛ぼうとも、この男だけは一歩も先へ通さない。その一人の男としての執念だけが、彼の震える身体を、辛うじて支えていた。
拓真の容赦のない拳が、無防備なエドワードの顔面へ向けて振り抜かれる。
エドワードはただ、眼前に迫る絶対的な死の拳を、真っ向から、傲然と睨みつけていた。
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