ゼクスという猛毒を心臓に刻み。エドワードの腕の中で、彼女はかつての面影を追う。
「……私にも、そんな風に壊れるほど執着してほしかった」
ゼクスがセシルを守るために放った「王国を滅ぼす」という言葉。
それが美月にとって、自分に向けられていたはずの愛が完全に他人のものになったという、残酷な最後通牒として響き渡る。
かつての涼翔が、自分だけのために壊れてくれたあの日々。
今は別の女のために国さえ人質に取る彼の姿に、美月の中で何かが完全に「死んだ」。
絶望の淵でエドワードの腕に身を預け、仮初の温もりに逃避する美月。
しかし、その心臓の奥深くには、皮肉にもゼクスという猛毒がより深く、鋭く刻み込まれていく。
有事の際、持てる力のすべてを貸す。
その約束を交わし、ゼクスは謁見の間を後にした。
整然と並ぶ騎士たちの横を通り過ぎ、住み慣れた家へと続く帰路につく。前線へ赴く兵士たちには申し訳ないという思いはある。
だが、それ以上に今のゼクスを突き動かしているのは、美月の傍からも、セシルの傍からも離れたくないという、身勝手で切実な独占欲だった。
「ねぇ、スーちゃん。さっきの言葉、本当に嬉しかった」
不意に、隣を歩くセシルが腕を絡ませ、体重を預けてきた。その水色の瞳が、試すようにゼクスを見上げる。
「……私のためなら、王国さえも敵に回していいってことだよね?」
ゼクスは足を止めず、前を見据えたまま静かに答えた。
「ああ。もしセシルに何かあったら……俺は自分を、そしてこの世界を許すことはできない」
それは本心だった。だが、セシルの問いはそこで終わらない。彼女はゼクスの心の「澱」を、正確に指先で掻き回す。
「でも。もし美月様が戦地へ行くことになっていたら……スーちゃんは私を連れて、迷わず戦地へ行ったんでしょ?」
ゼクスの足が、一瞬だけ止まる。
「……ごめん、セシル。その通りだ。否定はできない」
誤魔化すことはできなかった。嘘をあまりつけないゼクスの誠実さが、今は逆にセシルを傷つける。
「けど、セシルが大事なのは間違いないから……!」
「はぁ……。スーちゃんって、本当にズルい人」
セシルは力なく笑い、彼の腕をより強く抱きしめた。
「いつになったら、私だけを見てくれるのかな。美月様が……正式にエドワード様と結婚したら、なのかな?」
いずれ必ず来てしまう、その日。「正式な王妃」として他人のものになる彼女。
逃れられないカウントダウンの音が、平穏な夕暮れの街並みに冷たく響いた。ゼクスはその音から逃れるように、自分に縋り付くセシルの温もりを、縋り付くように抱き寄せた。
────
王城。軍議に参加していなかった美月に伝えられたのは、決定事項という名の「事実」だけだった。
魔術師団長キュラム、騎士団長レイヴン、副騎士団長ヴォルフガング。王国の誇る主力兵の大半が出撃し、万一に備えて宮廷魔術師エレノアが駐屯する。そして美月にも、有事の際の城内守備が命じられた。
「……ゼクスは、どうするのですか?」
震える声で、美月は尋ねた。
(……お前もか。お前もまだ、あいつを気にするのか)
エドワードは内心で苦い舌打ちをしたが、表面上は穏やかな王子を演じ、事実を告げる。
「ゼクスも協力してくれることになった。おかげで戦力を大幅に割くことができる。……本当は、彼にこそ戦地へ行ってほしかったのだがな」
「……行かないのですか?」
「ああ。セシル殿を危険な目に合わせたくないそうだ。そして、もし自分のいない場所で彼女に万が一のことがあれば、『王国を滅ぼす』とまで脅されては、承諾するしかなかろう。……呆れたものだ。一人の女のために、この国のすべてを灰にすると豪語するとはな」
その言葉が、美月の心臓を凍りつかせた。
(……王国を、滅ぼす?)
かつて。あの世界で、自分を包み込んでくれていた、重すぎるほどの愛。
私が、彼にとっての「世界」のすべてだったあの頃。
けれど、今。
その狂気じみた情熱は、全力で別の女へと向けられている。
自分を守るためではなく、あの女の安全を確保するために、彼は国すら人質に取ったのだ。それは美月がかつて独占していた「涼翔のすべて」が、完全に他人の手に渡ったという最後通牒のように聞こえていた。
(今はもう、国よりも……私よりも、あの女が大事。……そういうことなのね、涼翔。私の知らないところで、あなたはあの子のために、そこまで壊れてしまったのね)
美月は絶望の淵で、膝が震えるのを必死に堪えていた。
視界が歪み、足元の絨毯が奈落のように深く沈んでいく感覚。自室で一人、フィジカルアップの訓練に耐えていたあの苦痛すら、今の喪失感に比べれば微々たるものに感じられた。心に穿たれた巨大な穴に、冷たい風が吹き荒れる。
(……もう、いい。……もう、いいよ)
彼女の中で、何かが完全に「死んだ」。
愛への未練が死に、代わりに芽生えたのは、その空虚を埋めるための自暴自棄な「諦念」
美月は、目の前で優しく自分を支えるエドワードの腕に、深く身を預けた。
けれど、ただ、凍えそうな心を温めるための、仮初の温もりへの逃避だった。
「……ありがとうございます、エドワード様」
虚ろな瞳で微笑む美月。その姿に、エドワードは勝利を確信し、満足げに彼女を抱き寄せる。
だが、美月の耳に響いていたのは、エドワードの優しい囁きではなく、「国を滅ぼすほどに誰かを愛せる涼翔」の面影だった。
(……あの子にするみたいに、私にも、そんな風に壊れるほど執着してほしかった……)
エドワードの胸に顔を埋めながら、美月は自分でも気づかないうちに、ゼクスという猛毒をより深く、心臓の奥底へと刻み込んでいた。
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